第5話

 シザが巨大水槽の前で見上げていた。


「シザ君」


 振り返ると、アレクシスとユラがやって来た。

 ユラの表情は明るく、すっかり打ち解けた様子だったので安心した。

 側にやって来たユラの頭を撫でてやる。

「ゆっくり見れましたか」

「はい。アレクシスさんがすごく魚のこと詳しかったです。びっくりしました」

「詳しいんですか?」

「好きだから」

「そうなんですか、それは知らなかったです」

「アレクシスさんはお父様が海軍大佐なんだって」


 海軍大佐……シザは呟いてから、アレクシスを見る。


「……そこは空軍かと思いました」


 シザ・ファルネジアまでそんなことを言ったので、アレクシスは声を出して笑った。



◇   ◇   ◇



 どうせだからと、夕食を一緒に食べることにした。


 ヴィルシーナ水族館はかなり郊外にあったので、車で市内へ向かう。

 多分状況を考えると、自分たち三人が揃って街に行って人に見られたら大騒ぎになるだろうなあと思ったのだが、店は私が予約するよとアレクシスはいつも通り微笑むとどこかへ電話を掛けたらあっという間に予約を取り付けて車は走り出してしまった。

 シザとユラも車で来たけれど、車はあとで回収してもらえるのでアレクシスの車の後部座席にユラと乗り込む。

 首都ギルガメシュを中央に、十二州が黄道十二星座の配置を象る【グレーター・アルテミス】である。アレクシスは夕暮れの海岸線を南に走りつつ、少しずつ市内の方へ向かっているようだ。

 やがてチラホラと街が見えて来て、州境を越え【宝瓶宮アクエリアス】に入ったことを示す看板を見た。


「さっきの電話、ミルドレッド・フォンテさんですか?」


 看板を見送って、そういえばミルドレッドと親しい友人だと言っていたことを思い出す。

 ミルドレッドは【グレーター・アルテミス】でも名高い女性実業家で、幾つものアパレルブランドやホテルを保有していた。それに彼女は貴族出身だ。

「よく分かったね」

 アレクシスがさすがの指摘をして来たシザに笑っている。

「大学のチェス関係で、親しいって聞いたので」

 アレクシスは開いた窓から吹き込む風に気持ちよさそうに金色の髪を揺らしながら、頷いた。

「年齢も、性別も、行ってた大学も違うのに親友なんですか?」

「大学二年の頃からね。私の通っていた大学と、ミリーの通ってた大学はいわゆるライバル校だったんだ」

「貴方のユスダール大は国家プロジェクトに関わる人材輩出に定評があるし、ミルドレッドの出身のウィングレー大は元々貴族の子弟達が通ってた古い名門ですからね」


「そうなんだよ。入学して早々チェスにはまって、大会に出て優勝したんだ。知ってるかな? 九月に【グレーター・アルテミス】で大学のチェスサークルが開催する大きな大会があるんだよ。Chessチェス the gameゲーム Academiaアカデミアっていうんだけど」


 シザが首を振ると、アレクシスが頷いた。


「だったらいつか、ユラ君と行ってみて。強い大学が出てるし、丁度一週間くらいの期間を取って、学生たちがファッションショーや専門分野の発表会やプレゼンテーションなどもやって、かなり盛り上がるから。夜は管弦楽団も演奏するし、オペラもやるよ」


 シザに話していたアレクシスがユラの方を振り返ってそう付け加えると、ユラは目を輝かせた。

「基本的に大学生たちで行う大会だけど、開催にはOB達も大勢協力しているから。

 行きたかったら私に連絡をしてくれれば喜んで席を用意するよ」

「ありがとうございます。そんな催しをしていたなんて全く知りませんでした」


「それで……幸運にも一回生の時に優勝出来たけれど、その祝勝会を内輪でやっている所にミルドレッドと鉢合わせて。その……ちょっと騒動に。それまでミリーが在学時代所属していたウィングレーのチェスサークル【CRIMSONクリムゾン ROSEローズ】は当時Chess the game Academiaでは九連覇中で無敵を誇ってたんだよ。彼女はもう卒業していたけれど、OBとしてとてもこのサークルと後輩たちを可愛がっていたから」


 ああ……、とシザが頷く。


「要するに彼女子飼いのチェスサークルが貴方たちに撃破されたので腹の虫どころが悪かったと」


 アレクシスが少し額を押さえるような仕草をして、笑った。

 この感じでは少し文句を言われた程度ではないようだ。

 ミルドレッド・フォンテは基本的には気さくで人のいい人間だが、自分の尺度でかなり生きているので、気に食わないことが起これば「言いたいことを言わずにはいられない」性格をしている。

 それで【アポクリファ・リーグ】でも彼女はしょっちゅう総責任者のアリア・グラーツと言い争いをしているから、よく分かる。

「私たちの方にも気の強い同級生がいてね、それで店で揉めてしまったんだけれど、一緒に来ていた女学生が他の客に絡まれてしまって。つい……」

 シザが目を丸くした。


「――手を出した?」


「うーん……。手を出したと……言うねあれは……。

 いや、その子が突き飛ばされて怪我をしてしまったから、止めようとして」


「今日は本当に、貴方の意外な一面をたくさん知りますね」


 非暴力主義のアレクシス・サルナートが大学時代乱闘に関わっていたとは驚きだ。

 だが、シザは気づいた。


「……そうか。……その女学生のこと」


 アレクシスは微笑んだ。

 全てがもういい思い出になっている、そんな表情だった。


「とにかく、すごい騒動になってしまったんだけどその時にミリーが、うちの他の女学生にも危害を与えようとした酔った客を叩き出してくれて」


「要するにあの人も持ち前の血の気の多さで乱闘に関わったわけですね」

「そうなんだ。加勢してくれた」

 アレクシスはもう隠そうとしなかった。

「それでありがとうって最後挨拶に行ったら、学生が乱闘に関わったなんて分かったら大変だからって私たちを先に帰してくれて。以後サークル同士でも飲むようになったんだよ。

 ルールを作ったんだ。ミリーの主催した交流会ではライバル同士でも喧嘩禁止だって。

 それからはずっと友達だよ。今も時間があるとチェスもするし……シザ君もチェスは上級者だったね」


「思い出させないで下さい。あの記憶は封印してるんで」


 以前一度だけ大した理由もなくシザはアレクシスとチェスをしたことがあるのだ。

 その時は彼が大学時代チェスサークルに所属し、彼の所属したチェスサークルは無敗を誇っていたという経歴を全く知らなかったのである。知っていた相棒のアイザック・ネレスが「お前は一度は誰かに完敗してみるべき」などと画策して、伝えなかったのだ。


 案の定、チェスはそれなりの実力だという自負を持っていたシザなので、アレクシスは机上の方はどの程度の力量なのかなと測ろうとした所【アポクリファ・リーグ】のフィールドどころではないくらい完膚なきまでに叩きのめされた。


「いや。シザ君は聡明だから日常的にチェスに触れてればあっという間に強くなると思うよ」


「どうもそれは、ありがとうございますね」


 シザはそっぽを向いた。

「君はチェスをする?」

 ユラに尋ねると、彼は首を振った。

「僕はルールも全く……でも興味はあります。各国の聖堂でピアノを弾くツアーをしたことがありますけど、昼下がり教会で練習してたら、よく教会の中庭でチェスをしている年配の方がいました。楽しそうに笑いながら、ゲームをしてて。どの国でもそういう方見ました。

 ああいうの、素敵だなって僕は思います」


「すごくよく分かる。私も元々は父親が週末友人を家に招いてチェスをしてたんだよ。

 スポーツを見ながら、チェスをして、楽しそうだった。

 仕事をしても、ああいう大人になりたいっていつも思ってたよ」


「チェスの道具も好きです。僕なんかルールさえ知らないけど、でもあの盤上に駒が揃っている感じ、とても美しいと思います。インテリアみたいで」


「そうなんだよ。そう言ってもらえると何だかとても嬉しいな。ぜひ今度チェスウィークには見に行って欲しい。大会本部には歴代の大会で使用されたチェス一式が飾られてるよ。古今東西、各国から選ばれた素晴らしいものもあるから、きっとそれを見るだけでも楽しいと思う」


 すっかり意気投合したらしく笑い合っているアレクシスとユラを見て、シザは窓辺に頬杖をついた。


「……そんなにチェスに興味があって、やってみたいならその人じゃなくて僕に言ってくださいね。ユラ。ルールなら僕が教えますし。このまま貴方と喋らせていると今日が終わる頃には弟が貴方にチェスの弟子入りしそうだからもうチェスの話今日は禁止です」


 アレクシスとユラが声を出して笑った。


◇   ◇   ◇


 アレクシスが向かったのは【宝瓶宮アクエリアス】の海沿いにあるリゾートホテルだった。

 ミルドレッドが保有するもので、街から離れて海辺の景観をゆったりと楽しむ、そういうコンセプトである。当然高級ホテルに分類されるので自然と宿泊客の年齢層も高くなり、レストランにもラウンジにも行ったけれど、全く人の目を気にせず過ごせた。


 途中、ミルドレッドが現われた。


 アレクシスがここに来る前ホテルで食事をさせてほしいと頼んでいたので、わざわざ会いに来たらしい。

 アレクシスといつも通りの仲良さを思わせるハグを交わした後、

「元気そうね。あら、髪切ってるじゃない。短いのもいいわね」とシザに言ってから、ユラを優しい表情で見下ろすと、頭を撫でた。


「貴方たち三人っていう珍しい顔ぶれ揃ってるから見に来ただけ。

 お土産にワイン持って来たわ。私のワインセラーで作った新作よ。

 あんたの恋人は未成年だから、サングリアにしておいた。

 家でゆっくり楽しんでね」

 

 ミルドレッドは長居はせず、シザにワインを渡したあとアレクシスに「来月の定例会には顔を出してよね」と笑いかけて去って行った。


「チェスサークルのOBが集まって月に一回【グレーター・アルテミス】各地でチェスを楽しむ定例会を開いてるんだ」


「そうなんですね。貴方が【アポクリファ・リーグ】を去っても、ミルドレッドとはチェスを通じていつでも会える」


 アレクシスは笑って、頷いた。


「うん。だから全然寂しくないよ」


 アレクシス・サルナートはやはり幸せそうだ。

 こうして会っても、あれだけの人気絶頂で引退したというのに全く未練を感じない。

 元々色んな偶然が重なって【アポクリファ・リーグ】に不意にスカウトされた人だ。

 優勝は争ったけど、

 アレクシスと自分はやはりこんなにも背景が違う。


 アレクシスには明確な夢がある。

 その為に自ら選んだ会社があるし、

 彼には大好きな仕事があり、信頼出来る友人たちがたくさんいる。

 趣味や、人生における鮮やかな彩りも。


【グレーター・アルテミス】国民は貴方の復帰を待ち望んでいますと、どこかで今日言いたかったが、そんなもの言わずともアレクシスは誰よりも実感しているだろう。

 今日話して分かった。


 アレクシス・サルナートは元々、違う場所にいるはずの人だったのだ。

 それが熱狂的な国民の支持を受けて、彼らの為に一時、違う場所に身を置いていた。

 

 ――だが本来彼が望んで、いるべきなのはこちらの世界なのだ。


 メディアに追われることもなく、

 突発的に発生する事件を追うような仕事ではなく、

 会社の長期的なプロジェクトに携わり、長い時間を掛けてそれを完成させていく。

 顔や名前が分かる人たちと信頼関係を築きながら生きていく。


 そういう生き方をする人なのだ。


 折角だからと最後にアレクシスがグラスにワインを注いでくれた。

 引退の経緯を知っているから、どうしても自分たちのことが無ければまだこの人は【アポクリファ・リーグ】に留まっていたはずだと思ってしまう。

 それは後悔や罪悪の念になるけれど、

 明るい瑠璃色の瞳でアレクシスが笑いかけて来ると、

 シザはもう全てを受け入れて諦めた。


「【グレーター・アルテミス】公演の演奏は本当に素晴らしかった。

 君の心をとても感じたよ。

 あの演奏が、多くの人の心を動かしてくれた。

 君の音楽の才能と、心の強さを尊敬してる。

 ……これからも音楽活動を頑張ってね」


 アレクシスが最後に笑いかけると、ユラも水の入ったグラスを掲げた。


「ありがとうございます」


「君の音楽の女神に」


 澄んだ瞳で、アレクシス・サルナートはシザを見つめて来た。

 シザに出来ることは、瞳を反らさずに受け止めることだけだった。


「……ユラに」


 小さく笑んで、グラスを傾け合う。


 偶然拍手が起き、ラウンジで弦楽器の演奏が始まった。


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