第7話

時刻は十六時三十分。体育館裏の半屋外スペースには、折りたたみ机が三列、コードごと転がった測定器、魔力分光板、簡易心電式筋電計、さらには医務棟から運んできた生体魔力センサーが乱雑に並んでいた。


そんな混沌とした状況の中、智久は包帯が外れたばかりの拳を握り直し、木剣を脇に置いて深呼吸。ほのかが記録用クリップボードを抱え、斎賀は各種計器を真剣な眼差しで見つめていた。


「はい、次も行きます。呼吸法三セット目。――息を止めず、腹の熱を感じ取ってください」


ほのかの声は相変わらず柔らかいが、眼差しは本職の研究員のよう。智久は丹田に意識を集中し、周囲の雑音を削ぎ落とす。脳がクリアになる一瞬、ぼっと音を立てるように腹の奥で赤い熾火が膨張しかける。


ところが次の瞬間には、不思議な重力で水底へ沈むように消え失せる。魔力センサーのモニターには、微弱なスパイク。基準振幅の一・五倍にも届かない。それでも三人は顔を見合わせた。ゼロではない。けれど“牙猪を拳で砕いた数値”には程遠い。


「再現率、これで十四パーセント」


斎賀が記録紙へ赤ペンを走らせ、渋い顔で付箋を貼る。


「今日も波形は微妙。でもゼロじゃない。ここ、極小の山があるんです」

「誤差かもしれねえし、本物かもしれない、か」

「上がりも下がりも小さすぎる。限界状況じゃないとスパイクしない、ってパターンでしょうか?」

「けど無茶して骨折ったら意味ないよな」


智久は額の汗を拭い、ほのかが差し出した水筒を受け取った。喉を流れる冷水の感触すら、腹の炉へ届く手がかりにはならない。身体は完治、しかし先日の爆発的な力は影も形も無く、実験だけが空転した。


・ ・ ・


同日、同時刻。分校から北へ十五キロの山道では、花岡教官と神谷教諭が車を路肩へ寄せてメモリーボードを広げていた。


霧島ダンジョン外郭――“第2緑層”と呼ばれる苔むす斜面。ここでは例年、風通しの良い草地が広がり、ハーブ香が漂う穏やかな森が続くはずだった。しかし今年は違う。湿気が靄のように立ちこめ、土を踏むと靴底が食い込むほど柔らかい。いたる所で真紅の花弁を持つ瘴気花が咲き、花粉混じりの瘴気が夕陽に光の帯を描いていた。


「発芽密度、去年の三倍……。こいつら、瘴気を餌に増殖する“指標種”だ」


神谷が検査杖を翳すと、杖の晶石が鈍く濁る。魔素濃度は分校安全基準の一八パーセント増。花岡は眉間に深い皺を作り、双眼鏡で遠方の岩陰を覗いた。


そこには削れた猪の牙――牙猪の変異体が体当たりした痕跡がある。割れ目の中には黒光りする剛毛が引っ掛かり、触れれば破片が粉砂利のように砕けた。


「硬質化が進んでる。魔核変質の初期症状かもしれん。……厄介な潮目だな」


二人は調査キットを素早く片付け、車へ戻った。山頂では風向きが変わり、うっすらと黄味がかった雲がたなびいている。その翳りが日没前だというのに地表を群青色へ塗り替えはじめていた。


・ ・ ・


翌日。鹿児島の地元ギルド〈火ノ神の梟〉の本部兼宿泊所。石造りの円堂ホールには、分校OBの冒険者や近隣県クランの代表が集められていた。


報告者は先行した索敵部隊のリーダー、真鍋トワ。壁面に映し出されたホログラムの地形図を指し示しながら低い声で語る。


「第3紅層に“あるはずのない脱皮殻”を見つけた。熔炎バジリスクだ」


聴衆の間に押し殺した呻きが走った。バジリスクは本来Bランク。こんな場所にいて良い魔物ではない。さらに月間討伐件数のグラフが映し出された。


低ランククエストの申請件数は昨年同時期と比較して一五七パーセント。しかも単独行動ではなく三〜四体混成群の報告が増え続けている。


「外郭へ押し出されている兆候だな……」


冒険者協会鹿児島支部代表、古閑蒼一は周囲の面々の表情を確認しながら、淡々と告げた。


「深層で勢力図を書き変える何かが動いている。深層核心部の本格的な調査が必要だな」


・ ・ ・


二日後の金曜、正午。分校講堂。


全生徒が席へ着くと同時に、照明が落とされた。壇上へ現れたのは冒険者協会鹿児島支部代表・古閑、国立冒険者育成高等学校鹿児島分校の校長・桐原、教員代表の花岡。


ホログラフが霧島ダンジョンの断面図を映す。深層へ降りる階層に沿って赤い矢印が連なり、その根まで点滅している。


「冒険者協会は正式に《霧島ダンジョン深層索敵作戦》を発令した。本隊三〇名は深層第8“紫層”まで進攻。この三〇名は本職の冒険者から構成され、分校教員四名も随行する。本校の学生に対しては後方支援・補給・索敵警戒に志願枠を設ける」


花岡がマイクを握った。


「聞いての通り、遠足でも演習でもない。生きたダンジョン最奥へ踏み込み、未知と対峙する“本物の遠征”だ。命の危険もある。だが挑戦したいなら、恐怖を誇りに変えろ。学生が参加可能なのはあくまで後方支援だが、またとない機会になるはずだ。志願締切は三日。熟考して来い」


静寂。それは一瞬でざわめきへ変わった。前列の上級生たちに走る緊張。中列の二年生たちに生まれる迷い。後列では一年生達が目配せを繰り返す中。小さく拳を握りしめる姿もあった。


・ ・ ・


夕方。食堂脇に設置された作戦志願掲示板には、白紙の枠が三種貼り出された。〈索敵本隊後方支援〉C級以上三〇名、〈医療・解析〉支援科一〇名、〈後方補給〉五十名――その末尾には小さく《補給路監視班(E/D級可)》と記されていた。


智久は躊躇わずサインペンを取り、監視班欄の一行目に名前を書く。すぐ横へ斎賀がスラスラと記入する。そのインクが乾く前に、ほのかは医療班の末席に自分の名を書き足した。


「私も行きます。先輩達も、みんなも。私が守ります」


声は震えていない。智久はすでに完治していた拳を軽く握り、背中を伸ばした。腹の奥の熾火が――集会で胎動しはじめた炉が、ここに来て再びわずかに膨張する。


恐怖とも高揚ともつかない熱。名前のない呼び声。今度こそ手がかりを掴むのだ。


・ ・ ・


遠征前夜。智久は寮の屋上で、夜霧の匂いを吸い込んでいた。手すりへ両拳を置く。深い呼吸。肺の奥へ落ちる冷気が腹部を撫でた瞬間、炉はわずかにコッと音を立てる。刃物を温める鉄床の鳴き声に似ていた。


(まだ“鍵”は回らない。そもそも本当にあるのかどうかも分からない。でも明日)


背後で扉が開き、斎賀が近づいてくる。どうやら智久を心配してわざわざ来てくれたらしい。そんな様子を全く見せず、彼はしれっと言った。


「出発は五時集合だ。寝坊したら担いででも連れて行くぞ」

「わかってるよ。……色々とありがとな」

「ん?何か言ったか?」

「別になんでもねぇよ。それよりも戻ろうぜ」


月明かりが二人の影を並べる。闇の底で、夜風に乗る霧島の息吹が不気味にうねっていた。その深処から何かが確かに呼んでいる。智久はその気配を胸奥の炉に重ね、静かに目を閉じた。


――まだ名を持たぬ力よ。深層の闇を照らす灯か、それとも己を焼き尽くす炎か。


答えは、明日。

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