壺中春暁
これは、
颯太は当時、両親と祖父母、それから母の兄である伯父と六人で暮らしていた。住居は長年祖父母が手入れをしてきた平家の一戸建てで、二階がない代わりに敷地面積は広く、颯太は幼い頃から一人部屋を与えられていた。
とは言え、その頃はまだ齢六つにも満たない幼い子供である。共働きで帰りの遅い両親の代わりに祖父母と伯父に甘えて育った颯太は、特に伯父の
明弘伯父は昭和かたぎの
ある日、颯太は明弘に連れられて骨董品市に出かけた。三月に一度程、大きな展示会場を使って開かれるそれは規模も大きく壮観で、まだ子供の颯太でも気圧されてしまうような、大人しくしていないといけないと思わせるような、そんな独特の迫力があった。
「おじさん、ぼく、ここに来てよかったの?」
「何言ってるんだ。俺がお前と一緒に見たかったんだよ」
明弘は借りてきた猫のような颯太を笑って抱き上げると、彼を一つの露店に連れて行った。どうやらそこの店主と明弘は旧知の仲らしく、颯太は明弘に手を掴まれたまま、暇を持て余して黙って露店の商品を眺めていた。
どうやらその露店は一つの商品に特化しているわけではないようで、掛け軸や
それは、青い下地に
「こら、それは売り物だから触っちゃダメだろう」
「あぁ、いいよいいよ。確かに売り物だけど、見ての通りの安物だからさ」
慌てた明弘が颯太を引き剥がすより先に、店主が破顔して壺の値札を指差した。子供の小遣いでも買えそうな値段のそれに、明弘は「どうしてまたこんなに安いんだ?」と首を傾げる。
「見たところ、
「いやね、確かに見てくれはいいんだけどねぇ。ほら、ここ」
言いさして、店主は壺を半回転させると一箇所を指差した。真ん中少し下のところにポツンと空いた小さな穴に、明弘は一つ頷く。
「確かにこいつは使い物にならんなぁ」
「だろう? 塞いでもこの位置じゃ見栄えが悪いし、液体を入れなきゃ済む話なんだが、じゃあ何を入れるんだってなぁ」
店主が肩をすくめるのに、明弘も違いないと苦笑する。そんな大人二人のやり取りに構うことなく、颯太は壺をペタペタ触って、挙句には壺の中を覗き込んだ。先程店主が指差した穴から、会場の照明が漏れ入って壺の内側を照らしている。ざらりとした白い内壁に光が反射する様子がまるで小さな部屋を上から覗いているようで、颯太は夢中で壺の中を眺め続けた。甥のそんな様子に、明弘がカラカラと明るく笑う。
「おう、そんなに気に入ったんなら今日の土産に買って行くか?」
「え、いいの?」
「まぁ、お前の母さんと父さんには俺からうまく言っておくよ。それが欲しいんだろう?」
「うん! ありがとう、おじさん!」
顔いっぱいに笑った颯太の頭を撫でて、明弘は店主に壺を包んでくれるように頼む。そうして、その役に立たない壺は颯太のものとなった。
♢♢♢♢♢
二人が骨董品市で買ってきた壺は、
颯太の部屋と言っても、幼い彼に好みらしいものがあるはずもなく、客間に子供用のベッドや箪笥を持ち込んだだけの簡素な部屋である。ただし、客間であったためか部屋の奥側には立派な床の間が設けられており、件の壺はそこに安置されることとなった。
「いいか颯太、持ち上げたり振り回したりすると危ないから、ここに置いたまま見るんだぞ。分かったな?」
「うん、分かった!」
真剣な顔の明弘につられるように真剣な顔で頷いた颯太は、その日は壺を見つめたまま眠りについた。何がそこまで彼を惹きつけるのか、本人も理解できないままに眠った颯太は、しかし次の日妙な物音で目を覚ました。
カサコソ……カサコソ……
それは虫が畳を這うような、もしくは誰かがとてもとても小さな声で話しているような、そんな音であった。眠たい目を擦って起き上がった颯太は、辺りを見渡して音の出所を探る。
――ツボから、音がする……?
首を傾げて近付くと、音は確かに壺の中からしているようだった。恐る恐る覗き込んだ颯太は、壺の中の
壺の中、昨夜まで確かに空だったはずのそこには、今は小さなお屋敷と美しい日本庭園があり、そしてそこで暮らす大勢の人が、颯太を見上げて手を振っていたのだった。
「やぁやぁ、これまた可愛らしいお客人だ」
「次はどんな人かと思ったけれど」
「こんにちは、坊や。そちらは今は朝かね? 昼かね?」
「え、あ、あさ……です」
思わずどもりながら答えた颯太に、小さな人々はそうかそうかと頷いてそれぞれの仕事に戻っていく。颯太はよく出来た玩具のような、騙し絵のような、非現実的な光景にそれ以上言葉も出なくなった。
彼等は颯太が知るよりも随分古めかしい生活を送っているようだった。明弘伯父や大人が見れば、まるで時代劇のようだと表現しただろう。女は洗濯板で服を洗い、薪の竃で食事を作り、男達は庭で薪を割ったり、牛を引いて畑を耕したりしている。屋敷の離れは剣道場になっているらしく、威勢の良い掛け声がひっきりなしに聞こえていた。最初は戸惑っていたものの、物珍しい光景に夢中になっていた颯太は、「もし」とかけられた声に視線を屋敷の中央へと移す。
果たしてそこには、屋敷の主であるのだろうか、一際美しい着物を着た妙齢の女性が、おっとりと微笑んで颯太を見上げていた。
「小さなお客人、こちらへ遊びにいらっしゃいませんか?」
「ぼくも、そっちへいけるの?」
「えぇ。あなたが手を伸ばしてくれれば、すぐにでも」
さぁ、と促されて、颯太は子供の頭でぐるぐると考える。彼は元来聞き分けの良い子供であったので、どこかに遊びに行くなら両親か明弘の許可がいると思ったのだ。素直にそう告げた颯太に、女性は残念そうに手を引っ込める。
「そうですか。では、ご両親の許可が取れたら、ぜひこちらにいらしてくださいね。美味しいお菓子を用意してお待ちしておりますから」
「うん、そうするね、きれいなお姉さん」
颯太の言葉に、女性は僅かに目を丸くしてコロコロと声を立てて笑う。「ありがとう、可愛い坊や」と丸い声で言われた颯太は首を傾げたものの、童女のような女性の笑顔に、何故か胸が締め付けられるような気がしたのだった。
♢♢♢♢♢
その日以来、
彼等は最近の流行りのことは知らないけれどとても物知りで、颯太は色々な話を彼等から聞かせてもらった。薪で火を起こす方法、花を枯らさないで育てる方法、剣術の基本の型、簡単な釣竿の作り方、夜に輝く星の見つけ方……。それらを聞くたびに颯太は彼等ともっと話がしたくなってたまらず、彼等も事あるごとに颯太を壺の中へ招こうとするのだが、しかし両親も明弘も捕まらないのでは颯太は首を縦に触れないのだった。
そうして、彼等との交流が一週間を過ぎたある日のこと。出張から帰ってきた明弘の姿に、颯太はパァッと顔を明るくしてその大きな体に抱き付いた。
「おかえりなさい、おじさん!」
「おう、ただいま。いい子にしてたか? 壺は割ってないか?」
「そんなことしないよ! あのね、おじさんに聞いてほしいことがあるんだ」
そう言って颯太が弾んだ声で話す内容に、明弘の顔は徐々に強張っていった。無理もない。まだ子供の颯太はあの事象を『少し不思議なこと』程度にしか捉えていなかったが、大人の目から見たら立派な怪奇現象である。顔を青くした明弘は、だが動揺をそれ以上表に出すことはなく、「そうか」とただ頷いた。
「颯太がそんなにお世話になってるんだったら、伯父さんもちょっと挨拶しないといけないなぁ。今から部屋に行ってもいいか?」
「うん、いいよ!」
颯太はニコニコと笑って頷く。その頭を一つ撫でると、明弘は颯太に居間に残るように言いつけて、彼の部屋へと入って行った。
――おじさんも、みんなと仲良くなれるかなぁ。ぼくがあそびに行ってもいいって言ってくれるかしら。
居間の炬燵で足をパタパタさせながら待っていた颯太は、しかし「ふざけるな、馬鹿野郎!!」という明弘の怒鳴り声にびくりと身を震わせた。ややあって壺を片手に出てきた明弘は、颯太を見ることなくそのまま外へ向かおうとする。尋常でない伯父の様子に、颯太は慌てて彼の後を追った。
「おじさん、まって! そのツボをどこへもって行くの!?」
「あいつに突き返してくるんだ。お前はついてくるな」
「どうして!? みんな優しくていい人たちなのに!」
半べそをかきながら明弘に追い縋る颯太に、明弘はようやく足を止めると、険しい形相で「優しくなんかない」と吐き捨てた。ガシガシと頭を掻きむしると、明弘は颯太の小さな肩にそっと手を置いて、彼の顔を覗き込む。
「……いいか颯太、この壺の中にいるのは優しい友達なんかじゃない。これ以上仲良くしちゃダメだ」
「……じゃあ、だれがいるの?」
「……鬼だ。お前を食べようとしている鬼が、この中には住んでいるんだ」
え、と颯太は声を漏らす。嘘だ、と言うよりも先に、明弘が小脇に抱えたままの壺から「チッ」と敵意に満ちた舌打ちが聞こえてきた。明弘は苦々しい顔で手元を睨むと、手早くスーツを脱いで壺をぐるぐる巻きに包んでしまう。
「とにかく、これは返しに行ってくる。代わりの壺が欲しかったら、また今度探しに行こう」
ぐしゃりと力強く頭を撫でられて、颯太はポロポロと泣きながら明弘の足から手を離す。急すぎる話はほとんど理解はできなかったが、壺の中の彼等と二度と話が出来ないことだけは、颯太にもよく分かった。
……そうして、その壺は明弘伯父の手で骨董品屋に返された。もしくは道中で叩き割られたのかもしれないが、颯太はその顛末を知らない。
後年、颯太はふとあの壺のことを思い出して、明弘に「実際にあの時は何が見えていたのか」と尋ねてみたらしい。明弘は嫌なことを思い出すように顔を顰めながら、一言。
「地獄だ」
……と。それだけを答えたという。
【了】
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