第12章「月夜のセレナーデ」第1部「月を待つ演奏会」
雲一つない青空が広がっていた前日とは打って変わり、音楽祭最終日の朝は重たい雲に覆われていた。美月は月見野市立公園のベンチに座り、灰色の空を見上げた。昨夜まで輝いていた月の姿はどこにも見えない。彼女の隣には星野が静かに座り、同じく空を見つめていた。
「天気予報、当たったね」美月は小さく息を吐いた。
「ええ。雲が晴れるのは夕方からだって」星野は彼女の表情をそっと観察しながら答えた。「心配?」
美月は自分の右手を見つめ、それから軽く握りしめた。「少し…いえ、かなり」
彼女は言葉を修正し、正直な気持ちを告げた。「あの日、満月の下で弾けたのは奇跡だったのかもしれない。でも今日は…」
彼女の声が途切れた。演奏会での成功から数日が経っていたが、東京音楽協会からのオファーを受けた特別公演は、単なるリサイタルではなかった。月見野音楽祭の最終日、そして美月の復帰を飾る重要な舞台。多くの期待が彼女に寄せられていた。
星野は美月の手に自分の手を重ねた。二人の関係は演奏会の夜に変わったが、その温かな感触はまだ新鮮だった。
「月が見えなくても大丈夫だよ」星野の声は静かだが確信に満ちていた。「雲の向こうに月はある。でも、それ以上に大切なのは…」
彼は美月の手のひらをそっと開き、中心に触れた。
「ここにある月だ。君自身の光だ」
美月は星野の言葉に小さく微笑んだ。彼の存在そのものが彼女に安心感を与えていた。
「昨日の練習では、満足のいく演奏ができなかった」彼女は率直に言った。「あの時のような、オルゴールが自然に鳴り出すような奇跡は二度と起きないかもしれない」
「奇跡は必要ないんだ」星野は優しく言った。「君はもう、外からの力に頼らなくていい。あの夜、君は証明したじゃないか。満月でなくても弾けるって」
彼らの会話は、早朝の公園に静かに広がった。若葉の季節を迎えた木々が、わずかな風に揺れている。美月は深呼吸をし、空気の中に微かな花の香りを感じた。
「今日は特別なゲストも来るんでしょ?」美月は話題を変えた。
「ああ。東京から音楽評論家も何人か」星野は頷いた。「それに…」
「柏木さんや他の音楽関係者も」美月は言葉を継いだ。「プレッシャーになるって言おうとしたの?」
星野は少し照れたように笑った。「見透かされてるね」
「あなたの考えていることは、だいたいわかるわ」美月は彼の腕に軽く触れた。星野との距離感はまだ探り合っているような、少しぎこちない部分があったが、それも含めて心地良かった。
遠くに時計台の鐘の音が響き、二人は顔を見合わせた。
「行かないと」美月は立ち上がった。「準備もあるし」
星野も立ち上がり、彼女の肩に軽く手を置いた。「美月」
彼女が彼を見上げると、星野の真剣な眼差しがあった。
「いつも言っているように、君の音楽は十分素晴らしい。それは月の光のおかげでも、オルゴールの力でもない。君自身の中にある光なんだ。だから…」
「信じて」美月は彼の言葉を完成させた。「そう言いたいのね」
星野は微笑み、無言で頷いた。彼の瞳には、専門家の冷静な分析を超えた、一人の男としての感情が浮かんでいる。昨夜の打ち上げパーティーでの出来事から、二人の関係は決定的に変わった。それでも、このような場面では彼はまだ彼女の音楽を支える人でもあった。
「行きましょう」美月は決意を新たにして言った。「雨が降り出す前に」
公園を後にした二人は、音楽会場に向かって歩き始めた。雲間からわずかな光が差し込み、美月の輪郭を淡く照らしていた。
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月見野市立ホールは、音楽祭最終日の忙しさで活気に満ちていた。関係者たちが行き交い、最後の準備に追われている。美月は楽屋に入ると、すでにそこにはウェルカムフラワーとメッセージカードが飾られていた。
「美月!」
振り向くと、千尋が小さな紙袋を手に駆け寄ってきた。彼女の明るい笑顔は、緊張した空気を一瞬で和らげる。
「これ、お守り。今日のために私とママが選んだの」
美月が紙袋を開くと、小さな月のモチーフのブローチが入っていた。シルバーの繊細な細工で、中央の真珠が月の光を思わせる輝きを放っている。
「千尋…」美月は感動して友人の顔を見た。「ありがとう。大切にするわ」
千尋はにっこり笑い、それから少し表情を引き締めた。「外の客席、すごいのよ。もう満席だって」彼女は興奮した様子で話を続けた。「最前列には柏木先生たち音楽評論家のグループがいるわ。みんな熱心にプログラムに目を通してた。その後ろにはピアノ学校の先生たちも」
千尋は客席の様子を手振りを交えて説明した。「右側のブロックには月見野の音楽関係者が集まってて、左側には東京からのお客様が。ママもパパも2列目の中央あたりに座ってるわ」彼女は声をひそめた。「VIP席には東京音楽協会の理事長も来てるみたい。みんなドレスアップして、本当に特別な雰囲気なの」
美月は深呼吸をした。公演への期待と緊張が混ざり合い、胃がきゅっと縮まる感覚。千尋が続けた。
「あと、ロビーで水島さんとお話ししてきたわ。お父さん、すごく誇らしそうだったよ」
水島正。演奏会の夜以来、父との関係は微妙に、しかし確実に変わっていた。固い表情の下に隠されていた感情が、少しずつ表に出るようになってきた。
「そう…」美月は微笑んだ。「嬉しい」
千尋は美月の肩をぽんと叩いた。「私、席に戻るね。始まる前にママと合流しなきゃ。頑張って!あなたならきっと素晴らしい演奏ができるわ」
千尋が出て行った後、美月は静かな楽屋に一人残された。彼女はドレスケースを開け、今日のために選んだ深い青のドレスを取り出した。空の色というより、夜の月明かりを思わせる色合い。母のネックレスと、今受け取ったブローチを合わせるつもりだ。
ドレスを着終えた美月は、鏡の前に立った。髪を整え、ネックレスをつけ、最後に新しいブローチをドレスの胸元に留めた。
「お母さん、見ていてください」と小さく囁き、彼女は鏡に映る自分自身と向き合った。
そのとき、ドアがノックされた。
「入って」
ドアが開き、父・水島正の姿が現れた。いつもの厳格な表情だが、目元には柔らかさがある。
「準備はいいか」
「ええ」美月は頷いた。
父はしばらく言葉を探すように沈黙し、それから差し出したのは小さな白い箱だった。
「これを持っていくといい」
美月が開けると、中には彼女もよく知る、母のもう一つの形見—シルバーのヘアピンがあった。月と星の繊細なモチーフが施されたそれは、母が特別な舞台でのみ身につけていたもの。美月は息をのんだ。
「お父さん…」
「真理も、きっと喜ぶだろう」水島正は珍しく柔らかい声で言った。「お前が自分の音楽を見つけたことを」
美月の目に涙が浮かんだ。父は少し戸惑いながらも、娘の肩に手を置いた。
「私…」美月は言葉に詰まり、それから続けた。「嬉しい。ありがとう」
水島正は小さく頷き、彼なりの感情表現として十分だった。彼は振り返り、ドアに向かったが、出る前にもう一度美月を見た。
「舞台では…」彼はためらい、それから続けた。「自分の心に正直に弾くといい。それが真理のスタイルだった。そして、それがお前のスタイルになるはずだ」
父が去った後、美月はヘアピンを髪に留めた。鏡の中の自分は、母に似ているようでいて、確かに「自分自身」だった。
彼女がピアニストとしての最後の準備を整えていると、ドアが再びノックされた。今度は星野が入ってきた。彼はコンサートのために黒いスーツを着ていたが、襟元にはサックスブルーのポケットチーフが差してあり、それが彼らしさを醸し出していた。
「美しいよ」星野の声は静かだった。彼の目の中に映る自分を想像し、美月は少し頬を赤らめた。
「ありがとう」彼女は小さく答えた。「あなたも素敵よ」
星野は微笑み、それから少し表情を引き締めた。「特殊照明の準備が整った。前回とは違う配置だけど、効果は保証するよ」
彼は「前回」と言ったが、それは演奏会の夜のこと。オルゴールが自発的に鳴り出し、照明が神秘的に輝いたあの夜のことだった。
「雲の影響は?」美月は空の状態を気にして尋ねた。
「特殊フィルターで対応した。心配しないで」星野はプロフェッショナルな口調で言ったが、すぐに表情を和らげた。「それに、今日は…」
彼は美月に近づき、そっと彼女の手を取った。二人の間の新しい関係性は、まだお互いに慎重に扱っているような、しかし確かな温かさがあった。
「君は月の光がなくても素晴らしい演奏ができる。それは証明されたことだ」
美月は彼の手を握り返した。「ありがとう、誠さん」
彼の名を呼ぶのはまだ新鮮で、少し照れくさかった。しかし同時に、それはとても自然なことのように感じられた。
彼らの瞬間は、ドアをノックする音で中断された。開いたドアから、若いスタッフが顔を見せた。
「水島様、星野様、もうすぐ開演のお時間です」
星野は美月の手をそっと握り直し、それから離した。プロとしての仕事の時間だ。彼は深く頷いた。
「では、客席でお待ちしています」
彼が出ていくと、美月は最後の準備として、二つのオルゴールを確認した。月光老人から受け継いだその品は、すでにステージの端に用意されているはずだが、彼女は小さな鍵で巻いてみた。メロディが静かに流れ出す。
(今日は、あの夜のような奇跡はないかもしれない)彼女は思った。(でも、それでいい。私には…)
彼女は自分の右手を見つめ、それからゆっくりと握った。
(私には、自分自身の音楽がある)
開演を知らせるベルが静かに鳴り、美月は深呼吸をした。薄暗い廊下を通り、ステージへと向かう。歩みを進めるごとに、彼女の中の不安は徐々に静まっていった。代わりに湧き上がってきたのは、昨夜見た月の光のような、静かだが確かな輝きだった。
舞台袖に立った美月の耳に、司会者の声が聞こえてきた。ホール内の期待に満ちた静寂。そして彼女の名前が呼ばれる。
「本日のフィナーレを飾るのは、ピアニスト・水島美月さんです」
深呼吸。右手で母のネックレスに触れ、左手で千尋からのブローチを軽く撫でる。そして、舞台へと一歩踏み出した瞬間、彼女の頭上の雲が少しだけ動き、かすかな光が差し込んだように感じた。
あるいはそれは、彼女の内側から生まれた光だったのかもしれない。
(第1部 終)
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