第11章「手のひらの月」第4部「月の光の演奏」

静寂。


ホール全体が息を潜めたような完璧な静けさに包まれていた。美月はピアノの前に座り、深く息を吸い込んだ。輝くように磨かれた黒いグランドピアノは、彼女の前に横たわる広大な海のように感じられた。客席は暗く沈み、ただ月の光を模した青白いスポットライトだけが彼女を照らしている。


そして、彼女は弾き始めた。


最初の音が空間に広がり、美月の指が鍵盤の上を滑るように動いた。ドビュッシーの「月の光」——彼女は意識的にこの曲を最初に選んでいた。月の光のような柔らかな旋律が会場に流れ、観客たちは静かに聴き入った。


左手は問題なく動き、右手も…最初は順調だった。星野の特殊照明が月光を模して彼女の手元を照らす中、美月は星野の言葉を思い出していた。「指先に月の光を集めて」。彼女はその感覚をイメージしながら、一音一音に思いを込めて演奏を続けた。


しかし、曲が中盤に差し掛かったとき、突然右手の薬指に痺れが走った。「あっ…」美月の心に小さな不安が広がる。続いて小指も言うことを聞かなくなり始めた。彼女の演奏にわずかな淀みが生じる。


(だめ…また、始まった…)


観客は気づいていないかもしれないが、美月自身には明らかだった。満月から日が経つにつれて弱まっていた右手の感覚が、ついに限界に達しようとしていた。彼女は必死に集中し、今まで練習してきた「月の音楽」の奏法を思い出そうとする。


客席の前方に座る父・水島正の表情に緊張が走る。彼は娘の変化を敏感に察知したのだ。そのすぐ隣の月光老人は静かに目を閉じ、何かを待ち受けるように微動だにしていない。


星野は数列後ろから、美月の演奏に全神経を集中させていた。「頑張れ…」彼は心の中で囁いた。


曲の難所に差し掛かり、美月の右手がついに止まりそうになった瞬間だった。舞台の両脇に置かれた二つのオルゴールが、誰も巻いていないにもかかわらず、突然音を奏で始めたのだ。


かすかな音色が美月の耳に届き、彼女は驚いて一瞬演奏を止めかけた。しかし、それは幻聴ではなかった。オルゴールの音色は徐々に大きくなり、ステージの隅に置かれた二つの箱から確かに流れ出ていた。


「どうして…」


不思議なことに、オルゴールから流れる音色は彼女が今まさに演奏していたドビュッシーの「月の光」と完全に共鳴していた。二つのオルゴールが互いに呼応するように、異なる音色を重ね合わせている。その神秘的な現象に会場中が息を呑んだ。


そして、さらに驚くべきことが起きた。星野が設置した特殊照明が突如として輝きを増し、まるで本物の月光のような青白い光が美月を包み込んだのだ。技術的には説明がつかない現象だった。それは機器の光量調整だけでは起こり得ない、何か別の力が働いているかのような輝きだった。


美月の右手の痺れが嘘のように消え去り、指先に新たな感覚が戻ってきた。それは単なる痛みの消失ではなく、これまで経験したことのない繊細な感覚だった。指先が月の光を集め、その光が音に変わっていくような不思議な体験。


(これが…本当の「月の音楽」)


彼女の指が再び自由に動き始め、曲の後半に入ると、彼女の演奏は一層深みを増していった。満席の会場は、水中にいるかのような静寂に包まれ、美月の奏でる音だけが波紋のように広がっていく。


ドビュッシーの「月の光」が終わり、続けてショパンのノクターン第20番嬰ハ短調へと移行した。これはオルゴールの曲でもあり、二つのオルゴールも完璧なタイミングで旋律を変化させた。音色の美しさに、観客の中からは思わずため息が漏れる。


美月は今や完全に音楽に没頭していた。意識は鍵盤と指先のつながりだけに集中し、時間の流れも周囲の存在も忘れたかのような境地。しかし彼女の心の中では、不思議な対話が始まっていた。


それは母・真理との対話だった。


(お母さん、聴こえる? 私、弾いてるの。あなたの大好きだった曲を)


演奏しながら、美月の心には母の姿が浮かんでいた。しかしそれは単なる追憶ではなく、もっと生き生きとした存在感があった。あたかも母が今、この場に立ち会っているかのように。


(でも、これはあなたの演奏とは少し違う。これは…私自身の音なの)


美月の指から生まれる音色は、確かに真理の演奏を彷彿とさせる部分もあったが、決して模倣ではなかった。そこには美月独自の解釈と感情がはっきりと表れていた。真理が持っていた華麗さと技巧の代わりに、美月の演奏には静かな力強さと透明感が宿っていた。


曲が佳境に入り、美月の指先は鍵盤の上を舞うように動いていた。右手の最も複雑なパッセージでさえ、彼女は恐れることなく挑んでいく。もはや「指が動くかどうか」という不安は消え去り、「この音をどう表現するか」という純粋な音楽的探求だけが彼女の中に残っていた。


オルゴールの音色と美月のピアノは完璧に調和し、ホール全体を幻想的な響きで満たしていった。それは単なる音楽ではなく、光と音が融合したような体験だった。


星野は息を飲みながら美月の演奏に聴き入っていた。科学者としての彼は、目の前で起きている現象—オルゴールの自発的演奏や光の変化—を説明することができなかった。しかし音楽療法士として、そして何より一人の人間として、彼は美月の演奏の中に確かな「奇跡」を感じていた。


(素晴らしい…これが本当の彼女の音楽なんだ)


水島正の目には涙が光っていた。娘の演奏に、彼は妻・真理の面影を見ると同時に、美月自身の成長も感じていた。「真理を超えた」というより、真理から受け継いだ才能が、美月という新しい土壌で花開いたように思えた。


月光老人は静かに微笑んでいた。彼の表情には満足感と、何か使命を果たしたような安堵の色が浮かんでいた。「月見家の音楽」が次の世代へと確実に継承されたことを確認するかのように、彼は静かに頷いていた。


客席の最前列では、瑞穂が感極まった様子で演奏に聴き入っていた。彼女の横に座る千尋も、友人の姿に誇らしげな表情を浮かべている。


ショパンのノクターンの最後の音が鳴り響いたとき、美月の指先から滴るような音が会場に広がり、そして静かに消えていった。余韻が残る一瞬の静寂。


そして、爆発的な拍手が湧き起こった。


観客たちが一斉に立ち上がり、惜しみない喝采を送っている。「ブラボー!」という声も聞こえた。美月はピアノから顔を上げ、現実に戻ったような表情でホールを見渡した。彼女の頬には涙が伝っていた。それは喜びの涙であり、解放の涙でもあった。


美月はゆっくりと立ち上がり、観客に向かって深々と一礼した。拍手はさらに大きくなり、会場全体が興奮と感動に包まれていた。


彼女の視線が客席に向けられ、まず父と目が合った。水島正は立ち尽くしたまま、誇らしげに娘に微笑みかけていた。次に月光老人を見ると、彼はただ静かに頷くだけだった。しかしその瞬間、美月には彼の目に浮かぶ感情が痛いほど理解できた。それは「成し遂げたね」という無言の祝福だった。


そして、美月は星野を探した。彼と目が合うと、言葉にならない何かが二人の間で交わされた。星野の表情には驚きと喜び、そして何か新たな感情が混ざっていた。彼は精一杯の拍手を送りながら、小さく頷いた。美月は自然と微笑み返していた。


拍手が少し収まると、美月は再びピアノに向かった。アンコールだ。彼女は深呼吸し、再び指を鍵盤に添えた。そして奏で始めたのは、ベートーヴェンの「月光ソナタ」第一楽章。皮肉なことに、これは彼女が演奏障害になる前、最後に公の場で演奏した曲でもあった。


しかし今回の演奏は、あの時とはまったく違うものだった。以前の彼女が完璧な技術と規範的な解釈を目指していたのに対し、今の美月は音楽そのものの本質、一音一音の意味を探求するように演奏していた。それはより自由で、より個人的な解釈に満ちていた。


この曲の間も、二つのオルゴールは静かに共鳴し続け、青白い光は美月を神秘的に照らし続けていた。この光景を目の当たりにした観客たちは、何か特別なものを見ているという感覚に包まれていた。


演奏が終わると、さらに大きな拍手が会場に響き渡った。美月は立ち上がり、もう一度観客に深々と頭を下げた。そして彼女は舞台の両脇に置かれたオルゴールに歩み寄り、それぞれに手を添えてから再び観客に向かって礼をした。その仕草には、オルゴールへの感謝の気持ちが表れていた。


最後に美月は客席に向かって小さく手を振り、ステージを後にした。舞台の袖に入った瞬間、彼女の体から緊張が一気に抜け、深い安堵のため息をついた。そこには千尋が待っていて、すぐに彼女を抱きしめた。


「すごかった! 信じられない演奏だったわ!」千尋は興奮して言った。


「ありがとう…」美月は小さく答えた。実感が湧かない様子だった。「でも…あのオルゴール、誰も巻いていないのに…」


「私も不思議に思ったわ」千尋は首を傾げた。「でも、それが起きたから、あんな素晴らしい演奏になったんじゃない?」


美月はオルゴールの入った箱を手に取り、思考に沈んだ。「もしかしたら…」彼女は言いかけて言葉を切った。まだ自分でも理解できていないことを言葉にするのは難しかった。


その時、楽屋への廊下から複数の足音が近づいてきた。美月と千尋が振り向くと、水島正、星野、月光老人が姿を見せた。美月の父がまっ先に歩み寄り、珍しいことに、彼女をしっかりと抱きしめた。


「素晴らしい演奏だった、美月」水島正の声は感動で少し震えていた。「真理も…いや、真理も誇りに思っただろうね」


美月は言葉にならない喜びを感じながら、父の腕の中で小さく頷いた。正が彼女を離すと、月光老人が近づいてきた。


「水島美月…いや、美月」彼は優しく言った。「今日のあなたの演奏は、単なる回復ではない。新しい音楽の誕生だった。継承は完了した」


「継承?」美月は不思議に思って尋ねた。


月光老人は含み笑いを浮かべた。「あなたも感じたはずだ。あの演奏は真理のものではなく、あなた自身のものだった。それでいいのだよ。真の継承とは模倣ではなく、魂の発展なのだから」


美月は深く考え込むように頷いた。確かに彼女は演奏中、自分が母の音楽を超えて、何か新しいものを創造しているという感覚を持っていた。それは母への背信ではなく、むしろ母が望んでいたことのように思えた。


そして最後に、星野が彼女の前に立った。彼の目には喜びと誇らしさ、そして何か言いたげな感情が浮かんでいた。


「君は本当にやり遂げたね」彼は静かに言った。「最高の演奏だった」


「ありがとう…誠さん」美月は自然と彼の名前を呼んだ。「あなたがいなければ、できなかった」


二人は静かに見つめ合い、言葉以上のものを交わした瞬間だった。星野は何か言おうとしたが、ちょうどそのとき、楽屋への入り口から新たな来客が現れた。


紺のスーツを着た初老の男性が、若い女性の秘書らしき人物と共に入ってきた。彼は丁寧に一礼し、美月に向かって言った。


「失礼します。東京音楽協会の柏木と申します。素晴らしい演奏でした。ぜひ東京での特別コンサートに出演していただきたいのですが、いかがでしょう?」


美月は驚きのあまり言葉を失った。東京音楽協会は国内でも最も権威ある音楽団体の一つで、そこからのオファーは彼女の音楽キャリアの大きな転機になり得るものだった。


水島正が娘の代わりに応えた。「ありがとうございます。詳細は後日改めて相談させてください」


柏木は名刺を取り出し、美月に手渡した。「ぜひ前向きにご検討ください。あなたの演奏は特別です。今日の特殊なオルゴール演出も含めて、東京のステージでぜひ再現していただきたい」


美月は困惑した表情で名刺を受け取った。彼らにとって、あれは「演出」だったのか。説明することはできないだろう、あのオルゴールが自発的に鳴り出したことも、月の光が本物のように輝いたことも。


「ありがとうございます。検討します」彼女はようやく言葉を絞り出した。


柳盤などの挿し組みない丁寧な振る舞いと、その一団は急いだ様子で去っていった。部屋に残された名刺を見つめながら、美月は深いため息をついた。詰めかけていた感情が一気に解放されたような安堵感と、予想しなかった展開に我に返った戸惑い、そして才能を認められた喜びが複雑に交錯する。彼女は静かにオルゴールを見つめた。


「これからどうするの?」千尋が尋ねた。


「まだ…分からない」美月は正直に答えた。「でも、何かが変わった気がする。今夜、私の中で何かが」


星野が静かに言った。「それが大切なことだよ。東京の話はゆっくり考えれば良い」彼は美月の様子を心配そうに見ていた。「今は休むべきだ。感情も体力も使い果たしただろう」


美月はうなずいた。確かに彼の言う通りだった。しかし同時に、彼女の内側では新たなエネルギーが目覚めつつあった。それは失われていた右手の機能だけでなく、もっと根本的な何か—彼女自身の音楽への情熱と自信だった。


「外の空気を吸いたいわ」美月は言った。演奏会終了後の高揚感と恐れ多いオファー、そして愛おしい光景の模様、それらのすべてが交錯する中で、心の平積を取り戻したい気持ちだった。彼女はふと星野の顔を見上げた。「誠さん、付き合ってくれる?」


星野はわずかに驚いたような表情を見せたが、すぐに微笑んだ。「もちろん」


水島正、月光老人、千尋は意味ありげに顔を見合わせた。月光老人が小さく頷き、水島正は軽く肩をすくめて微笑んだ。三人は美月と星野を見送った。


「彼女は自分の月を見つけたようだね」月光老人が静かに呟いた。


水島正はその言葉の意味を考えながら、娘の後ろ姿を見送った。彼女はもう、真理の影の中の存在ではなかった。完全に自分自身の光を放ち始めていた。


美月と星野は会場の裏口から外に出て、夜の空気を深く吸い込んだ。空には欠けた月が静かに輝いていた。二人は並んで立ち、しばらくその月を見つめていた。


(第4部 終)

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