第3部 三時の算定

 春に連れられて#ファルは魔法学校の近くの喫茶店に入った#大通りに面したこぢんまりとした店で#外観は長方形の趣だった#春は何の躊躇いもなく店に入ったが#ここに科学校の関係者が立ち入ることは滅多にない#案の定#彼女のその姿は#店員や客の目を引いくことになった#


「なんか,見られてる?」春は振り返って#ファルに確認する#


 円形のテーブル席について#二人はコーヒーを注文した#前払いだから#ファルが二人分の料金を支払った#ここで使える通貨は限られている#すぐに飲み物が来て#ファルはそれを一口飲んだ#何度か飲んだことがある味だ#春はまだ飲んでいない#熱いものが苦手なのかもしれない#


 彼女の胸もとの大きなリボンは#科学校の中でも彼女のランクが最高位であることを意味している#すなわち#普通に講義を受けているだけでは入ることのできない#特別な学年に進級することが約束された生徒だ#ファルがそのことを指摘すると#春は少し笑って#しかし#首を横に振った#


「もう辞めちゃったから」と彼女は言った#


「辞めた?」ファルは尋ねる#「どういうこと?」


「もう,科学校には通っていない.この制服も,もう少ししたら返さなければいけないんだ」


 そこで春はコーヒーを飲んだ#


 しばらくの沈黙が続く#


 店内に流れる音楽が聞こえていた#この店には#電気で動くものが一つもないから#その音楽も#この喫茶店の店員の魔法によって奏でられているものだろう#


「どうして辞めたの?」沈黙が耐えられなくて#ファルは自分から質問した#


「うーん」窓の方に向けていた顔をこちらに戻して#春は尋ねる#「どうしてだと思う?」


 ファルは首を傾げる#彼女のことなど何一つとして知らないのに#どうやって答えたら良いのか#分からなかった#


「何か、不祥事があったとか?」考えた結果#彼は当たり障りのない考えを披露した#


「違うよ」春は首を振る#「そんなふうに見える?」


「分からない」ファルは答えた#「じゃあ、どうして?」


 ファルがもう一度尋ねると#春は腕を組み#天井に視線を向けて#短く唸った#少し前から分かっていたことだが#彼女はやや落ち着きがない#何かしら動いていないと落ち着かないみたいだ#もっとも#その余計な動きは#かなり洗練されていた#一切無駄がないといって良い#


「純粋に,学校にいたくなくなったからだよ」春は答えた#「それから,恋をしたくなったから」


「恋?」ファルは自分が怪訝な顔をするのが分かった#


「そうだよ」春は頷く#「恋」


 ファルには#目の前の彼女の言うことがよく分からなかった#いまいち繋がりが見えてこない#からかっているのだろうか#と思う#しかし#自分が今からかわれているのか#そうでないのかを判断できるほど#彼には対人関係の経験はなかった#


 春はまた窓の方を向いてしまう#頬杖をついたまま黙ってしまった#


 ファルは#横を向いている春の顔を観察する#これが科学校に通う生徒か#と思った#何の差別的な感情もなく#ただそう思っただけだ#自分達と違うような気もするし#何も変わらないようにも思える#しかし#彼女はすでに科学校の生徒ではない#学校を辞めたという話が本当なら#彼女は少々特殊かもしれない#


「君は,どうして魔法を学ぶの?」


 不意に春が尋ねてきた#


「え?」ファルは飲みかけていたカップから口を離す#「どうしてって……」


 答えるのに困る質問だった#彼が魔法を学んでいるのは#そういう流れだったからとしか言いようがない#家系が#科学ではなく#魔法の側にあったというだけだ#自分で決めたわけではない#しかし#彼がそれを不満に思ったことはなかった#ただ#科学を学ぶ者達は#自分達とは違うとなんとなく意識してきたにすぎない#


「私の通っていた学校ではね,新しいものを考えたり見つけたりすることが第一だった」春は言った#「そういうものを考えたり,見つけたりして,文章にする.そこに書かれていることの妥当性をほかの人にも判断してもらって,それが保証されると,ランクが上がる仕組みになっていた」


「その結果が、それ?」そう言って#ファルは春が身につけている胸もとのリボンを指で示す#


「そうだよ」こちらを向いて#春は頷いた#「ほかにこんな生徒なんていないよ.私,自分でお金を払わなくても,特別な学年に進級することができたんだ」


「それは凄い」ファルは正直な感想を口にした#


「凄いでしょう?」そう言って#春は両腕を広げる#しかし#すぐに頬杖をついて#彼女はまた窓の向こうに視線を向けた#「でも,もう嫌になっちゃった.どうでもいいんだ,そんなこと」


「そんなことって?」


「新しいものを考えたり,見つけたり,それを人に評価されたりとか……」春はそっぽを向いたまま話す#「教官には,いつも,自分にしか考えることのできないことを考えられるようにって言われた.でもさ,そんなものを考えたところで,何になるんだろう.それって,幸せなことなのかな?」


 ファルは#一瞬#自分の呼吸が止まるのを感じた#


 その言葉は聞いたことがあった#


 いや#聞いたことがあるという程度ではなかった#


 毎日聞いている#


 今日も聞いた#


 ほんの数時間前に……#


「それでね,私,思ったんだ」またこちらを向いて#春は話す#「私が本当にやりたいことってなんだろうって」


「へえ。何?」ファルは尋ねた#


「それが,恋だった」春は答える#「私,誰かを好きになってみたい」


「へえ……」ファルはいまいち整理のつかない頭で相槌を打つ#


「そして,その相手が,君」


「は?」


 自分の持っていたカップが傾いて#ソーサーの上に茶色い液体が零れるのを#ファルは視界の端に確かに見た#

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