内裏の守護者



 夜に魔性が現れる――

 その目撃談が多くなる。

 十兵衛が沢庵と共に内裏にやってきて、半月ほどが経った。

 今では二人は、月ノ輪を守る守護者として内裏の者たちに認識されていた。

 十兵衛と沢庵を内裏から追い出したい者たちも、今では口をつぐんでいる。

 人知を越えた化物――

 魔性に立ち向かえるのは十兵衛と沢庵だけだ。

 命をかけて月ノ輪を守れるのは、二人だけなのだ。

(ありがたい、ありがたい)

 朝食後、十兵衛は畳に横になった。沢庵もまた横になり、早くもいびきをかいている。

 沢庵は夜通し不動明王真言を唱え、十兵衛は愛刀・三池典太を手にして寝ずの番についている。

 昼夜逆転の生活をしている二人の側に、月ノ輪はいない。彼女は幼いながらに学ぶことは多くある。今ごろは別室で勉強をしているのだろう。

(内裏から追い出されることはなさそうだな)

 十兵衛は半ば眠りながら、ぼんやりと考えた。

 魔性の目撃談が上がっているからこそ、沢庵も十兵衛も追い出されないのだ。

 ひょっとすれば、これは魔性の助け舟なのだろうか?

 数日前まで「早く出ていけ」と顔に書いていた高官も、今では沢庵と十兵衛に媚びる始末だ。

 ――なあに、この者(十兵衛のこと)に代わって、貴殿が剣を取れば良いだけのこと。

 と、沢庵から少々意地悪く言われて、高官らは顔を蒼白にしていた。

 剣を取れとは即ち「死ね」というのと同じことだ。

(月ノ輪様を守って死ぬのだ…………)

 十兵衛は眠りに落ちた。

 安らかなはずの眠りの中でも、十兵衛の剣魂は明日への挑戦をやめない。



 深緑に覆われた柳生の庄。

 季節は夏だ。武徳の祖神を祭る香取の地に似た平穏だ。

(これを祖父殿が……)

 十兵衛はいわゆる一刀石を眺めていた。身の丈を越える大岩が真っ二つに割れている。

 伝承によれば十兵衛の祖父、石舟斎宗巌が割ったという。

 石舟斎が修行中に天狗が現れた、それに一刀を打ちこんでしばらく、気がついた時には岩が割れていたという。

(斬ったというより割ったのが正しいかもしれん。では天狗とは?)

 十兵衛は夢の中でも、もがき苦しんでいた。

 いや誰もが人生の中で、もがき苦しんでいる。十兵衛だけがもがき苦しむわけではないが、彼の人生は難事に次ぐ難事だ。

(天狗とは心の恐れと迷いの象徴ではないか……?)

 十兵衛の心にも恐れと迷いはある。彼は天下の危機に二度も遭遇した。その時には、十兵衛も足元が震える不安を感じたものだ。

 一度目は将軍家光による辻斬りだ。

 天下の支配者たる徳川将軍が夜な夜な城を抜け出して、女を斬殺する……

 これが全国の大名に知られれば、どうなっていたかわからない。家光を快く思わない大名は多かった。

 伊達政宗公は知らなかったが、もしも知っていれば全国の大名を扇動し、幕府打倒の兵を起こしたかもしれない。

 二度目は大納言忠長だ。忠長の治める駿河の地には、各地の大名の名代が密かに訪れていた。

 家光より諸大名に人気のあった忠長。その容貌も気性も大伯父の信長に似ていた。また兵法は十兵衛の父の宗矩、小野忠明より学んでいる。

 その腕前は十兵衛をして「及ばぬ……」と嘆息せしめた。その忠長には伊達政宗公を初めとした各地の大名が接触していた。

 十兵衛も駿河に滞在したが、それは神経をすり減らすどころか、いつ暗殺されるかわからぬ過酷な日々だった。権謀術数渦巻く魔都の駿河で、十兵衛は明日を捨てた……

(死を覚悟するのだ十兵衛)

 十兵衛は自分に呼びかけた。

(父も祖父も、先師の上泉信綱公も何を思って戦ってきたか? 命をかけた戦いに臨むのは、守るべきものがあったからだ)

 それは土地であったり、一族郎党の命であったり、自身の誇りであったろう。

 守るべきものがあるならば、死の恐怖も克服できるかもしれない。

(俺は月ノ輪様をお守りするのだ)

 その思いに恐れも迷いもない。

 だが勝てるか?という不安はある。

(我が兵法に死はあれど敗北はない)

 死を覚悟したことで十兵衛の心は定まった。明日は求めぬ。ただ無心の一手。最善を尽くす。それだけではないか。

 ――それでこそ天道なり。

 十兵衛は誰かの声を聴いたような気がした。それは先師か、あるいは武徳の祖神か。

(勝負は一瞬だ……)

 十兵衛には開き直りの思いもある。

 刀を手にして斬りあえば、勝負は一瞬で決着するのだ。

 一瞬の後に命を失う――

 勝負とはそういうものだ。

 父の宗矩、師事した小野忠明、将軍家光、大納言忠長を相手にするように、ただ全身全霊の一手を打ちこむのだ。



 昼食後は月ノ輪を交えた三人で過ごす。まるで家族のようだと十兵衛は思う。

「時に禅師よ、十兵衛に許嫁はおるのか」

「はて、それは存じませぬ。月ノ輪様おん自らお尋ねしてみては」

「そ、そんなこと聞けぬ!」

 ツンツンした様子の月ノ輪。彼女を眺め沢庵は好々爺然の笑みを浮かべる。すっかり祖父と孫娘のようだ。

「ふっ」

 十兵衛は縁側から外に出て、刀の素振りをしていた。

 木刀や後世の竹刀と違い、真剣での素振りは自分を傷つける恐れがある。

 その緊張が己を高める。力となる。たった一回でも、自身の心に緊張は刻まれる。

 刃を以て剣の道への理解を深め、自身の精神を高める……

 この思想こそ、父の宗矩や沢庵の説く剣禅一如であろうか?

 そう思う十兵衛だが、沢庵には畏れ多くて問いただせない。

「さ、夕食じゃ」

 月ノ輪の年齢相応の微笑みに、十兵衛も沢庵も癒される、救われる。側仕えの女官らも、今の月ノ輪には力になりたいと思っている。

 十兵衛と沢庵がやってきてから、月ノ輪は変わった。あるいは元の自分を取り戻したのかもしれない。

「十兵衛、許嫁はおるのか」

 と、これは沢庵だ。

「は? いや、存じませんな」

「おぬし、自分のことじゃろう!? 知らぬのか!? この大うつけ!」

 などと月ノ輪が騒ぐ。楽しい食事であった。

 やがて夜が更けると月ノ輪は眠りについた。

 沢庵は月ノ輪の寝室の前で不動明王真言を唱える。

 十兵衛は柱に背を預け、三池典太の鞘を握る。

 それが新たな生活になっていた。

「……うむ」

 十兵衛、静かに立ち上がった。行灯の光に照らされた部屋は薄暗い。

「どうした十兵衛」

 沢庵は読経を止めて、十兵衛に呼びかけた。

「何かいますな」

 十兵衛は庭に出た。左の隻眼を閉じ、周囲の気配を探る。

 幼い頃に右目を失った十兵衛の感覚は研ぎ澄まされている。聴覚、嗅覚、触覚、味覚――

 それ以外にも第六感とでもいうべき勘を持つ。それこそが失った右目にはるかに勝るものか。

 その十兵衛の聴覚は、屋根の上に微かな音を聴いた。

 ――ぴたん ぷるぷる

 それはヤモリのような生き物が這い回る音だ。十兵衛が庭から屋根へと視線を回せば、そこに自分を見下ろす赤光が闇の中に輝いている。

「くせ者!」

 叫んだ十兵衛。屋根の向こうへ消えた赤光。

 十兵衛は大急ぎでハシゴを運んできて、屋根へと上がった。

 足場の不安を押し殺しつつ、屋根の瓦の上に立つ。前方には両目を不気味に輝かせた人影が、ヤモリのようにうずくまっていた。

「また会ったな」

 十兵衛は人影から目を離さずに、左手に鞘ごと握った三池典太の刀柄へ右手を伸ばした。

 一足飛びに抜き打ちで斬りつけたいが、この足場の悪さが十兵衛の意気を削ぐ。足を滑らせて屋根から転落する想像が十兵衛の意気地をくじいていた。

「ああ、そうだねえ」

 人影は答えた。女の声だ。その全身は人間とヤモリが融合したかのようだ。

「いい男じゃないか」

「そうかね」

 十兵衛は少し気が緩んだ。口八丁に油断したところで首をとられかねない。

「こんな顔ではな」

 十兵衛は自嘲した。彼の右目は父の宗矩によって潰されていた。その隻眼の異相をいい男とは。

「世の中、人を見る目がないね。こんないい男を、ましてやあたしらを相手にできるなんて、あんたくらいしかいないじゃないか」

 ヤモリ女の言葉に、自嘲の念が混じっていることに十兵衛は気づいた。彼女もまた魔性に転じたことに悲しみを感じているのか。

「似たもの同士だな俺たちは」

 十兵衛は三池典太を抜いた。月光に反射して煌めく刃を手にした十兵衛、彼は不動明王が遣わした破魔の兵か。

「そうだねえ、あんた江戸に帰りなよ。見逃しとくから」

「そうもいかんのだ、死に場所を探してる」

「はあー、あ〜…… つまんない男」

 ヤモリ女は屋根に四つんばいに貼りついたまま、十兵衛を見据えていた。

 十兵衛は足場の悪さを気にしたままヤモリ女と対峙する。屋根の上という異例の決戦場、あまりにも十兵衛に不利であった。

「おぞましや畜生――」

 十兵衛の言葉は駆け引きではない、本音であった。

 かつて将軍家光が女を憎み辻斬りの愚行にいたったのは、乳母たる春日局――この頃はまだお福と呼ばれていた――のせいだという。

 乳母である春日局が何をしたかはわからない。また知る由もない。

 だが今この時、十兵衛は家光の気持ちがわかったような気がした。家光は女への憎悪から不能であった――

「な、なめんじゃないよ!」

 ヤモリ女は怒りを抑えた震える声で叫んだ後、十兵衛に飛びかかった。

 十兵衛の漏らした本音に、怒り頂点に達したのだろう。計算したわけではないが、十兵衛はヤモリ女の心を崩した。

 それゆえにヤモリ女は十兵衛に飛びかかった。

 そして十兵衛に微かな勝機が生じた。

 屋根の上に闇を斬り裂く光が走り、僅かに遅れて鮮やかな鮮血が吹き出した。

 鮮血は赤い雨となって大地に降り注いだ。ヤモリ女の体は、真っ二つになって屋根の上を転がり、大地へと落ちていった。

「はあ……」

 十兵衛の顔は蒼白だ。彼の横薙ぎの一閃は、ヤモリ女を真っ二つに斬り裂いたのだ。

 まさかこうなるとは思わなかった。十兵衛の刀を警戒して、自ら攻めこまなかったヤモリ女が、まさか飛びかかってくるとは。自分から間合いを詰めてくるとは。

 十兵衛が自分から斬りこめば、足場の悪さも手伝って、彼は一刀を届かせることなく、屋根の上を転がり落ちたかもしれない。

 勝機は限りなく零であったが勝利を得た。

 十兵衛には勝利の女神がついているのだろうか。

 それは武徳の祖神か、彼に三池典太を与えた春日局か――

 あるいは月ノ輪の幸せを祈る女官であったかもしれない。

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