第3章「音楽への扉」第2部
「月のしずく」という名の小さな喫茶店は、午後の穏やかな時間帯だった。レトロな外観の建物は、かつて洋館だったものを改装したもので、入り口上部には三日月の形をした青い看板が優雅に輝いていた。ドアを開けると小さなベルの音が心地よく鳴り、美月と星野を出迎えた。
店内に入ると、薄暗い照明と落ち着いた雰囲気が二人を包み込む。天井が高く、壁には月の満ち欠けを描いた絵画や、古い楽器が飾られていた。店内の各テーブルにはそれぞれ異なる形の小さなランプが置かれ、月明かりをイメージした柔らかな光を放っている。店名の「月のしずく」は、創業者が音楽家でもあり、「月光が水滴のように音楽となって地上に降り注ぐ」という詩的なイメージから名付けられたのだと、入口近くの小さな額に記されていた。
窓際の席に着いた美月と星野の間には、先ほど購入したショパンの研究書と二人分のコーヒーが置かれていた。窓から差し込む柔らかな陽光が、テーブルの上で優しい影を作っている。
「このお店、静かでいいですね」美月は窓の外を見ながら言った。
「ええ、考え事をするのに最適な場所なんです。僕の隠れ家みたいな場所でして」星野は優しく微笑んだ。「店主は元ジャズピアニストで、音楽への愛情があふれている場所なんです」
しばらくの間、二人はお互いを観察するように静かに過ごした。美月は星野の表情から何か敵意や過度の好奇心を探そうとしていたが、そこにあったのは純粋な関心と思いやりだけだった。コーヒーの芳醇な香りが漂う中、彼女は少しずつ緊張を解いていった。
「星野さんは…?」
「ああ、僕のことですか。東京大学の大学院で音楽療法を研究している学生です。特に音楽が人の感情や回復過程に与える影響について研究しています」
星野はカップを手に取りながら、自然な流れで自己紹介を始めた。
「音楽療法…」美月は思わずつぶやいた。その言葉には、自分にも関わりがあるかもしれないという微かな期待が込められていた。
「はい。音楽には人の心や体を癒す力があるんです。リハビリテーションにも有効で…」星野は言いかけて、ハッとした表情を見せた。「あ、すみません。配慮が足りませんでした」
「いいえ…」美月は小さく首を振った。「興味があります。続けてください」
星野は少し驚いた表情を見せたが、静かに話を続けた。
「音楽療法では、演奏することだけが目的ではないんです。音楽を聴くこと、感じること、それ自体にも大きな意味がある。完璧な演奏技術より、心で感じる音楽の価値を大切にします」
美月は少しだけ前のめりになって聞いていた。
「例えば、手や指に怪我をした方の場合、いきなり楽器の演奏に戻るのではなく、まずは音楽を聴くことから始めます。その音楽に合わせて体を小さく動かしたり、リズムを感じたり。それから少しずつ、簡単な打楽器などを使って音を出す喜びを思い出していくんです」星野は両手でジェスチャーを交えながら説明した。「ある患者さんは、事故で指の動きが制限されてしまったのですが、左手だけで演奏できる曲から始めて、少しずつ音楽と再会していきました。今では自分なりの演奏スタイルを見つけて、地域の音楽サークルで活動されています」
その言葉は、美月の心に静かに響いた。事故以来、彼女は音楽を「完璧に演奏すること」としか考えていなかった。そして、それができなくなった自分には音楽の資格がないと思い込んでいた。でも、星野の言葉は別の可能性を示していた。
「佐藤さんの演奏を初めて聴いたのは、確か3年前の月見野音楽祭でした」星野は静かに言った。
美月は息を飲んだ。それは事故の直前、彼女が最後の公式演奏をした機会だった。
「ショパンの夜想曲第20番…あの演奏は今でも忘れられません」
「覚えていてくださったなんて…」美月の声は震えていた。
「あの日の演奏会場は雨が降っていて、少し湿った空気でした。でも、佐藤さんの演奏が始まった瞬間、会場全体が別の場所に運ばれたような…」星野は遠い記憶を辿るように目を細めた。「客席は満員だったのに、あなたの最初の音が鳴った瞬間、誰もが息を止めたように静まり返ったんです」
美月の脳裏に、あの日の情景が鮮明によみがえった。黒いドレス、少し緊張した指先、そして演奏に集中するうちに周りの世界が消えていくあの感覚。雨の音とピアノの音が混じり合う不思議な調和。今思えば、それが最後の晴れ舞台になるとは思ってもみなかった。
「特に印象的だったのは、技術の完璧さではなく、音一つ一つに込められた感情でした。聴いている人の心に直接語りかけるような…」星野の声には敬意と憧れが混ざっていた。「音符の間の、言葉にできない沈黙の瞬間にさえ、何か魂のようなものを感じました」
美月はコーヒーカップを強く握りしめた。もう二度と戻れないと思っていた過去。でも星野の言葉は、過去の栄光を思い出させるものではなく、彼女の中に眠っていた何かを呼び覚ますものだった。
「星野さん、どうして…こんな話を」
「失礼でしたか?」星野は心配そうに尋ねた。
「いえ…ただ…」美月は自分の右手を見つめた。「私はもう…あのように弾けないんです」彼女の声には諦めと悔しさが混じっていた。
星野は黙って美月を見つめていた。彼の表情には非難も同情も見えなかった。ただ、静かな理解があるだけだった。
「実は…」星野はカバンから一枚のチラシを取り出した。「来月、月見野音楽祭が開かれるんです。僕も実行委員の一人で、いろいろ準備を手伝っています」
美月はチラシを見つめた。「第10回月見野音楽祭」と書かれたタイトルの下には、満月の夜に開催されるイベントの詳細が記されていた。華やかなデザインの中に、月と音楽をモチーフにしたイラストが印象的だった。
「5月7日…」美月はつぶやいた。その日付を見た瞬間、彼女の心に小さな鼓動が生まれた。
「ええ、次の満月の夜です。もし良ければ、聴きに来てはいかがですか。演奏者としてではなく、聴衆として」
美月は星野の提案に戸惑いを感じた。音楽が溢れる空間に身を置くことは、事故以来避けてきたことだった。それは自分の失ったものを直視することになるから。でも同時に、昨夜の体験と星野の言葉が、彼女の中で何かを変えつつあることも感じていた。
「考えておきます…」美月は曖昧に答えた。
星野は急かすことなく微笑んだ。「音楽は指先だけじゃない。心で感じるものですから」
その言葉に、美月は驚いて顔を上げた。昨夜の月光老人の言葉と不思議なほど似ていた。そして、その偶然の一致が彼女の中に新たな疑問を呼び起こした。
「あの…これは唐突かもしれませんが…」美月はポケットに手を入れ、オルゴールの形に触れた。「音楽と月の関係について、何か知っていますか?」
星野は意外そうな表情を見せたが、すぐに考え込むような表情に変わった。彼の目に興味の光が灯った。
「面白いご質問ですね。古来から月と音楽には特別な結びつきがあるとされています。月の光は、人の創造性や感受性に影響を与えると言われてきました。ベートーヴェンの『月光ソナタ』やドビュッシーの『月の光』など、月をテーマにした名曲も数多くありますね」
美月は星野の話に聞き入った。彼の知識の深さと、音楽への情熱は本物だと感じられた。彼の言葉が、昨夜の体験に科学的あるいは文化的な背景を与えてくれるのではないかという期待を感じた。
「それに…」星野は少し躊躇いながら続けた。「これは科学的根拠はないのですが、月の光の下では、人の感覚が研ぎ澄まされるという言い伝えもあります。特に満月の夜は…」
美月は思わず息を呑んだ。昨夜の体験が蘇る。オルゴールの音色、月の光、そして奇跡のように動いた右手の指。彼女の胸の鼓動が早くなるのを感じた。
「満月の夜は?」美月は思わず身を乗り出した。
「満月の夜は、人の潜在能力が引き出されるとも…でも、これは民間伝承の域を出ないんですけどね」星野は照れたように笑った。「東洋の伝統医学では、月のエネルギーが人の治癒力を高めると考えられてきました。月光浴という習慣もありますし」
美月はカバンの中のオルゴールを強く意識した。彼女の経験した不思議な現象には、何か根拠があるのかもしれない。単なる偶然ではなく、古くから伝わる知恵に通じるものがあるのかもしれない。その考えが、彼女にわずかな安心感を与えた。
「佐藤さん、何か特別な理由があるんですか?その質問には」星野は静かに尋ねた。彼の目には純粋な関心があった。
美月は言葉に詰まった。オルゴールのことを話すべきだろうか。まだ自分でも理解できていないことを。胸の内で葛藤が生まれた。信じてもらえないかもしれない。狂っていると思われるかもしれない。しかし、その迷いを打ち消すように、店内にピアノの音色が流れ始めた。
「あ、マスターがピアノを弾き始めましたね」星野は店の奥を指さした。
美月が振り返ると、カウンター近くの小さなグランドピアノで、白髪の店主が静かに演奏していた。ショパンのノクターンだった。彼女の耳は瞬時にその曲を認識した。美しい旋律が店内を満たし、他の客たちも静かに聴き入っている。
「第2番変ホ長調…」美月は思わず口にした。音の流れに身を任せながら、彼女は一瞬自分の状況を忘れた。
「さすがですね」星野は感心した様子で言った。「このお店のピアノ、いつも開放されているんですよ。お客さんで弾ける人がいたら自由に弾いていいことになっています」
美月は無意識のうちに、演奏されるピアノの音に合わせて、テーブルの上で右手の指を小さく動かしていた。それは、かつて練習していた時の習慣だった。音を聴きながら指の動きをイメージする練習法。それに気づいた星野は、彼女の手を見つめた。
「音楽は指先だけではないかもしれませんが…」星野は静かに言った。「でも、音楽を愛する心が、いつか新しい道を見つけるものです」
美月は自分の指の動きに気づき、はっとして手を引っ込めた。でも、星野の言葉には非難の色はなく、むしろ励ましのように感じられた。一瞬の恥じらいが過ぎた後、彼女は心の中に小さな希望の種が芽吹くのを感じた。
「どうして…そんなに親切にしてくれるんですか?」美月は思わず尋ねた。目の前の男性の優しさが、彼女には不思議だった。
星野は少し驚いたような表情を見せた後、穏やかに答えた。
「佐藤さんの演奏は、僕に音楽療法の道を進むきっかけをくれたんです。あの日の演奏会で、音楽の持つ癒しの力を実感したから」
美月は言葉を失った。自分の演奏が誰かの人生の方向性に影響を与えたなど、考えたこともなかった。自分のピアノは自分だけのものだと思っていたのに。
「音楽祭の後、僕は音楽と医学を結びつける道を真剣に考えるようになりました。それまでは何となく研究していただけだったんです」星野は少し懐かしそうに続けた。「佐藤さんの演奏には、人の心を動かす何かがあった。その力を理解したいと思ったんです」
「私の演奏が…そんな風に」美月の声は小さくなった。
「それに…」星野は少し照れくさそうに続けた。「人は誰でも、時に道に迷うものです。そんな時、誰かの少しの親切や理解が、大きな支えになることもある。僕は単に…その役目を果たしたいだけです」
美月の目に涙が浮かんだ。星野の言葉には、押し付けがましさや同情ではなく、純粋な温かさがあった。彼女は感情を抑えようと、こっそりとハンカチを取り出し、目頭を押さえた。
時間が経つのも忘れて、二人は音楽の話、星野の研究の話、そして月見野の街の変化について話し続けた。美月は自分が久しぶりに、こんなにも長く他人と会話を続けていることに気がついた。そして何より、音楽の話題を避けるのではなく、積極的に耳を傾けていることに。それは彼女自身にとっても驚きだった。
店内の時計が5時を指した時、美月は驚いて立ち上がった。
「こんなに長居してしまって…」
「いえ、僕こそ長々とお話してしまって」
カフェを出ると、空は夕暮れの柔らかな光に包まれていた。通りのあちこちで街灯が灯り始め、人々が帰路を急ぐ姿が見える。
「今日はありがとうございました」美月は静かに言った。胸の中に不思議な充実感があった。
「こちらこそ。もし良ければ、連絡先を…」星野は少し躊躇いながら言いかけた。
美月は一瞬迷った。これ以上関わるべきだろうか。でも、今日の会話は彼女に何かを与えてくれた。久しぶりに感じた、外の世界とのつながり。そして音楽への新しい見方。
「はい」美月は小さく頷いた。
二人は連絡先を交換し、別れの挨拶をした。美月が一歩歩き出したとき、星野が声をかけた。
「佐藤さん、音楽祭のこと、ぜひ考えてみてください。聴きに来るだけでも、きっと素敵な時間になると思います」
美月はただ微笑むだけで言葉を返さなかった。しかし、その微笑みには以前にはなかった柔らかさがあった。
帰り道、美月は空を見上げた。そこには、まだ薄い夕暮れの空に、小さく淡い半月が浮かんでいた。その月を見つめながら、彼女は今日出会った星野誠のことを考えた。そして、星野の言葉の中に、新たな可能性の光を感じていた。
「月と音楽…」美月はつぶやいた。カバンの中のオルゴールが、彼女の言葉に応えるように、ほんの少し温かさを放ったような気がした。
(第2部 終)
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