第7章「月の満ち欠け」第2部

水島家は月見野の高台にあり、町を見下ろす位置にあった。西洋風の洋館は、その佇まいだけで威厳を感じさせる。美月は玄関前で深呼吸した。千尋と約束していたピアノの練習のためだが、どことなく緊張が走る。


インターホンを押すと、しばらくして千尋の声が返ってきた。


「美月さん?ごめんなさい、急な用事で外出することになって……今から出るところなの」


「そう、残念ね。また今度にしましょう」


「本当にごめんなさい。練習楽しみにしていたのに」


千尋の謝罪の声にはどこか焦りがあった。突然の予定変更のようだ。美月は気にしないよと告げ、電話を切った。せっかく来たのに、と少し肩を落とす。


振り返ろうとした時、玄関のドアが開く音がした。


「どなたですか?」


低く、どこか疲れたような男性の声。振り返ると、そこには水島正が立っていた。いつもの厳格な顔つきというより、少し柔らかい表情に見える。演奏会以来、初めての対面だ。


「あ、こんにちは。緒方美月です。千尋さんとピアノの練習の約束をしていたのですが……」


「ああ、千尋なら急な音楽教室の発表会の手伝いで出かけたところだ。私からも伝えておく」


美月はお辞儀をし、「失礼します」と言って立ち去ろうとした。


「……待ってくれないか」


振り返ると、水島正の表情が少し変わっていた。どこか迷いを含んだ目で美月を見ている。彼自身も自分の言葉に驚いているようだった。数日前から胸の内で膨らんでいた思いが、突然の衝動となって口をついて出たのだ。


「演奏会では……素晴らしい演奏だった」


美月は驚いた。水島正が自分の演奏を褒めるとは思ってもいなかった。


「ありがとうございます」


「真理の……妻の面影を感じた」


その一言は、美月の心に直接届いた。水島正の声には、長い間抑え込んでいた感情が滲んでいた。演奏会で美月の奏でる音色を聴いた瞬間、十年以上封印していた記憶の扉が開き、真理との日々が鮮明に蘇ったのだ。


「少し時間があれば、話をしてもらえないだろうか」


そう言われて、美月は水島家に足を踏み入れることになった。


---


水島家の居間は、静謐な雰囲気に包まれていた。クラシック音楽の愛好家らしく、壁にはヨーロッパの著名な音楽家の肖像画が飾られ、一角にはレコードプレーヤーとクラシック音楽のレコードコレクションが並んでいる。しかし、どこか生活感の薄い、冷たさも感じた。


「お茶をどうぞ」


水島正が差し出した紅茶を受け取る。以前の頑なさとはどこか違う、柔らかさを感じる。水島正は茶を一口飲み、ためらいがちに口を開いた。


「美月さんの演奏会の後、何日も考えていたんだ。自分がこれまでどれだけ頑なになっていたか、どれだけ過去に囚われていたかを」


少し沈黙があった。水島正は窓の外に広がる町を見つめながら続けた。


「実は……真理の遺品整理を始めようと思っている」


予想外の言葉に、美月は驚いた。水島正はこれまで妻の死から立ち直れず、遺品に手を付けることもなかったと千尋から聞いていた。


「千尋があなたと過ごすようになってから、少しずつ変わってきた。演奏に対する姿勢も、表情も」


水島正は窓の外を見つめながら話を続けた。


「真理が亡くなってから、私は千尋に厳しくしすぎたのかもしれない。真理の才能を継がせたいという思いが強すぎて……その才能の本質を理解することなく」


一瞬沈黙があり、水島正は美月をまっすぐ見た。目に浮かぶ感情は悔恨と、そこから抜け出そうとする決意だった。


「あなたの演奏を聴いて思ったよ。真理の教えは、単なる技術だけではなかったのだと」


美月は静かに聞いていた。水島正の言葉には、長い間抱えていた後悔と、新たな気づきが混ざっていた。


「そこで提案なのだが……真理の音楽資料の整理を手伝ってもらえないだろうか。彼女の残した楽譜や音楽ノートは、あなたのような若い音楽家にこそ見てもらいたい」


「私でよろしければ、喜んでお手伝いします」


美月は即座に答えた。これは水島真理の音楽との出会いであり、オルゴールの謎を解く手がかりにもなるかもしれない。


水島正は頷き、美月を書斎へと案内した。


---


真理の書斎は、長い間誰も入っていないかのように、静かで少し埃っぽかった。しかし、その静寂の中にも、かつてここで音楽と向き合っていた人の気配が残っているようだった。


「ここを整理するのは、真理が亡くなって以来初めてだ」


水島正の声には感慨深いものがあった。


書斎には楽譜や音楽書が整然と並び、デスクの上には未完成の楽譜が置かれていた。壁には真理のコンサートポスターや、演奏会の写真が飾られている。真理が美しく微笑む中年の写真と、その隣に若い頃の真理と美月の母・瑞穂が並んで写っている学生時代の写真も。


「まずはこの棚から始めようか」


水島正が指さした棚には、真理の音楽ノートや日記、スクラップブックが並んでいた。美月は恐る恐る手を伸ばし、一冊の日記を取り出した。「1975年」と表紙に書かれている。真理が25歳頃のものだろうか。


日記はきれいな字で書かれていた。音楽についての考察や、演奏会の感想、教えている生徒たちのこと。そして、時折現れる「オルゴール」という言葉。


「このオルゴールについて書かれた部分が気になります」


美月がページを示すと、水島正は懐かしむように微笑んだ。


「ああ、真理の宝物だった。彼女が学生時代から大切にしていたものだ」


美月はさらにページをめくると、ある記述に目が留まった。


「5月21日——今日もオルゴールは月の光を浴びて輝いた。不思議だ。月が欠けていくにつれて、音色が変化するように感じる。この音色と月の満ち欠けには何か関係があるのだろうか。音楽と月の結びつきについて、もっと調べなければ」


その数行後には、「月見恒彦」という名前と、その後に疑問符が記されていた。


「月見恒彦……この方はどなたですか?」


水島正は首を傾げた。


「初めて聞く名前だ。真理の知り合いだったのかもしれないが……」


更に日記をめくると、断片的な記述が続いていた。


「オルゴールの製作者を探そう」

「月の光を集める仕組み」

「音楽の記憶を刻む銀の響き」


美月は興奮を抑えられなかった。これらは自分が今、星野と研究している内容そのものだった。真理も同じ疑問を抱き、答えを探していたのだ。


「これを読ませていただけますか?」


「もちろん。他にも真理のノートや資料がたくさんある。自由に見てくれていい」


二人が資料を整理していると、一冊の革製のアルバムが見つかった。水島正が大切そうに開くと、若かりし日の真理の写真がたくさん収められていた。


「これは音楽大学時代の写真だ」


若く輝いていた真理。コンクールで優勝したときの誇らしげな表情。友人たちと笑い合う自然な笑顔。そしてその中に、美月の母・瑞穂との写真がたくさんあった。


「母とは本当に仲が良かったのですね」


「ああ、いつも一緒だった。互いに刺激し合う良きライバルであり、親友だった」


水島正はアルバムのページをめくりながら続けた。


「真理が月見野に戻ってきたのは、オルゴールを手に入れてからだった」


「オルゴールが月見野と関係しているのですか?」


「真理はよく言っていた。『この町の月には特別な力がある』とね」


美月の心の中で、様々な点が繋がり始めていた。オルゴール、月、真理、そして月見野という町。全てには何かの関係があるに違いない。


「実は、そのオルゴールは今、私が持っています」


水島正の目が驚きで見開かれた。


「あのオルゴール?どうして君が……」


「母が持っていて、私に譲ってくれたのです」


美月は星野と調査を始めたことも含め、ここまでの経緯を簡単に説明した。水島正は黙って聞いていた。


「そうか……真理の大切なものが、こんな形で巡り巡って」


水島正の口調には感慨深いものがあった。


「真理があのオルゴールを大事にしていたのは、単なる思い出以上の理由があったようだ。演奏するとき、特に満月の夜には、彼女の演奏が一層輝きを増した」


それは美月自身の体験とぴったり重なる。星野の科学的検証の意味がさらに重要になってきた。美月は何か言おうとして、一瞬躊躇した。自分がオルゴールを持っていることを告げるべきか少し迷ったが、真実を伝えることが最良の選択だと判断した。


「実は……」美月は少し言葉を選びながら続けた。「そのオルゴールは今、私が持っています」


水島正の目が驚きで見開かれた。


「あのオルゴール?どうして君が……」


「母が持っていて、私に譲ってくれたのです」


美月は星野と調査を始めたことも含め、ここまでの経緯を簡単に説明した。水島正は黙って聞いていた。


「そうか……真理の大切なものが、こんな形で巡り巡って」


水島正の口調には感慨深いものがあった。


書斎の窓から差し込む夕方の光が、部屋に温かな色合いを加えた。そこで美月は、机の隅に置かれた小さな木箱に気づいた。


「あれは?」


「ああ、真理の手紙や小さな思い出の品が入っているはずだ。まだ開けていないんだ」


水島正は小箱を取り、ゆっくりと蓋を開けた。中には古びた手紙の束や、小さなアクセサリー、コンサートのチケットの半券などが入っていた。そして一番下に、古い封筒があった。宛名は「水島真理様」、送り主は「J・リシャール」とある。


「フランス語かな?」


水島正が封を開け、中の手紙を取り出した。日付は1974年10月15日。フランス語で書かれた文章の下に、日本語の翻訳が添えられていた。


「『お望みのオルゴールが完成いたしました。古の伝承に基づき、月の銀と呼ばれる特殊な金属を用い、形にしております。ご指定のショパン夜想曲の調べを刻み、その内に魂を宿す処理を施しました。月見様からの神秘的なご指示に従い、満ちゆく月と共に響きの変わる仕掛けを内蔵しております。かくも不思議な依頼は初めてですが、貴方様の満足を祈りつつ』」


美月と水島正は顔を見合わせた。


「月見様?もしかして、先ほどの月見恒彦という人物のことでしょうか」


「かもしれない。真理はこの手紙について何も話さなかった。オルゴールの由来については、『大切な人からのプレゼント』とだけ言っていた」


新たな謎が浮かび上がってきた。オルゴールを作ったのはJ・リシャールという人物で、それを依頼したのは「月見様」。そして、そのオルゴールが真理の手に渡り、さらに美月の母を経て、美月に——。


「私も調べてみます。このJ・リシャールさんや月見恒彦さんについて」


水島正は感謝の表情を見せた。


「君が来てくれて良かった。一人ではなかなか踏み出せなかったよ」


そう話しているところに、玄関のドアが開く音がした。


「お父さん、ただいま」


千尋の声だ。居間に入ってきた千尋は、美月を見て驚いた様子だった。


「美月さん?まだいたの?ごめんなさい、急に呼び出されて……」


「心配しないで。お父さんといろいろお話できたわ」


水島正は千尋に優しい表情を向けた。それは美月がこれまで見たことのない、父親らしい表情だった。


「千尋、お帰り。これからは真理——お母さんの遺品を整理しようと思う。美月さんにも手伝ってもらうことにした」


「お母さんの……?」千尋の目が大きく見開かれた。「本当?お父さん、ずっと触れたくないって言ってたのに」


「ええ。もう時間が来たんだと思う」水島正は静かに答えた。


千尋は戸惑いながらも、小さくうなずき、やがて笑顔を見せた。「私も手伝うわ。美月さんと一緒に」


父と目を合わせる千尋の姿に、何かが変わり始めていることを美月は感じた。三人で一緒に真理の遺品を整理する——それは水島家の新しい章の始まりのように思えた。


「美月さん、またいつでも来てください。これからもよろしくお願いします」


帰り際、水島正はそう言った。以前の冷たさは影を潜め、どこか温かみのある声だった。


美月はお辞儀をし、「こちらこそよろしくお願いします」と応えた。


水島家を後にする美月の心の中で、オルゴールの謎を解く新たな糸口が見つかった喜びと、水島家の父娘に何かの変化が起き始めていることへの安堵が入り混じっていた。


月は徐々に欠けていった。しかし、謎を解く道筋は少しずつ明るくなっていく。そんな感覚を抱きながら、美月は星野に報告するために足早に歩き始めた。


(第2部 終)

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