レンブランサ ―名前を知らなくても、あなたに惹かれていた―

名無しマッチ

第1話 これは、最初の出会いではなかった

「……ここ、どこ……?」


 目が覚めたとき、天井が見えた。

 木の板。薄く浮いた節目。窓の外は、やけに青い空だった。


「あれ……」


 口から出た声は、自分のものじゃないみたいに軽かった。


 指先を見た。

 細くて、小さい。


「……私……」


 言葉がそこで止まる。


 名前が、出てこない。

 家も、友だちも、仕事も……


 思い出せない。


 でも──


「……ごめんなさい……」


 なぜか、その言葉だけが、震えるように出てきた。

 自分でも、理由がわからないのに。


 じわり、と、頬を伝う涙。


「……ノア……」


 その名前だけが、ぽろりとこぼれ落ちた。

 意味はわからない。でも、きっと、それが私。


 誰に呼ばれたんだろう、この名前を。

 それすら、ぼんやりしてる。


 でも──なぜだろう。

 心の奥が、ずっと冷たくて、誰かを探してる。


 名前も、顔も、思い出せない誰かを。


「転生者は、特別な配慮と監視の対象となります」


 開口一番に、そう言われた。

 講堂に響いたその声は、研修の案内役らしい中年女性のものだった。


「適正確認の後、それぞれの研修班へ振り分けます。規律違反、遅刻、無断行動は“再調整”の対象です」


 “再調整”。

 それが何を意味するのか、誰もはっきり口にしない。

 けれど、隣の少女が小さく震えているのを見て、私は、ああ──そういうことか、と察した。


「研修期間は二週間。適性に応じた職能訓練が行われます」


 前の席の少年たちが、ひそひそと囁いている。


「転生者ってさ、元の世界の記憶あるの?」

「あるわけないじゃん。記憶残ってたら、もっとヤバいって」

「でもさ、目つき違うよな。なんか…見透かされそうで」


「……」


 私は、うつむいた。

 何も見透かしてなんかいない。

 むしろ、何も覚えていない。

 でも、そう思われる理由はなんとなく、わかる。

 たぶん、私の中に──“誰かを探している”空白があるからだ。


「ノアさんは、第二班ですね。補助魔法適性クラスに」


「……はい」


 自分の名前を呼ばれて、返事をするだけで、喉が震えた。

 まるで、その名前すら、借り物のように感じたからだ。


「“死に戻り”は繰り返さないように。二度目はありません」


 配布された冊子に、そう書かれていた。

 ぞっとするほど、淡々とした文章だった。


「再調整って……本当にあるのかな」

「前の期の子、ひとり突然いなくなったらしいよ」


 生徒たちの不安げな声が、雑音のように耳に入る。


「……消える、ってこと?」


「忘れられるんだよ。自分の名前も、生きてたことも。全部、なかったことに」


「……」


 私は、指先をぎゅっと握りしめた。


 怖い。

 でも、少しだけ──

 どこかで「それでもいい」と思ってしまいそうな自分が、もっと怖かった。


「すみません、通ります……っ」


 資料を抱えて、私は急いでいた。

 講義開始まであと五分。補助魔法クラスへの移動は、地図で見ても遠かった。


 人混みの中、足早に曲がったその瞬間──


「──っ!」


 ぶつかった。

 勢いよく、肩と肩がぶつかって、資料が宙に舞う。


「あっ……!ごめんなさいっ」


 慌ててかき集める。紙が床に散らばり、風に煽られて滑っていく。


「おい」


 低い声が、頭上から落ちてきた。


「どこ見て歩いてんだ、転生者」


 ピタリと時が止まった。


 ゆっくりと顔を上げた私の視界に、

 漆黒の制服。淡金のブローチ。整った顔立ちに、凍るような視線。


 彼は、私を見下ろしていた。

 冷たく、怜悧に。まるで“失敗作”でも見つけたように。


「すみません……」


「謝れば済むなら、規則なんていらねぇんだよ」


「……」


「次は、“再調整”される前に気をつけることだな」


 紙を拾いかけた手が、震える。


「あっ……」


 彼が一枚、ひらりと拾い上げた。

 私に渡すこともなく、それを一瞥し、そして──くしゃ、と軽く折って、私の足元に落とした。


「……ふん」


 そう吐き捨てて、彼は背を向けた。


「あれ……ユキト様じゃない?」

「副理事長……?なんでこんなところに」


 周囲のざわめきが聞こえる。

 あの人が、副理事長──?


 私の胸に残ったのは、冷たい怒りでも、恥ずかしさでもなく、


「……どうして……」


 たったひとつ。

 その声が、なぜか懐かしく感じたという、ありえない感情だった。


「この世界において、魔法とは感情ではなく、構造だ」


 その声は、講堂の天井にまで澄み渡るような冷たさをまとっていた。


「思考を飛ばすな。言葉で制御しろ。衝動で魔力を振るうやつは、ただの暴徒だ」


 魔法理論Ⅰ――研修最初の講義。

 壇上に立つのは、副理事長・ユキト。

 先ほどぶつかった“あの人”だった。


「……っ」


 私は、顔を上げることができなかった。

 彼の姿を見たくなくて。

 でも、声だけが、耳に残る。


「秩序は人の善意では保てない。ルールこそが最低限の“信頼”を繋ぐ」


「では、問題だ」


 ユキトがひとりの研修生を指差す。

「君、隣のやつが魔力暴走を起こしたら、まず何をする?」


「え、えっと……止めに入ります!」


「不正解。逃げろ」


「……っ」


「自己判断での干渉は“反逆”と見なされる可能性がある。正規の申請と報告が先だ。…救いたきゃ、ルールの中で救え」


 空気が、ひとつ冷え込んだ。

 彼の言葉は正論だ。でも、あまりにも感情がない。


「……あんなのが、先生?」

「副理事長って、ほんとに人間?」


「……」


 私は、ノートを取る手を止められなかった。

 どんなに冷たくても、どんなに理屈だけでも、

 その声は、私の中の“なにか”を、きゅっと掴んで離さなかった。


 ──この人、

 なぜか、昔から知っている気がする。

 言葉じゃなく、音でもなく。

 ただ、

 “この声だけは忘れちゃいけない”って、どこかで思っていた気がする。


 夜の廊下は、静かだった。

 教室から寮までの帰り道。照明の魔石がぽつぽつと灯っていて、誰の影もない。


 私は、ゆっくりと歩いていた。


 足音がやけに大きく響く。


 さっきの講義。ユキトの声。

 目を閉じても、頭の中で繰り返される。


「……やだ」


 小さく声に出してみる。

 でも、それさえ、空気に溶けて消えてしまうようだった。


 私は、何が“嫌”なんだろう。

 あの人の態度?言い方? ……違う。


 本当は、あの人の声が──

 あの“冷たさ”の中にある、わずかな熱が。

 胸の奥をかき回すようで、息がしにくくなる。


「知らないはず、なのに……」


 私は、ふと立ち止まって、夜空を見上げた。

 遠くに、ひときわ強く光る星があった。


「……誰かを、思い出そうとしてる?」


 誰に言うでもなく、そうつぶやいた。


 その瞬間、視界がにじむ。

 目の奥が、じわりと熱を帯びた。


 涙なんて、出る理由なんてないのに。


「……わかんない……」


 私の名前はノア。

 この世界で、転生して与えられた新しい名前。


 でも、もし、前の世界に“私”がいたとしたら──


「その人は、いま、どこにいるんだろう」


 誰にも聞こえない声が、夜に溶けて消えていった。

 その星は、ずっと同じ場所で、変わらず瞬いていた。


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