第二章 ぬりかべ (一)

 長南町ちょうなんまちを発ってから、二週間が経過した。

 一桜かずさは、拠点のある東京奠都てんとに戻っていた。

 東京奠都てんと

 かつて「江戸」と呼ばれたこの地は、いまや新たな帝都として、急速にその姿を変えつつあった。

 石畳に敷かれた馬車のわだちと、土の香りが残る裏路地。片や、煉瓦れんが造りの洋館が陽光を反射し、片や木造の商家しょうかのきを連ねる。まるで、時代が隣り合って歩いているような街だった。通りを行き交う人々の姿もまた、混ざり合っていた。

 山高帽やまたかぼうに洋装の紳士と、矢絣やがすりの着物に袴姿の女学生。洋傘ようがさをさす婦人の隣を、町火消まちびけしの裃姿かみしもすがたが歩いていく。売り声をあげる魚屋の声の向こうで、蒸気車が汽笛きてきを鳴らし、煙をまきあげて走っていく。

 文明の風は、確かに吹いている。けれど、どこかぎこちなく、まだこの地の空気になじみきってはいない。和と洋。旧と新。そのどちらにも染まりきれぬまま、東京は、過渡かとのまっただなかにあった。 

 暮らしているのは、かつて自警団の事務所だった広めの家。小ぢんまりとしていながらもどこか威厳を残した屋敷だった。

 通りから少し奥まった位置に構えられ、格子戸を抜けると、手入れの行き届いていない石畳と、季節の花が咲く小庭が静かに迎える。歪な静けさに包まれている。屋内はふすま障子しょうじでいくつかの部屋に仕切られており、時折きしむ床板が、静寂の中に懐かしさを添える。

 そこを一桜は居所とし、妖邏卒ようらそつとして依頼を受けて生計を立てていた。今はそこに 玖波くなみを加えた二人で暮らしている。

 だが最近、次に請けるべき依頼が決まらずにいた。手元に届く案件のほとんどが、どこか曖昧であやかしの影が薄い。曖昧な噂だけでは手を出せないし、今はより本物の妖に近づきたかった。


 そんなある日の午後。

玖波くなみさんー?」

 悪くない詳細の細かい依頼状を手に取り、相談しようとした一桜かずさは、家の中をぐるりと見渡した。だが、玖波の姿はどこにもない。

「……どこ行ったんだろうか」

 独りごちながら、一桜は溜息をつく。

 玖波と出会ってから、日々の些細なやり取りを重ね、少しずつ距離は縮まっているように思えた。が、それが一方通行でないかどうか……その確信は持てない。

「……親しくなろうとした者が死ぬ呪い、か」

 玖波にかけられた呪いの一つ。それは、彼女の心に近づき想う者に死が訪れるという呪いだった。

(俺も……いずれ、そうなるのか?)

 今のところは何の兆候もない。だが、このまま彼女に踏み込んでいっていいのか。その問いが、じわりと胸に広がる。

 考え込むまま、足は自然と町を歩き出していた。

 気がつけば、日本橋のたもとまで来ていた。洋風の木造橋は、文明開化の象徴として再建されたもの。馬車や人力車が行き交い、賑わいの中にも文明の気配が漂っている。

 その欄干らんかんに、まるで川面に吸い寄せられるように、佇む人影を見つけた。

「……玖波さん?」

 静かに名を呼ぶ。玖波は驚いた様子もなく、ゆっくりと振り返った。

 黒の尼削あまそぎの髪に、吸い込まれるような漆黒の瞳。巫女装束ではなく、今日は黒地に花模様の入った振袖と、赤の袴を合わせていた。胸下で帯を締め、足元は編み上げのブーツ。女学生風の装いながら、彼女のまとう雰囲気はどこか浮世離れしていた。

「……少し、昔を思い出してたの」

 ぽつりとそう言い残し、玖波はきびすを返した。

「どこ行くんです?」

「帰る」

 並んで歩き出す。しばらく無言が続いたが、やがて玖波がじっとこちらを見つめていることに気づく。

「……なんです?」

「……あのさ、一桜。前から言おうと思ってたんだけど」

 玖波は一拍置いて、言葉を投げた。

「その浮浪者みたいな格好、そろそろやめて」

 思ったよりも強い口調だった。

 確かに一桜の格好は目を引いた。擦り切れた袴に、つぎはぎだらけの布。草履はすっかり擦れて、肩にはボロ布をかけている。

「……これが性分に合ってるんですけどね」

「意味がわからない……」

 玖波は呆れたように眉をひそめ、どこか怒りを含んだ視線を向ける。

 こんな玖波を見るのは初めてだった。

(……さすがに、ちょっとは整えた方がいいかもな)

 そんなことを考えていると、彼女はふいに言った。

「明日、着付け屋に行きましょう。こっちで手配するから」

 そう言って、彼女は一歩だけ距離を取った。

 もう、それ以上は言わない方が良さそうだった。

「……そうだ、良さげな依頼が来てたんですがどうです?」

 そう言って依頼状を手を伸ばして差し出す。玖波は視線を向けずに受け取った。

「……却下」

 そう短く答えた。

「どうしてです?」

「井戸から笑い声がするって、それ、ただの風の音でしょ。構造と気温差で音が反響してるだけ。妖じゃない、ただのまやかし」

「……見ただけでわかるんですか?」

「わかるよ。こういうの、昔何度も来た。大体が湿気で木が軋む音か、動物の鳴き声の聞き間違い。恐怖心が勝手に妖だって決めつけてるだけ」

「まぁ、その可能性が高いですよね」

「まやかしに付き合ってる暇はないの。人の想像力が生んだ影法師かげぼうしに、私たちの時間を割く必要はない」


 翌日。

 一桜かずさ玖波くなみに手を引かれるまま、近所の着付け屋へと足を運んでいた。

 店の中は、反物たんものの匂いと香木こうぼくほのかな香りが混ざり合い、落ち着いた空気が漂っている。着物を扱う店らしく、どこか凛とした空気感があり、薄汚れた格好のままでは場違い感が凄まじい。

「……こんなのがいいんじゃない?」

 玖波が棚の奥から引っ張り出してきたのは、灰色の着物と紺のインバネスコート。落ち着いた色合いだが、仕立ての良さがすぐに分かる品だ。

「……それでいいんじゃないですか?」

 一桜に服のこだわりはない。どうせすぐに泥や血で汚れるかもしれないしと考えた。

 そう答えると、玖波がわずかに眉を寄せた。不満そうな視線が突き刺さる。

 試着室に入り、面倒くさがりながらも袖を通す。

 サイズはおおむね問題なく、購入を即決した。買った服をそのまま身につけて、店を出る。

 帰り道、慣れない服の重みに肩がこる。着崩れしないよう歩き方にも気を遣い、必要以上に神経を使った。

「……ふぅ」

 ようやく家に戻ると、疲労が一気に押し寄せてきた。一桜はたかが着替えただけなのに、どうしてこんなに疲れるんだと不思議に思った。

 部屋の隅に腰を下ろすと、玖波がじっとこちらを見ているのに気づく。視線はまっすぐ俺の顔に向いている。何か言いたげだ。

「……どうしました?」

 たまらず声をかけると、玖波はほんのわずかに口元を歪めた。

「あとは、髪と髭」

 そう言うと、玖波はゆっくりと両手を合わせ、霊気れいきり始めた。

「ちょ、ちょと。何をするつもりです!?」

 身を引こうとした瞬間、空気がピンと張り詰めた。見えない何かが、風の刃となって俺の顔を撫でるように通り過ぎていく。瞬く間に、髪が整えられ、無精髭ぶしょうひげがきれいに剃られていった。

 終わったと気づいたときには、背中に冷や汗をびっしょりかいていた。

「……これが、妖怪「鎌鼬かまいたち」の正体ですか」

 一桜は冗談交じりに呟いてみせるしかなかった。ほんの少しでも動いていたら、顔の皮一枚で済んだかどうか怪しい。

 そんな一桜を、玖波はじっと見つめる。そして、静かに微笑んだ。

「随分、良くなったじゃない」

 その表情には、ほんの少し安堵のような、あるいは照れ隠しのような感情が混じっていた。玖波の「良くなったじゃない」という言葉に、一桜はどう反応すればいいか分からなかった。

 普段から感情をあまり表に出さない玖波にしては、珍しくわかりやすい表情をしている。柔らかく、どこか安心したような――そんな顔だった。

「……なんです?急に見た目を気にしろって。別に誰に見せるわけでもないのに」

 気恥ずかしさを誤魔化すように口を尖らせると、玖波はふっと視線を逸らした。

「誰に見せるかじゃない。……自分が、どう見えるかの問題」

「俺は、別に見た目なんてどうでもいいって思ってますけど」

「……だったら、自分の姿を見て、少しでも悲しくなるような服装はやめてほしい」

 ぽつりと、玖波が言った。その言葉に、思わず返す言葉を失った。悲しくなるような服装――たしかに、今までの一桜は、自分が惨めに見えることすら気にせずに生きてきた。いや、惨めに見えるように生きてきたのかもしれない。それは、自分の価値をどこかで諦めて罪を償うように。

 玖波が、ほんの少し目を伏せる。

「……昔、私がそうだったの。ボロボロの服を着て、髪もかず、顔も洗わず。どうせ私なんて、って思ってた。何もしなくても生き続ける」

 いつになく素直な語り口だった。

「でも、ある人に言われたの。君がそういう顔をしていると、君を大切に思っている人が悲しむって」

「……そいつ、いいやつですね」

そう言うと、玖波は少しの間だけ黙った。そして、ぽつりと。 

「そうね、でもすぐに死んだ。私の呪いのせいでね」

 あっけらかんとした口調だったが、その言葉の奥に、確かな重さがあった。

 玖波にかけられた「親しくなった者を死に導く呪い」それは確かに存在する。

「……そうですか」

 一桜は、ただそれだけを返した。気の利いたことなんて言えやしない。けど、なんとなく思った。この服を着て、この髪を整えて、少しでもマシな見た目になった自分を見て、玖波が少しでも救われるなら――それでいいか、と。一桜の事情など小さなことに思えた。

 しばらく、部屋に沈黙が満ちた。

「じゃあ……明日は、茶屋にでも行ってみようか」

 玖波が唐突に言った。

「茶屋?」

「依頼探しも兼ねて。人の多い場所の方が、何か拾えるかもしれないし」

「……そうですか。じゃあ、付き合います」

「フフ……」

 そう言った一桜に、玖波は珍しく、声を立てて笑った。初めて出会った時以来だろうか。

「……今の格好なら、連れて歩いても恥ずかしくないしね」

 からかうような言い方だったが、その目は優しかった。

 その笑顔を見て、一桜はふと思う。

 この人を、本当に大切に思ってしまったら――俺は、どうなるんだろうか。

 それでも。きっと、もう引き返せない。

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