第3話:異世界経理

「困っていたこと、ですか?」


 中原は前のめりになった。宿屋の女将・シルヴィアは真剣な顔で頷く。


「はい。この宿屋の帳簿のつけ方が曖昧で…。代々引き継がれてきましたが、何にいくら使い、いくら入っているのか、正確なところが分からないんです。特にお客様が増えてからは、管理がずさんになってしまって…」


 シルヴィアは困ったように眉を下げた。帳簿管理の曖昧さは、資金の流れの不透明さ、無駄遣いや不正のリスクに直結する。中原の脳裏には、かつて会社で経験した経費精算の不備や予算管理の難しさが蘇る。


「なるほど…帳簿が不透明、ですか」


 中原は考え込んだ。現実世界なら会計ソフトや専門家がいるが、ここは異世界だ。紙とペン、あるいはこの世界の記録方法に頼るしかない。それでも基本的な考え方は変わらないはずだ。


「もしよろしければ、その帳簿を見せていただけますか? 完全に理解できるかは分かりませんが、何かお役に立てることがあるかもしれません」


 中原の申し出に、シルヴィアは目を輝かせた。


「本当ですか! ええ、ぜひお願いします!」


 シルヴィアに案内され、中原は宿屋の帳場へ。そこには使い込まれた分厚い帳面と、複雑な記号が並んだ木製の板があった。シルヴィアの説明によると、これが宿屋の「帳簿」らしい。


 中原は恐る恐る帳簿を手に取った。日付と、何をしたか(「客室清掃」「食事提供」など)、そしていくつかの数字が記されている。しかし、収入と支出が混在しており、それぞれの項目がどう関連しているか全く分からない。これでは経営状況を正確に把握するのは不可能だ。


「うーん…これは、なかなか…」


 中原は唸った。彼の知る複式簿記とは全く違う。収入と支出を独立した項目として記録し、それが最終的に経営状況を示す、という繋がりが見えてこない。


「やはり、難しいでしょうか…?」


 シルヴィアが不安そうに尋ねた。


「いえ、難しいというわけでは…。私の知っているやり方とは少し違うので、どうすれば分かりやすくなるか、少し考えさせてください」


 中原はそう言って帳簿をめくり始めた。項目を分類し、収入と支出を分け、それぞれの合計を出す。頭の中で、会社の経理システムで行っていた作業をシミュレーションする。この世界の単位や記号が分からず戸惑ったが、シルヴィアに聞きながら一つずつ確認していく。


 数時間後、中原は結論に達した。


「シルヴィアさん。一つ、提案があります」


 中原は顔を上げた。


「この帳簿のつけ方を、少し変えてみませんか? 収入と支出を分けて記録し、月に一度、それを集計して、宿屋全体でどれくらいの利益が出ているのか、あるいは何に一番お金がかかっているのかを、誰にでも分かるようにするんです」


 それは、中原が現実世界で当たり前のように行っていた「月次報告」の考え方だった。経費削減や業務改善には、まず現状を正確に把握する必要がある。そのためには透明性のある帳簿が不可欠だ。


「収入と支出を分ける…月に一度、集計…ですか?」


 シルヴィアは首を傾げた。彼女にとっては全く新しい考え方だったようだ。


「はい。そうすれば、どこに無駄があるのか、どこをもっと伸ばせるのかが見えてきます。例えば、この月の『食材費』が他の月よりずいぶん多いですが、何か理由があるのでしょうか?」


 中原が帳簿の一項目を指差すと、シルヴィアはハッとした。


「ああ…その月は、珍しい食材を仕入れて特別なメニューを出したんだったわ! それが好評で、たくさんのお客様に来ていただけたの!」


「なるほど。それは素晴らしい。そういった、『投資』に対して、どれくらいの『リターン』があったのか。それが帳簿上で分かれば、今後も同じようなことをするかどうかの判断材料になります」


 中原は、ビジネスで培った言葉遣いを異世界仕様に調整しながら説明した。投資、リターン…シルヴィアには聞き慣れない言葉だったかもしれないが、中原の言いたいことは理解できたようだった。


「それは…とても分かりやすいですね! でも、どうすれば、そんな風に記録できるのでしょう?」


「そこで、お願いがあるのですが…」


 中原は、この世界の「記録」に関する知識を持つ人物を探す必要があると考えた。彼の知る会計システムをこの世界に導入するには、この世界の道具や技術を利用する必要があるからだ。


「このあたりで、昔から記録術に詳しかったり、数字の扱いに長けていたりする方をご存知ないでしょうか? できれば、少し変わった…『魔法』のようなものにも通じていると、助かるのですが…」


 中原の言葉に、シルヴィアは再び目を輝かせた。


「ええ! いらっしゃいますよ! 街はずれに、キャサリンさんという方が! 昔は王宮で学者をされていたそうで、変わった記録の道具や、数字にまつわるお話がお得意なんです!」


 キャサリン。その名前を聞いて、中原の心に希望の光が灯った。彼女との出会いが、異世界での第一歩を踏み出す鍵となるだろう。透明な帳簿の導入。異世界ビジネスコンサルタント、中原信也の最初の仕事が、いよいよ始まろうとしていた。

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