第26話 迷子の少年

「シャルロッテ」


 パトリックの言ったことが頭から離れない。


 ある一面から見れば、パトリックの言うことは正しいだろう。けれど、それはリチャードの本意だろうか。リチャードには彼の考えがあってそれを蔑ろにはしてはいけないわけで……。


「シャルロッテ?」

 向かいのソファに座っていたはずのリチャードが、目の前に屈んでいた。


 さっきからちっとも代筆に集中できていなかった。見れば、手元に広げていた紙がほとんど進んでいない。

 ちょうどこれはパトリックに宛てた手紙だった。


「どこか具合が悪いんですか? それなら今日はもう」


 シャルロッテは慌てて首を振る。そのまま、カウチに目を落とした。


 リチャードの目がまともに見られなかった。見つめてしまったら、自分が今何を考えているのかが見透かされてしまいそうだったから。


「こっちを向いて、シャルロッテ」


 緑の目は気遣わしげに揺れる。大きな手が肩に向かって伸びてくる。

 けれど、触れると思った手は、寸前のところでぴたりと止まる。


「言いたくないなら、無理にとは言いませんが」

「そうではないんですけど」


 シャルロッテは、その手をかわすように立ち上がって書棚の前に立った。

 どんな本を選ぶかということは、その人がどんな人かを物語る気がすると、リチャードは言った。


 その中の一冊の本に、シャルロッテは触れる。


 よく見れば、右側の彼の本の中にも、商売や経営にまつわるものがある。それが示すのは、彼の拭い去れない家業へ思いの表れではないのだろうか。


 ここに突破口があるのかもしれない。


「あの、お聞きしてもいいですか」

 シャルロッテはくるりと振り返って、リチャードに向き直る。


「はい」


「先日パトリックさんが、リチャードさんがカールトン家の跡を継ぐべきだと仰っていて」


 シャルロッテが兄の名を口にした時、彼はぴくりと眉を上げた。


「わたしもそうだったらいいなって、思ったことがあって」


「……兄さんのことは、簡単に名前で呼ぶんですね」

 それは、地の底を這うような低い声だった。


「へっ」


「そんなこと、いつどこで話したんですか。いつの間に、僕のいないところで、二人でお会いになったんですか」


 俯いたリチャードが迫りくるように歩を進めてくる。金色の髪に顔を覆われて、彼の表情は見えない。


 後ろに下がったけれど、すぐに書棚が背に触れる。もうこれ以上は下がれない。


「君はずっとそうだ。僕の言葉は何も聞き入れてくれないのに、兄さんの言うことには耳を貸すのか」


 長身が、目の前に立つ。

 まるで知らない男のようだった。


「ああ、そうか。だから、僕から今度は兄さんに乗り換えるんですね」

「違うんです! ただパトリックさんは、」


「兄さんの名前を、呼ばないで」

 どん、と頭の横に手を突かれた。ひっ、と喉が鳴る。


「僕を見て、シャルロッテ」


 そのまま、強い力で掻き抱かれる。男の腕の檻に閉じ込められて、シャルロッテは身動きできなくなる。


 一番上まで止めたブラウスのボタンにリチャードは手をかける。荒っぽく引きちぎるようにされれば首筋から胸元にかけてが露わになる。


 身を捩っても男の力に敵うわけもない。


「リチャ、ドさん、やめっ」


 今までリチャードがこんな風にシャルロッテに触れてきたことはなかった。

 いつも、そっと、壊れ物を扱うようにしてくれた。他の誰が無理やりにシャルロッテに触れても、彼だけはそうしなかった。


 乱暴に髪を払われて、素肌に熱い手が触れる。吐息がかかれば、それだけで体がびくりと跳ねた。


 やわらかな金髪が首筋をくすぐる。


「もっと早く、こうしていればよかった」

 掠れた声が耳元で囁く。ひどく傷ついたような、悲しい声。

 

 何度も何度も、首元に口づけが落とされる。あたたかなそれは、確かな彼の震えを伝えてくる。


 ちゅっと、音を立てて薄い皮膚を吸い上げられる。その後、鋭い痛みが一瞬走った。


「……あっ!」


 腹の奥から何かが溢れそうになってくる。シャルロッテはぎゅっと目を瞑って、それに耐えた。


「君の目の前にいるのは、僕だ」


 こういうことを一度も想像しなかったと言えば、嘘になる。

 彼の手が触れる度に、考えた。求められることを、心の奥底では望んでいた。


 けれど、それはこんな形ではなかったはずだ。

 こんな風に傷つけあうようなことを、シャルロッテは願ったことはない。


 雪の日に聞いたリチャードの声が、頭の中で鳴る。


 ――だから、これ以上、自分を削ったりしないで。


 ゆっくりと目を開けた。そうして、緑の瞳と見つめ合った。


「リチャード、さん」


 そこにいたのは、迷子の少年だった。小さな子供が、帰る場所を失って狼狽えるような。


 なんてことはない。誰よりも一番自分を削っているのは、リチャードじゃないか。


 恐る恐る、手を伸ばす。


 その頬に触れたかった。涙は流れていなかった。けれど、確かにリチャードが泣いているように見えたから。


 はっと、リチャードは息を呑んだ。美しい顔が歪んで、はっと目を逸らす。

 ぱたりと、拘束が緩んで男の腕が離れた。


「……ごめん」


 シャルロッテの手を押し戻すようにして、リチャードがかすかに触れる。反対の手は、恥じるように前髪を掴んでいる。


 弾かれたように、リチャードは背を向ける。


「どうかしていました。あなたに、こんなことをするなんて」


「い、いえ」

 広げられた襟元を、ぎゅっと握りしめて寄せる。残っていたボタンを、かろうじて留めた。


「罵ってくれて構いません。僕は、最低の人間だ」


「あなたはそんな人では」

 ちらりと、リチャードが振り返る。鋭い目が、射抜くようにシャルロッテを見つめる。


「僕の一体何を、知ってるって言うんですか」


 血を吐くような声が言った。リチャードは苦々し気に奥歯を噛みしめて、項垂れる。


「兄さんに何を言われたか知りませんが、僕は跡を継ぐ気はありません」


「でも、他の人に読んでもらえばきっと」

 シャルロッテがそう言っても、リチャードの目は変わらない。 


「そうですね。僕もずっと、そう思っていました」

 リチャードは、その目を書棚に向けて僅かに眇めた。

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