第二章 ぬりかべ (一)
東京
かつて「江戸」と呼ばれたこの地は、いまや新たな帝都として、急速にその姿を変えつつあった。
石畳に敷かれた馬車の
文明の風は、確かに吹いている。けれど、どこかぎこちなく、まだこの地の空気になじみきってはいない。和と洋。旧と新。そのどちらにも染まりきれぬまま、東京は、
暮らしているのは、かつて自警団の事務所だった広めの家。小ぢんまりとしていながらもどこか威厳を残した屋敷だった。
通りから少し奥まった位置に構えられ、格子戸を抜けると、手入れの行き届いていない石畳と、季節の花が咲く小庭が静かに迎える。歪な静けさに包まれている。屋内は
そこを一桜は居所とし、
だが最近、次に請けるべき依頼が決まらずにいた。手元に届く案件のほとんどが、どこか曖昧で
そんなある日の午後。
「
悪くない詳細の細かい依頼状を手に取り、相談しようとした
「……どこ行ったんだろうか」
独りごちながら、一桜は溜息をつく。
玖波と出会ってから、日々の些細なやり取りを重ね、少しずつ距離は縮まっているように思えた。が、それが一方通行でないかどうか……その確信は持てない。
「……親しくなろうとした者が死ぬ呪い、か」
玖波にかけられた呪いの一つ。それは、彼女の心に近づき想う者に死が訪れるという呪いだった。
(俺も……いずれ、そうなるのか?)
今のところは何の兆候もない。だが、このまま彼女に踏み込んでいっていいのか。その問いが、じわりと胸に広がる。
考え込むまま、足は自然と町を歩き出していた。
気がつけば、日本橋の
その
「……玖波さん?」
静かに名を呼ぶ。玖波は驚いた様子もなく、ゆっくりと振り返った。
黒の
「……少し、昔を思い出してたの」
ぽつりとそう言い残し、玖波は
「どこ行くんです?」
「帰る」
並んで歩き出す。しばらく無言が続いたが、やがて玖波がじっとこちらを見つめていることに気づく。
「……なんです?」
「……あのさ、一桜。前から言おうと思ってたんだけど」
玖波は一拍置いて、言葉を投げた。
「その浮浪者みたいな格好、そろそろやめて」
思ったよりも強い口調だった。
確かに一桜の格好は目を引いた。擦り切れた袴に、つぎはぎだらけの布。草履はすっかり擦れて、肩にはボロ布をかけている。
「……これが性分に合ってるんですけどね」
「意味がわからない……」
玖波は呆れたように眉をひそめ、どこか怒りを含んだ視線を向ける。
こんな玖波を見るのは初めてだった。
(……さすがに、ちょっとは整えた方がいいかもな)
そんなことを考えていると、彼女はふいに言った。
「明日、着付け屋に行きましょう。こっちで手配するから」
そう言って、彼女は一歩だけ距離を取った。
もう、それ以上は言わない方が良さそうだった。
「……そうだ、良さげな依頼が来てたんですがどうです?」
そう言って依頼状を手を伸ばして差し出す。玖波は視線を向けずに受け取った。
「……却下」
そう短く答えた。
「どうしてです?」
「井戸から笑い声がするって、それ、ただの風の音でしょ。構造と気温差で音が反響してるだけ。妖じゃない、ただのまやかし」
「……見ただけでわかるんですか?」
「わかるよ。こういうの、昔何度も来た。大体が湿気で木が軋む音か、動物の鳴き声の聞き間違い。恐怖心が勝手に妖だって決めつけてるだけ」
「まぁ、その可能性が高いですよね」
「まやかしに付き合ってる暇はないの。人の想像力が生んだ
翌日。
店の中は、
「……こんなのがいいんじゃない?」
玖波が棚の奥から引っ張り出してきたのは、灰色の着物と紺のインバネスコート。落ち着いた色合いだが、仕立ての良さがすぐに分かる品だ。
「……それでいいんじゃないですか?」
一桜に服のこだわりはない。どうせすぐに泥や血で汚れるかもしれないしと考えた。
そう答えると、玖波がわずかに眉を寄せた。不満そうな視線が突き刺さる。
試着室に入り、面倒くさがりながらも袖を通す。
サイズはおおむね問題なく、購入を即決した。買った服をそのまま身につけて、店を出る。
帰り道、慣れない服の重みに肩がこる。着崩れしないよう歩き方にも気を遣い、必要以上に神経を使った。
「……ふぅ」
ようやく家に戻ると、疲労が一気に押し寄せてきた。一桜はたかが着替えただけなのに、どうしてこんなに疲れるんだと不思議に思った。
部屋の隅に腰を下ろすと、玖波がじっとこちらを見ているのに気づく。視線はまっすぐ俺の顔に向いている。何か言いたげだ。
「……どうしました?」
たまらず声をかけると、玖波はほんの
「あとは、髪と髭」
そう言うと、玖波はゆっくりと両手を合わせ、
「ちょ、ちょと。何をするつもりです!?」
身を引こうとした瞬間、空気がピンと張り詰めた。見えない何かが、風の刃となって俺の顔を撫でるように通り過ぎていく。瞬く間に、髪が整えられ、
終わったと気づいたときには、背中に冷や汗をびっしょりかいていた。
「……これが、妖怪「
一桜は冗談交じりに呟いてみせるしかなかった。ほんの少しでも動いていたら、顔の皮一枚で済んだかどうか怪しい。
そんな一桜を、玖波はじっと見つめる。そして、静かに微笑んだ。
「随分、良くなったじゃない」
その表情には、ほんの少し安堵のような、あるいは照れ隠しのような感情が混じっていた。玖波の「良くなったじゃない」という言葉に、一桜はどう反応すればいいか分からなかった。
普段から感情をあまり表に出さない玖波にしては、珍しくわかりやすい表情をしている。柔らかく、どこか安心したような――そんな顔だった。
「……なんです?急に見た目を気にしろって。別に誰に見せるわけでもないのに」
気恥ずかしさを誤魔化すように口を尖らせると、玖波はふっと視線を逸らした。
「誰に見せるかじゃない。……自分が、どう見えるかの問題」
「俺は、別に見た目なんてどうでもいいって思ってますけど」
「……だったら、自分の姿を見て、少しでも悲しくなるような服装はやめてほしい」
ぽつりと、玖波が言った。その言葉に、思わず返す言葉を失った。悲しくなるような服装――たしかに、今までの一桜は、自分が惨めに見えることすら気にせずに生きてきた。いや、惨めに見えるように生きてきたのかもしれない。それは、自分の価値をどこかで諦めて罪を償うように。
玖波が、ほんの少し目を伏せる。
「……昔、私がそうだったの。ボロボロの服を着て、髪も
いつになく素直な語り口だった。
「でも、ある人に言われたの。君がそういう顔をしていると、君を大切に思っている人が悲しむって」
「……そいつ、いいやつですね」
そう言うと、玖波は少しの間だけ黙った。そして、ぽつりと。
「そうね、でもすぐに死んだ。私の呪いのせいでね」
あっけらかんとした口調だったが、その言葉の奥に、確かな重さがあった。
玖波にかけられた「親しくなった者を死に導く呪い」それは確かに存在する。
「……そうですか」
一桜は、ただそれだけを返した。気の利いたことなんて言えやしない。けど、なんとなく思った。この服を着て、この髪を整えて、少しでもマシな見た目になった自分を見て、玖波が少しでも救われるなら――それでいいか、と。一桜の事情など小さなことに思えた。
しばらく、部屋に沈黙が満ちた。
「じゃあ……明日は、茶屋にでも行ってみようか」
玖波が唐突に言った。
「茶屋?」
「依頼探しも兼ねて。人の多い場所の方が、何か拾えるかもしれないし」
「……そうですか。じゃあ、付き合います」
「フフ……」
そう言った一桜に、玖波は珍しく、声を立てて笑った。初めて出会った時以来だろうか。
「……今の格好なら、連れて歩いても恥ずかしくないしね」
からかうような言い方だったが、その目は優しかった。
その笑顔を見て、一桜はふと思う。
この人を、本当に大切に思ってしまったら――俺は、どうなるんだろうか。
それでも。きっと、もう引き返せない。
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