言霊の鳥 ―古事記・奈良編―

湊 マチ

第1話 失われし神語(かむがたり)

和銅五年、春。

都に沈丁花の香が流れるころ、藤原不比等はひとつの密命を下していた。


「古き神々の物語を、ひとつに纏めよ。国家の柱として、記録に残せ」

彼の声音は低く、それでいて絶対の力を宿していた。

この男が描く“未来の日本”にとって、過去の神々は必要であった――だが、それは“都合の良い神々”に限られた。


命を受けたのは、太安万侶。

帝の記録係であり、和歌と歴史を知る才人。

だが彼は知っていた。神話とは、記録ではない。

血と祈りの記憶であり、語り継がれる“生きた言葉”なのだということを。


安万侶の傍らには、一人の異能の語り部がいた。

名を、稗田阿礼(ひえだのあれ)。

男とも女とも知れぬ、年齢も定かでない不思議な者。

だが、その口から紡がれる神語(かむがたり)は、まるで古代の神々がそのまま語っているかのように、鮮やかで力強かった。


「天地(あめつち)の初めの時、高天原(たかまのはら)に生まれしは……」


その声を聴くと、安万侶は目を閉じたくなった。

風が吹き、山が生まれ、神が産声をあげる幻が脳裏に広がる。

神話は、夢ではない。過去に確かにあった現実の延長――そう思わせる力が、阿礼にはあった。


だがある日、不比等から新たな命が下る。


「この中に、不穏な神々の名が多すぎる。忌まわしき神、血塗られし神、反乱の祖たち――

それらは削れ。国家には“清き神々”のみが相応しい」


安万侶は凍りついた。


それは、阿礼が命をかけて語り紡いできた神語を、

政治のために“加工”せよという命令だった。


「……それでは、ただの虚構ではないか。神語とは、命の記憶でございます」


「命の記憶などいらぬ。要るのは、国をまとめる言霊だ。お前の筆で、歴史を創れ」


不比等の目は鋭く、ためらう隙などなかった。


その夜――安万侶は筆を持ったまま、灯火の下で震えていた。

このまま命じられたままに記録すれば、“真実の神々”は歴史から消える。

だが、抗えば命はない。

それでも、安万侶は迷っていた。


その時、ふいに書斎の障子が、風もないのにふわりと揺れた。


――ごうっ。


突風のような熱風が、部屋の中を駆け抜けた。

灯明が揺れ、硯の墨が跳ねる。

その中心に、炎に包まれた“何か”が舞い降りる。


一羽の鳥だった。


黄金の羽を持ち、赤き尾はゆらめく炎。

どこか人のような気高さを湛え、だが確かに鳥であった。


「火……の、鳥……」


思わず、安万侶はそう呟いた。

伝承でしか知らぬ、不死の霊鳥。

神話と現実の境界を越えて、いま、自分の前に立っている。


「汝、記す者か?」


火の鳥は、声にならぬ声で語った。

その言葉は、耳ではなく心に直接響いた。


「……わたくしは、太安万侶。この国の……記録者です」


「ならば問う。汝が記す神は、誰のための神か。

天のためか。人のためか。それとも――生きた言葉のためか?」


安万侶は、答えられなかった。

だが、火の鳥は続ける。


「神とは、語られ続けねばならぬ。記されねば、忘れられ、消える。

消された神は、現実からも消える。汝の筆こそ、神の命を左右するのだ」


「……そんな、責任を……」


「受けた時点で、逃れられぬ定めだ」


火の鳥が羽ばたくと、机の上に赤い羽が一枚落ちた。

それはゆっくりと墨に触れ、筆へと変化する。


言霊の筆。記された言葉が、世界を動かす筆。


その時だった。

外から、叫び声が聞こえた。


「安万侶さま! ……阿礼様が……!

稗田阿礼様が、……姿を消しました!」


扉が開かれ、若き従者が駆け込んできた。


「館の者も誰も見ておりませぬ。まるで……煙のように」


安万侶は立ち尽くす。

彼の脳裏に、阿礼の言葉が甦る。


『わたしの語る神語は、記されねばならぬ。記す者があらば、わたしは消えてよい』


「まさか……阿礼……!」


その夜、安万侶はついに筆を取った。

不比等のための記録ではない。

真実を語る、裏の書のための筆を。


最初の一行を記す。


『天地の初発(はじめ)のとき、混沌より火の鳥が現れ、

神々に言葉を授けた。これを、“言霊”という――』


夜の闇の中、火の鳥は空へと舞い上がっていた。

彼の背に乗るように、目を閉じた阿礼の魂が、静かに微笑む。


物語は始まった。

記されなかった神々のための、裏の古事記が。

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