第二章 ぬりかべ (七)

 その日の夕方、浅草の町には珍しく淡い光が差していた。

 梅雨の合間のわずかな晴れ間。空は雲に覆われているものの、東の端がうっすらと紅く染まり始めていた。長く濡れていた町並みは、陽に照らされてわずかに温もりを取り戻し、石畳の水面が金色に揺れていた。

 一桜かずさ玖波くなみは、土壁のある裏通りに向かっていた。

 これまでの聞き込みを経て、ぬりかべの正体は、ある老婆の想いである可能性が濃厚となった。今夜、彼女が現れるかもしれない――そう直感したのは、玖波の勘だった。

 「……どうして今夜なんです?」

 一桜が尋ねると、玖波は前を見たまま答える。

 「地図屋の爺さんが言ってた。小椿社が焼けたのは六月十五日。花を供えていた日付も、その前後だったらしい」

 「なるほど、忌日か……」

 「そして、今日は六月十四日。間に合うのは、今夜だけだ」

 裏通りへ向かう途中、ふたりは浅草寺の境内に立ち寄った。まだ時間には余裕があった。太陽は西の空に傾き、町はゆっくりと夜へと向かっていた。境内では、子どもたちが走り回っていた。軒先で線香の煙がゆらめき、参拝客たちが静かに手を合わせている。老夫婦が連れ立って石段を上り、若い娘が花を供える姿も見える。

 「……変わらないですね。こういう光景は」

 一桜がふと、ぽつりとこぼす。

 「何年経っても、人は誰かを祈るためにここへ来る。たとえ、それが叶わない願いだったとしても」

 玖波は一桜の横で黙っていたが、ふいに、近くの灯籠とうろうを見上げて言った。

 「それで、いいんじゃないのか」

 「え?」

 「叶わなくても、祈った分だけそこにいたって残る。誰かが誰かを想った時間が、何もなかったことにならないなら、それでいい」

 一桜は玖波を見つめた。彼女の表情は相変わらず読みづらかったが、その声は、いつもより少しだけやわらかかった。


 時間を見計らい、ふたりは土壁のある裏通りへ向かった。

 辺りはすでに夕闇に包まれており、通りに入った瞬間、温度が一段と下がったように感じた。提灯ちょうちんの灯りは少なく、夜の気配がじわじわと這い寄ってくる。

 「……空気が変わりましたね」

 「……来る」

 玖波くなみが短くそう言った瞬間――

 通りの奥、土壁の前に、ひとりの人影が立っていた。

 通りの奥、古びた土壁の前に立っていたのは――


 一人の老婆だった。


 月明かりに照らされたその姿は、どこか現実離れしているようで、それでも確かにそこにいた。深く被った編笠。白髪の隙間から覗く横顔は痩せ、皺に覆われているが、姿勢は凛としていた。

 風は吹いていない。なのに、彼女の着物の裾がかすかに揺れたのは、空気そのものが彼女を中心に変わったからだろうか。

 老婆は静かにしゃがみ込み、懐から白い椿の花を取り出して、地面にそっと置いた。それはあまりに自然で、あまりに優しく、そして――あまりに、痛々しかった。

 一桜かずさは思わず息を詰めた。その仕草が、あの想念の中で見た少女の面影と、重なった。

 「……!」

 思わず一歩、前へ出ようとしたそのとき――

 「下がって」

 玖波が低く言った。その声は冷静だったが、張り詰めた緊張がこもっていた。

 「今は、邪魔しない方がいい」

 一桜は、ぐっと足を止めた。

 老婆はまだ、一言も発していない。ただ、花を供え、目を閉じている。その姿はまるで、長い年月を繰り返してきた動作の続きに過ぎないようだった。

 しばらくして、老婆が静かに立ち上がった。そして――ゆっくりとこちらを振り向いた。笠の下から覗いたその目は、まっすぐだった。年老いてもなお力を宿し、しかしその奥には、深い深い疲れが滲んでいた。

 「……あんたたち、何者だい」

 声は、かすれてはいたがはっきりしていた。どこか、凛とした響きさえあった。

 一桜が口を開こうとしたが、その前に玖波が一歩、前に出た。

 「ぬりかべ――この場所で起きている怪異を調べてる。あんたがそれを起こしているなら、事情を聞きたい」

 老婆は、じっと玖波を見つめた。その眼差しは探るようであり、同時に、どこか懐かしむようでもあった。

 「……あたしが、怪異?」

 「そうだ」

 「ふふ……そんなつもりはなかったよ。ただ、あたしは、ここに来てるだけさ。昔と、同じように。月に一度、あの日の夜にだけ、来てるだけ」

 「それが壁になってる。人を通せなくしている」

 「……そうかい。じゃあ、あたしの想いが、道を塞いでしまったんだねえ……」

 老婆は目を伏せ、ぽつりと呟いた。

 「待ってるんだよ。あの子を」

 一桜が、思わず声を漏らす。

 「……あの子……戦に行った恋人、ですか」

 老婆はゆっくり頷いた。

 「そう。名前は言わないよ。……言えば、消えてしまいそうで。あのとき、ここでまた会おうって約束したんだ。……だから、あたしは毎月、来てるのさ。ずっと……ずっと……」

 「……待っていた?」

 一桜が問い返すように言うと、老婆――時雨しぐれはうなずいた。その仕草は、ごく自然で、まるでずっと語り続けてきた物語の続きを紡いでいるかのようだった。

 「ここで別れたんだよ。雨の夜さ。……傘も差さず、振り返りもしないあの子を、あたしはずっと、ずーっと、見送ってた」

 彼女の声は穏やかだった。悲しみというより、もう悲しむことすら通り越した静けさがそこにはあった。

 「最初のうちはね、毎日来てた。毎日、祈ってた。今日、戻ってきますようにって」

 「……」

 「でも、そのうち、月に一度になった。なぜかって? ……祈るのが、つらくなったんだよ。希望を持つってのは、同時に持ち続ける苦しさでもある。……わかるかい?」

 一桜は、答えられなかった。ただ、頷いた。静かに、確かに。

 「誰も知らない。あの子がどこで死んだのかも、ちゃんと死んだのかも。でも、あたしは……まだ来てないだけだって、思いたかった」

 玖波が、淡々と問う。

 「……自分の想いが、人を妨げているとは思わなかったか」

 時雨は小さく笑った。

 「それを妨げるって呼ぶのかね? あたしにとっては、守っていたんだよ。あの子との約束の場所を。他の誰にも踏み荒らされたくなかった」

 その言葉に、玖波が目を細める。

 「だから、ぬりかべになった」

 「あたしは、そんなつもりはなかった。けれど……気がついたら、誰も寄りつかなくなってた。……いつの間にか、みんな遠回りして、別の道を選ぶようになってた」

 ふ、と彼女は空を見上げた。

 「それでも、あたしはここに来て、椿を供えて、また戻っていく。それだけが、あたしに残された日々だったんだよ」

 沈黙が流れた。

 土壁の前、誰も声を発さないまま、風だけが草を撫でて通り過ぎた。だがその風の中にも、奇妙なことに壁の向こうからは何も吹いてこなかった。

 「……あの、失礼を承知で訊きます」

 一桜が声を絞るように言った。

 「……あなたは、あの人がもう帰ってこないと、わかっているんじゃないですか?」

 時雨は、はっとしたように一瞬だけ目を見開いた。だが、すぐに、穏やかな顔に戻った。

 「ええ。わかってるよ。……とっくにね。あの子が生きてりゃ、もう五十は越えてる。今さら戻ってくるはずもない。……でも、待っていたあたしだけは、まだこの場所にいる。ここから、動けなかったんだよ」

 一桜の胸に、何かがつんと突き刺さった。

 「待つってのは、ね……ときに生きるより強い力になる。でもね、それは同時に、死ねない理由にもなるんだ」

 その言葉は、重すぎた。

 しん――と、通りの空気が止まっていた。

 土壁は、今もそこに在る。見えないはずの壁が、確かに存在していて、彼女を囲い、守っていた。

 いや――彼女自身が、壁になっていた。

 一桜かずさは、手を前に伸ばしかけて、ふと引っ込めた。触れてはならないと、心のどこかが言っていた。それでも、彼は言葉を選びながら、ぽつりと口を開いた。

 「……待ち続けることも、誰かを想い続けることも、きっと間違いじゃないと思います」

 時雨しぐれは顔を上げた。その瞳には、歳月を経てもなお滲んでいた強さがあった。

 「ただ……誰かの想いが、他の誰かの道を塞いでしまうのだとしたら、それは――やっぱり、少しだけ、悲しいことなんだと思うんです」

 言いながら、一桜自身がその言葉の重さに戸惑っていた。それは、過去を否定する言葉だったのか。あるいは、過去にしがみつく自分への戒めだったのか。

 時雨はしばらく何も言わなかった。その沈黙の中に、夜の湿った風が、ふっと吹き抜けた。

 玖波くなみは、無言のまま足元に目を落としていた。だがやがて、ひとつ息をついて顔を上げ、静かに言った。

 「ここに、誰も入れなくしていたのは、あなた自身じゃない。待ち続ける自分を、終わらせたくなかったあなたの想い」

 時雨は、目を細める。

 「……そうかもしれないね。誰にも、触れられたくなかったんだよ。この想いに。汚されたくなかった」

 「でも――もう充分だろう」

 玖波の声は低かったが、決して冷たくはなかった。

 「あなたがずっと守ってきた場所は、もう誰にも踏みにじられない。……だって、誰もこの壁を越えようとしない。あなただけが、ずっとここにいたんだ」

 時雨はふっと、微笑んだ。それは、どこか諦めに近い、けれどどこかで安堵も混じった表情だった。

 「……じゃあ、あたしが消えたら、この壁も消えるのかい?」

 「それは、あなたが決めることだ」

 玖波はそう言って、一歩だけ、彼女に近づいた。

 「ただ、ここで誰かを待つ時間が、もうあなたに必要ないなら――終わらせていいと思う」


 時雨は、しばらく空を見上げていた。

 そこには、雲が淡く流れていた。月はまだ見えないが、夜の気配は確かにあって、夏の手前の湿気を含んでいた。

 「……ほんと、長かったなあ」

 ぽつりと、呟く。

 「待っている間に、町も変わった。人も変わった。けど……この場所だけは、変わらなかった。ずっと、あの時のままだった」

 静かに、しゃがみ込む。懐から、最後の白椿を取り出した。それを、そっと地に置く。

 「――今夜で、終わりにしようかね」

 彼女がそう言った瞬間――

 風が吹いた。今まで感じなかった壁の向こうから、ふわりと吹き抜ける風。濡れた草が揺れ、どこか遠くで鈴のような音が、かすかに響いた気がした。

 時雨は立ち上がると、背筋を伸ばして微笑んだ。

 「ありがとね。……あたしは、もう大丈夫だよ」

 そして、ふたりに深く一礼した。


 その姿は――


 風の中に、そっと、溶けていった。

 まるで、霧が晴れるように。


 風が止んだ。

 その瞬間、まるで何かが、この町の空気からそっと抜け落ちたようだった。

 土壁の前には、もう誰の姿もなかった。時雨の背中も、花の白さも、草を撫でた音さえも、すべてが夜に溶けていた。


 ただひとつ残っていたのは――


 地面に置かれた一輪の椿。白く、ふくよかで、凛としていた。

 一桜は言葉を失っていた。

 今、見えない壁は――もう、存在していなかった。何も感じない。ただの道。どこまでも静かで、どこまでも穏やかな、夜の通り。

 そして、それが逆に痛かった。

 「……玖波さん」

 「……ああ」

 玖波もまた、しばらくは口を開こうとしなかった。だが、やがて淡々とした声で言う。

 「終わった。あのぬりかべは、消えた」

 「でも、消したわけじゃないですよね」

 「……そうだ。彼女自身が、手放しただけ」

 「待つことを、やめた……」

 一桜は、俯いた。

 「……玖波さん」

 「ん」

 「想いって、どこまでいくと、壁になるんでしょうか」

 「……強すぎたときじゃない。変えられなくなったときだと思う」

 「……」

 「誰かの気持ちが、時間や場所に閉じ込められたまま、出口をなくしたとき……妖になる」

 それは、まるで自分にも言い聞かせるような声だった。

 ふたりは、しばらく無言で立っていた。

 濡れた土の匂い。夜露が草を濡らし、遠くから小さな虫の音が戻ってくる。世界は、元に戻っていくように見えた。

 だが一桜には、それが元通りなのではなく、彼女の想いごと、町が先へ進み始めた、ような気がした。


 通りの出口に向かって歩き出したとき、ふたりの前に小さな子猫が現れた。

 「あ」

 一桜が思わず声を上げる。

 それは、あのはいぞうだった。どこからともなく現れて、ふたりの前でぺたんと座ると、にゃあと短く鳴いた。

 「……また会ったな」

 玖波が思わず笑った。

 「この町の妖は、あれだけじゃなかったのかも」

 「油断なりませんね。特にこの猫は」

 「妖怪より厄介かもな」

 そう言って、玖波がかがんで子猫の頭を軽く撫でる。はいぞうは目を細めて、満足そうに喉を鳴らした。

 通りを抜けると、空には雲の隙間から月が出ていた。うっすらと、青白く、静かに夜の町を照らしていた。

 一桜は、土壁のあった方を振り返る。

 もう、あそこには見えない壁も、彼女の影もない。

 ただ、風が通るばかりだ。


 翌朝の浅草は、驚くほどに晴れていた。梅雨の合間の、わずかな晴天。湿気の抜けた空には澄んだ青が広がり、川沿いのやなぎも光を浴びて、すっかり色を取り戻していた。

 宿を発つ準備を終えた一桜と玖波は、荷を少しまとめ、のんびりとした足取りで浅草寺をあとにした。

 「……不思議ですね。昨日まで、あれだけ重たかった空気が、まるで嘘みたいです」

 一桜が呟くと、玖波はうっすらと頷いた。

 「誰かの想いが、町全体に残ってたんだろ。……それが風に乗って、流れた」

 「まるで、煙みたいですね」

 「……上手いこと言うな」

 玖波が、ほんの少しだけ口の端を上げた。


 帰りの馬車の中、一桜は窓の外を見つめながらぽつりと漏らした。

 「……待つって、強い感情ですね」

 「うん」

 「たったひとりで、何十年も待ち続けられるって……僕には到底真似できない気がします」

 「それが、彼女にとっては日常だったんだろ」

 「玖波さんは、誰かを……待ったこと、ありますか?」

 その問いに、玖波はしばし沈黙した。車輪の音だけが、静かに響く。

 「……ない。待たないようにしてた」

 「それは……」

 「誰かを待つには、信じる力が要る。あたしには、その力がなかった」

 それは、ただの回顧でも、自嘲でもなかった。静かな事実の告白――それだけだった。

 一桜はその言葉を胸の奥にしまい、何も返さずに、ただうなずいた。

 馬車が日本橋に差しかかるころ、遠くから祭囃子まつりばやしのような音が聞こえた。

 夏の兆しが、町のあちこちに現れ始めていた。すれ違う人々の顔には日差しが戻り、提灯ちょうちんの色も少しずつ鮮やかになってきている。

 「戻ってきましたね」

 「うん。……変わってないな、この町は」

 「でも、僕らは少しだけ変わったかもしれません」

 「そうかもね」

 家の前に着いたとき、玖波がふと立ち止まり、玄関先の敷石を見つめた。

 「……今日くらいは、茶でも淹れてあげるよ」

 「えっ、本当ですか?」

 「何杯でも飲ませるから、静かにしてろ」

 「は、はい!」

 そんな他愛ないやりとりに、ふたりは少し笑った。

 誰かを想い、想いが妖になる――それは奇怪なことではなく、人が生きることの延長線上にある。

 そう思えた出来事だった。


 その夜、日本橋の町に、久しぶりに強い雨が降った。だが、あの裏通りにはもう見えない壁はなく、風はふたたび自由に通り抜けていた。

 雨音に混じって、どこかで鈴の音が、ほんの一瞬だけ鳴ったような気がした。 

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