第四章 不死身 (三)

 一桜かずさの意識が、闇へと落ちる、その時一桜は息を吹き返した。

 榊原さかきはらが妖術を使ったのだ。ただ一人しか使えない治癒妖術を。

 だがそれは慈悲ではなかった。

 暗闇だった視界に、ぼんやりと光が差し込む。

 失われていた意識が、泥の中から引き上げられるように蘇る。

 だが、痛みはそこにあった。いや、ますます鮮明になっていた。

 死ぬだけを拒まれた、生き地獄。

 「殺す前に一つ忘れていた」

 榊原の声が、低く、冷ややかに落ちてくる。

 底知れぬ無関心と、あざけりがにじ声色こわいろ

 一桜は、辛うじて動く首で辺りを見回す。

 だが――千鶴ちづるの姿は、もうそこになかった。

 「……あの小娘は、泣きながら助けを求めて逃げて行ったよ」

 榊原はあくまで淡々と、まるでどうでもいいことのように言った。

 その言葉に、一桜の胸がきしむ。

 痛みよりも、胸の奥が裂けるようだった。

 「 玖波くなみの呪いについて聞きたいんだったよな?貴様が死ねば教えたところで何も変わらないのだが、これは我の趣味だ」

 榊原の口元に、嗜虐しぎゃくの笑みが浮かぶ。

 一桜は口を開こうとするが、ただ空気が漏れるだけ。声が出ない。

 「 玖波の呪い、あれは我がかけた」

 榊原は軽々しく言う。

 その一言に、一桜の瞳が大きく見開かれた。

 顔が怒りと衝撃に歪む。

 叫ぼうとしても、声にならない。喉が焼け、言葉が出ない。

 「ただの気まぐれさ。だが、効果はてきめんだったな」

 榊原は、心底楽しそうに笑った。

 「 玖波はこれまで何人も貴様のように失ってきた。今回も、奇跡なんて起こらなかったわけだ」

 呼吸のたびに、肺の奥が焼けるような痛みが響く。

 意識が薄れていく中、榊原の言葉だけがやけに鮮明に響く。

 「貴様はこれから死ぬ。 玖波にかけられた親しくしようと近づいた者が死ぬ呪い、その運命力がお前を殺す」

 榊原が一歩、ゆっくりと踏み出す。その一歩が、死の宣告のように響いた。

 「今回は、その呪いの手を下すのが――どうやら我のようだ。クク……面白いだろう?運命ってやつは、実に滑稽こっけいだ」

 そして榊原は、静かに続けた。

 「死という運命に捕らえられた貴様に、もう一つ教えてやろう」

 「呪いを解く方法は……存在する」

 一桜の脳裏に、月明かりの下で微笑む玖波の姿がよぎる。

 その刹那、残された力を振り絞って霊気を練り、体内に風を循環させる。

 苦痛で血を吐きながら、それでも喉を開き――

 「な……なんでも、します……だから……玖波さんの、呪いを……解いて……ください……」

 泥と血にまみれた顔を、地面に叩きつけるようにして頭を下げる。

 懇願だった。

 魂を削るような、渾身の一言だった。

 そして――その時になってようやく、一桜は気づいた。

 自分がどれほど玖波のことを想っていたのか。

 守りたいと願うだけじゃない。

 好きだった。

 心の底から、彼女が愛おしくて、何よりも大切だった。

 榊原は、ゴミを見るような目で一桜を見下ろしていた。

 「貴様の運命は変わらない」

 「どうせ死ぬのなら、無駄に足掻かず逝くがいい」

 それでも、一桜は、泥の中でなおつづる。

 「……どうせ、死ぬなら……教えて……ください……」

 榊原はひとつ、鼻で笑うと告げた。

 「我がかけられる呪いは、一度に三つまで」

 「……な、なら……!」

 「……ああ。我が他の者に呪いをかければ、玖波の呪いは自然と消える」

 「俺に……俺にかけてください……!」

 榊原の目が、ほんの少しだけ見開かれた。

 それは驚きではない。

 呆れと、憐憫れんびんと、軽蔑が混じった、冷たい視線だった。

 「馬鹿か、貴様は。すでに死ぬことが決まった者に、何の価値もあるものか」

 榊原の声が、絶対的な死の宣告のように響いた。

 「貴様は、自身の無力を呪い、ただ死んでいけ」

 その瞬間、風が止まった。

 空気すら、一桜の味方をやめたかのように。


 榊原の圧倒的な力の前に、一桜は敗れた。

地に伏し、血にまみれ、もう立ち上がることすらできない――その姿が千鶴ちづるの脳裏に焼き付いていた。

 「一桜さん……!」

 助けを呼ばねばと、千鶴は震える足を無理やり前に踏み出す。

 岩が転がる山道、湿った落ち葉に何度も足を取られながら、それでも止まらない。

 涙で視界が滲む。喉は張り付くように渇いていた。息ができない。

 肺が焼けつくように痛み、心臓はもう限界を超えている。

 だが、それでも――千鶴は走り続けた。

 「お願い……お願いだから、間に合って……!」

 がむしゃらに走り続けた先、開けた場所に一台の馬車が見えてきた。

 榊原のものだ。

 「馬車を出してぇぇぇえ!!」

 叫び声が木霊こだまする。

 その声に、御者が驚いて飛び上がったように振り返る。

 「え、あっ、榊原殿は……?」

 「いいから出せってんだよぉ!!」

 息も絶え絶え、荒れた声で怒鳴る。

 千鶴自身、これまで生きてきて一度も使ったことのないような言葉だった。

 自分で口にしておいて、わずかに戸惑うほどだった。

 だが、そんなことを気にしている暇はない。

 千鶴はよろけながら馬車に乗り込む、御者の隣に飛び乗る。

 「早く!! 東京奠都てんとまで!!」

 あまりの気迫に、御者は目を見開いたまま一瞬固まったが、すぐに頷き、手綱を強く引きしめる。

 「し、承知ッ!」

 手網たずなが空を裂く音とともに、馬がいなないた。

四つのひずめが地を蹴り、馬車は荒々しい轟音ごうおんを残して山道を駆け下りていく。

 千鶴の瞳には、涙の他にただ一つ――決して消えぬ、祈りのような想いが宿っていた。

 「お願い……一桜さんが、まだ……間に合いますように――!」

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