第11話 絶対の正解
「ミス・ウェルナー、本当にお送りしなくていいんですか?」
このやり取りも四回目になる。帰り道が心配だからリチャードは馬車で送ると言ってくれるのだ。
けれど、カールトン家の豪奢な馬車が我が家の前に止まるとそれだけで大事になる。ヘンリエッタに見つかりでもしたら、どこに行っていたのかを
「ええ」
だからシャルロッテはこれを丁重に固辞して、歩いて帰る。そもそも大した距離ではないし。普段よりは少し帰りが遅くなるが、まあ家族も誰もシャルロッテのことなど気にしないだろう。
屋敷の門までは、いつもエドガーが付き添ってくれる。やんわりとお断りをしたのだけれど、こちらはどうしてもとのことだった。
「ウェルナー様」
門をくぐるかというところで、エドガーが言った。
シャルロッテは思わず身構えた。
「はい、なんでしょうか」
この家令は、リチャードがシャルロッテを雇うことに対して懐疑的な立場だったはずだ。無論、屋敷を預かる身としては複雑な気持ちがあるのだということは、理解ができる。
それに、あんなところを見られてしまったし。
「先日は、大変申し訳ございませんでした」
けれど、深々と頭を下げられてシャルロッテは目を瞠った。
いくらリチャードに招かれているとはいえ、ただの小娘に尽くされる儀礼の範疇はとうに超えている。
「そ、そんな。顔を上げてください」
エドガーは頭を下げたまま、続けた。
「私はあんなにも楽しそうな――心の底から嬉しそうに笑う坊ちゃんの姿を、久方ぶりに拝見いたしました」
それは、しみじみと実感のこもった言葉だった。
使用人は家族ではない。
それでも、長く側にいて見守っていれば情は湧くものだ。思わず零れてしまった「坊ちゃん」という言葉はその証左だ。
エドガーは本当に、リチャードを大切に思っているのだろう。
「本来、私が申し上げるべきことではないことは重々承知しております。しかしながら、ウェルナー様さえよろしければ、これからもどうぞ当屋敷にお通いいただければと存じます」
そこでエドガーは一度頭を上げて、シャルロッテを真っ直ぐに見つめてきた。
「どうぞ、リチャード様をよろしくお願いいたします」
もう一度、深々とエドガーは頭を下げる。
それは、正しく作法に則った美しい礼だった。
わたしはこの人にこんな風に頭を下げられるほどのことを、何かできたのだろうか。
頭の中に銀貨がちゃりん、と音を立てて降ってくる。それを差しい引いてもなお、この忠実な家令に頭を下げさせるほどの何か。そんなものがシャルロッテにあるわけがないのに。
考えても、答えは出なかった。けれど、気づけば気圧されたように返事をしていた。
「は、はい」
そう答えなければ、この人はずっとこのままのような気がしたから。
門をくぐって、最初の角を右に曲がる。その時、シャルロッテはなんてことないふりをして、そっと屋敷の方を盗み見た。
今までは、こんなことをしたことはなかった。だからこれまでも、エドガーはそうしてくれていたのかもしれない。
シャルロッテの姿が見えなくなるまでずっと、エドガーはずっと礼を続けていた。夕焼けが彼の肩口に赤く差して、その影が地面に長く伸びていた。
家に戻れば、珍しく母親と鉢合わせた。
「あら、こんな時間までどこに行っていたの」
頭の先から爪先まで、値踏みをするような目が滑っていく。年相応に円熟味を重ねているとはいえ、この人は美しい人だなと身内の贔屓目を抜いても思う。
シャルロッテはこの母親とちっとも似ていない。彼女はやわらかな亜麻色の髪をしているが、シャルロッテは直毛でくすんだ茶色だ。目の色は父親と同じで、きつそうに見える黒。
妹はこの母と生き写しのようで、父親が家を空けがちな昨今では、まるで自分だけが拾われた子のように思えることがある。
「少し、出かけていただけです」
「そう。あまりみっともないことをしないようにね」
それ以上、母は何も言わなかった。そして、侍女を連れて自室へと戻っていく。
仲が悪いというわけではない。強いて言えば、折り合いがよくない。
伯爵令嬢だった母は、格下の子爵家に売り払われたも同然で結婚した。だから、結婚は財産と家格が全てだと信じ込んでいる。
母に言われるがまま、明るいピンクのドレスを着られる娘であればよかった。例えば、ヘンリエッタのように。妹はいつも、母は選んだ装飾品一式をなんてことなく見事に着こなしてみせる。
けれど、シャルロッテはそうではない。どうしてだか、自分にはそういうことができなかった。着てみたいと思う色は、せいぜい水色や明るいグリーンでそれは母の機嫌をひどく損ねた。
願えば、新しい外套もドレスも与えられるとは分かっている。ウェルナー家とて貴族の端くれだ。カールトン家ほど裕福では無いが、今のところ生活に困るようなことはない。実際に、ヘンリエッタがそうやって次々に新しいドレスやアクセサリーを手に入れていることをシャルロッテは知っている。
母は、若さと美しさを金に変えて生き長らえた。だから、大して美しくもない方の娘が、結婚もせずにただ時間を無駄にして若さを浪費しているのが気に食わない。
それに、シャルロッテを肯定することは昔の自分を否定することに他ならないだろう。ゆえに、シャルロッテは母と折り合いがつかない。
今自分がしていることは、本当に正しいのだろうか。代読と代筆で男から金を得ることは、果たして母が言うところの“みっともないこと”のうちに入るのか。
くたびれた外套のポケットの中で、銀貨がまた、ちゃりんと音を立てる。ポケットに手を入れれば、冷たい金属の感触が指先に触れる。
あのきらきらした目の輝きが脳裏に蘇った。
リチャードがシャルロッテに支払うもの。あの家令が深々と礼をした意味。
若くも美しくもないわたしは、一体彼に何を与えられるというのだろう。
この世に絶対の正解など存在しない。
母も正しいし、自分も正しい。言葉にしてみればそれだけのことだけど、全て飲み込めるというわけでもない。
シャルロッテはひとつ息をついて、階段の上の自室へと歩を進めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます