第一章
第一章
教室の隅で、彩音は縮こまっていた。
窓から差し込む淡い光さえ、彼女には痛いほどに感じられる。
周りのクラスメイトたちは、いつものように話して笑っているが、
彩音にはその声が耳に届かない。
「おい、彩音!お前、またそんな顔してるな。何かあったのか?」
突然、後ろから声をかけられる。
振り向けば、健太がにやりと笑っている。その周りには、数人の男子が立っていて、
一緒に彼女を見下ろしていた。
「ちょっと、どうしたんだよ?最近、顔色悪くね?」
「お前、なんか最近おかしいよな。お父さんにでも怒られたのか?」
クラスの男子たちが冷やかすように言って、笑い声を上げる。
「うるさい…」
彩音は、声が震えているのを自分で感じた。
彼女の心は、まるでバラバラに崩れていくような気がした。
その時、健太がさらに一歩近づいてきて、
「お前、またゲップしただろ?あんなの恥ずかしくないのか?」
と、わざと大きな声で言った。
教室中がその言葉に反応した。
一部のクラスメイトたちが笑い始める。
彩音は顔を真っ赤にして、手で口を覆う。
どうしても、あの日のことが蘇ってくる――
あの、最悪の瞬間。
あの日、彩音は授業中にゲップをしてしまった。
何も考えずに出てしまったその音が、全ての始まりだった。
その瞬間から、彼女はクラスの中心で笑いものにされ、
毎日、毎日その記憶が彼女を苦しめ続けていた。
「おい、お前、またゲップしたぞー!」
「うわ、ほんとにゲップした!彩音、まじで笑えるわ!」
その言葉が胸を刺すように突き刺さる。
彩音は自分を守ることすらできず、ただその場に立ち尽くしていた。
心の中で叫んでも、誰も助けてはくれなかった。
クラスメイトたちの笑い声が、どんどん遠くなっていく。
そして、彼女はもう一度思う。
どうして、こんなにも私はひとりなのだろうと。
その日の帰り道、彩音は自転車を漕ぎながら、少しだけ息をついた。
学校での出来事が頭をよぎる。
彼女はその苦しみを誰にも言えずに、また一日が終わるのを待つしかなかった。
家に帰ると、玄関のドアが開いていた。
中からは、母親の美穂がキッチンで料理をしている音が聞こえる。
彩音はその音に少しだけ安心感を覚えた。
母親は、父親に比べて家にいる時間が長い。
父親が朝から晩まで仕事に出ている間、彩音はほとんど母親と過ごしている。
母親は週に3日程度近所のスーパーでパートとして勤めている。
「おかえり、彩音。」
母親の美穂は微笑みながら、振り向いた。
彼女の顔には、日々の疲れが見え隠れしているけれど、それでも彩音にはどこか温かい感じがする。
「ただいま…」
彩音は短く答えた。
そして、何気なくキッチンのテーブルに腰を下ろす。
母親が何か話しかけてくるのを期待しているわけではない。
でも、少しでも会話を交わすことで、気持ちが少し楽になるような気がする。
「今日はどうだった?」
美穂が優しく尋ねる。
その問いに、彩音はしばらく黙っていた。
何も話したくないわけではないけれど、心の中で湧き上がる言葉がうまく形にならない。
「普通だよ。」
彩音は答えたが、その表情は固い。
母親はその様子を見て、すぐに察したのか、あまり深くは追求しなかった。
「何かあったら言ってね。」
美穂は柔らかく微笑んだ。
その言葉に、彩音は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
母親には言えない。
言うべきではないと思ってしまう自分が、どこかにいる。
その後、夕食が始まる。
父親の佐藤雄一は仕事が忙しいため、帰ってくるのが遅い。
母親と彩音は、いつも二人で食事をすることが多い。
食事が終わり、母親が後片付けをしている間、彩音は自分の部屋に戻った。
部屋のドアを閉めて、ベッドに横になる。
頭の中は、どうしても学校での出来事が繰り返し浮かんでくる。
「お父さんは…」
彩音は目を閉じた。
父親に相談したいことがあったのに、いつも帰ってくるのは夜遅くで、
その時にはもう、彼女の気持ちは整理できないままだった。
母親も、何も言わずに気を使ってくれるけれど、
彼女に本当に頼ってもいいのか、彩音はわからない。
結局、誰にも頼らずに一人で抱え込むことになるのだ。
次の日、朝が来ると、彩音はいつも通り、目を覚ました。
冷たい空気が窓から漏れ、部屋の中に静寂が広がっている。
母親はすでに台所で朝食の準備をしている音が聞こえていた。
今日は少しだけ気分が楽だと思いたかった。
でも、やはり頭の中であの言葉が繰り返される。
「またからかわれた」「バカにされた」「あいつら、私をどうしたいんだろう」――脳裏に絶えず浮かぶ。
顔を洗い、制服に着替えた後、食卓に座る。
母親が作った温かい味噌汁の香りが広がり、ちょっとだけほっとする。
「ごちそうさま。」
彩音は、朝食を食べ終わり静かに母親に告げる。
美穂は何も言わず、ただうなずくだけだ。
彩音が学校に行く準備を終え、家を出る瞬間、母親が言った。
「帰ってきたら、話聞かせてね。何かあったら、ちゃんと教えてね。」
その言葉に、彩音はうなずきながらも、胸の中で何かがもやもやしている。
「いってきます。」
母親の優しさはわかるけれど、どうしても心を開くことができない。
父親が帰ってくるのは遅いし、母親も忙しいから、結局誰にも頼れない。
学校に着くと、いつものようにクラスの男子たちが騒いでいる。
「おい、またあいつ、一人で登校してきたぞ。」
「どこが悪いんだよ、ほっといてやれよ。」
「いやいや、どうせまた誰にも相手されないんだろ。」
彩音はその言葉を聞き流しながら、教室に入った。
今日、クラスメイトの美月が静かに微笑みながら自分に声をかけてくれたが、彩音はその目を避けるようにして、席に座った。
ただ、心の中ではずっと、あの男子たちの声が鳴り響いている。
授業が始まると、何とか気を紛らわせようとするけれど、集中できない。
頭の中で次々と自分がどんなに無力か、嫌われているのかといった思いが巡る。
でも、その思いがまた、新たな苛立ちを生み、次第に怒りが湧いてくる。
―どうして、私はこんな思いをしなければならないんだろう。
―何もしてないのに、どうしてこんな風にされるんだろう。
その気持ちが膨らんでいく。
やがて、授業が終わり、昼休みが訪れた。
彩音は一人で教室を出て、校庭の隅に座った。
誰とも話したくない、ただ静かに過ごしたかった。
しばらくすると、美月がやってきた。
「ねぇ、彩音、みんなとお昼ごはん食べないの?」
美月が心配そうに声をかける。
「今日は、教室で食べたくないの。」
彩音はうつむきながら答える。
美月はしばらく黙っていたが、やがて言った。
「私、もし何かあったら、ちゃんと話聞くからね。」
その言葉は、どこか優しくて、でも彩音には余計に心が痛む。
「…ありがとう。」
彩音は小さな声で答え、再び目をそらした。
昼休みが終わり、また授業が始まる。
その間、彩音の心はすっかり閉ざされたままだった。
次の授業が終わると、彩音は何も考えずに帰り支度をした。
教室を出て、静かな校庭を歩きながら、今日は早く帰りたかった。
家に帰ると、今日は誰も居なかった。
何も言わずに、彩音は自分の部屋に向かった。
その足取りはどこか重く、心の中では不安と怒りが入り混じっていた。
部屋に入ると、何もかもが自分の中でうまく回らないような気がした。
少し休もうとしてベッドに横になる。
ただ、目を閉じても、心の中のモヤモヤは晴れなかった。
夕方、母親の帰りを待っている時間が一番長く感じる。
母親がいつも通りパートを終えて帰宅した。
「ただいまぁ。」美穂の声が家の中に響く。
今日は少しだけ気分を変えてみようと思った。
夕食の時間、彩音は、テーブルに並べられたおかずに手をつけながら、ふと母親に話しかけた。
「今日、クラスでね…」
言葉を切ると、母親が顔を上げて優しく見つめてくれる。
「何かあったの?」
美穂はいつものように静かに聞いてくれる。
でも、彩音はすぐに言葉が出てこなかった。
「別に…」
口をつぐんでしまう。
結局、あの日の出来事を母親に話すことはできなかった。
どうしても、自分が弱いところを見せたくない気持ちが強かった。
その後、父親の帰りが遅く、彩音は先に寝室に戻った。
母親はいつも通りテレビを見ているが、彩音の目にはその光景がどこか遠く感じる。
彼女はもう、誰かに頼る気力が無くなっていた。
ベッドに横たわり、天井を見上げながら思い巡らす。
あの男子たちが言っていた言葉が、どうしても頭を離れない。
「おい、またあいつ、ひとりで登校してきたぞ。」
「どうせ誰にも相手にされないんだろ」
その声が、まるで耳元で鳴り響いているかのように感じる。
自分の無力さに、何度も打ちのめされるような気がする。
その夜、眠れないまま時間だけが過ぎていった。
次の日、また学校が始まる。
朝食を食べて家を出るとき、母親が「気をつけて行ってらっしゃい」とだけ言った。
いつも通りの言葉に、彩音は「うん」とだけ答える。
今日もまた、何も変わらない一日が始まるのだろうか。
学校に着くと、またクラスメートたちの声が耳に入ってきた。
「今日もまた一人で登校か?」
「お前、ひとりぼっちだな。誰も相手にしないんだな。」
その声は、昨日と同じように心に刺さる。
昼休み、彩音はまたひとりで校庭の隅に座っていた。
どこか遠くの空を見上げると、雲がゆっくり流れている。
その穏やかな風景を見ても、心の中の波は静まらない。
しばらくそのまま座っていると、美月が声をかけてきた。
「またひとりで食べるの?」
美月は心配そうに言ったが、彩音は少しだけ表情を硬くして答える。
「うん、今日も一人でいいの。」
「どうして?みんなと一緒に食べればいいじゃん。」
「…わかんない。」
彩音は短く答え、目をそらした。
その目には、他の誰にも見せられない感情が映っていた。
美月はしばらく黙っていたが、やがて言った。
「私、彩音と一緒に食べるから。」
その言葉に、彩音は驚いた。
そして、胸が痛むような気持ちになった。
「大丈夫だよ。気にしないで。」
彩音はそう言って、立ち上がった。
美月が心配そうに見つめているのがわかるが、それでも、自分の気持ちを伝えることができなかった。
昼休みが終わり、また教室に戻る。
その日は、授業中も心がどこか落ち着かない。
頭の中で、今度は美月に対する申し訳ない気持ちが湧いてきた。
「彼女、私に気を使ってくれてるのに…」
でも、それにどう答えればいいのかわからない。
放課後、学校を出ると、またあの男子たちがからかいの声を上げていた。
その一言が、彩音の胸に突き刺さる。
「またひとりだな。」
その声を聞いて、彩音は足を速めてその場を離れた。
帰り道、家に着くと、母親がまた優しく迎えてくれる。
「おかえり、今日はどうだった?」
その言葉に、彩音はただ黙ってうなずいた。
母親が何を言っても、答えはもう決まっていた。
ただ、何も言わずに自分の部屋に戻り、ベッドに横たわった。
夜、ふと父親が帰ってきた音がした。
「ただいま。」
その声に、彩音はまるで自分が存在しないかのように感じてしまう。
父親の足音がリビングに響き、やがて静寂が戻る。
そして、その日もまた、何も変わらない一日が終わりを迎える。
翌週から、彩音の登校はだんだんと不安定になり始めた。
最初は、朝起きてすぐに学校に行く気がしないと感じることが増えていた。
「今日は行きたくない。」
その言葉が、何度も口をついて出てきた。
でも、母親の美穂はそれを見逃すことはなかった。
「学校に行きたくないの?」
美穂が静かに声をかけると、彩音は無言でうなずいた。
その表情は、心の奥底から何かが湧き上がるような、言葉では表せない感情に満ちていた。
「今日は行かなくてもいいよ。気分転換もいいかもね。」
母親は優しく、しかし強く言った。
その時、彩音はなんとなく、母親がこの状況をすでに理解していることを感じ取った。
それが少しだけ心を軽くした。
でも、どこかで罪悪感も湧いてきた。
「これで良かったのかな?」
心の中で繰り返すその問いに、答えはなかなか見つからない。
その日、彩音は家で一日中過ごすことになった。
美穂は仕事に出て行き、家には彩音ひとりだけが残る。
時折、家の中で静かな足音が響く。
時計の音だけが部屋を支配し、時間がゆっくりと過ぎていく。
朝が来るたび、彩音はますます、学校に行かない自分に慣れていった。
数日が過ぎ、またある日。
「今日は行く?」
美穂の問いに、彩音はしばらく黙っていた後、うつむきながら答えた。
「うん…行かない。」
その言葉には、もう何も驚きがなかった。
「わかった。」
母親は、ただ静かにその返事を受け入れた。
そして、母親だけが彩音の気持ちを察していた。
美穂もまた、心の中でどうすべきか悩んでいたが、無理に登校させることはできなかった。
その間、父親の雄一は相変わらず忙しく、家にはほとんど帰らない日々が続いていた。
3週間が経ち、登校拒否はどんどん深刻になっていった。
彩音は学校に行かないことが、もはや日常となっていた。
毎日、同じように朝を迎え、昼になっても部屋から出ない。
時折、窓の外を眺めながら、何も考えずに時間が過ぎるのを待つだけの日々が続く。
美穂は心配しながらも、無理に言うことはできなかった。
「行こうか?」
美穂が声をかけても、彩音は「うん」と答えることはなかった。
その一言が、彩音にとっては決定的なサインだった。
「私、学校に行かなくていいんだ。」
その思いが、胸の中で膨らんでいった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます