第2章「月光の贈り物」第3部
美月は手の中のオルゴールを大事に握りしめ、石段を下り始めた。胸の内には混乱と期待が入り混じっている。今の出来事は現実だったのか、それとも疲れた心が見せた幻想なのか。ただひとつ確かなのは、手の中のオルゴールの存在だけだった。
月明かりが道を照らし、不思議と足元がはっきりと見える。昼間には気づかなかったが、石段や周囲の木々が月の光を浴びて、青白い輝きを放っていた。美月は時折立ち止まり、振り返った。頂上はもう見えない。あの老人は一体誰だったのだろう。
「月の光を集めるオルゴール…」
老人の言葉を思い出す。「真に音楽を愛する者だけが、その音色を聴ける」と彼は言った。そして「君の願いが叶うことが最高のお礼」とも。
美月の頭には疑問が次々と湧いてきた。あの老人は本当に伝説の月光老人なのか?このオルゴールには本当に特別な力があるのか?そして、自分の願い—ピアノを弾くことへの願い—は本当に叶うのだろうか?
石段を一段一段降りながら、美月はオルゴールを時折ポケットから取り出しては、月光に照らしてじっと見つめた。表面の月と星の模様は、まるで動いているかのように見える時があった。
夜の闇の中、美月の心には一筋の光が差し込んでいた。「もしかしたら…もう一度…」という微かな希望。同時に「またがっかりするだけかもしれない」という不安も。
夜も更けた頃、美月はようやく家に着いた。時計は22時を示している。玄関のドアを開けると、リビングの灯りがついていた。居間から瑞穂が顔を出す。
「あら、美月…」瑞穂の声には安堵と心配が混ざっていた。「こんな遅くまでどこにいたの?」
「ちょっと月見ヶ丘まで」美月は疲れた表情ながらも、不思議と明るい目で素直に答えた。長い間感じていなかった小さな高揚感が、彼女の声のトーンにわずかに現れていた。しかし、老人との出会いやオルゴールのことは話さなかった。それはまだ自分だけの秘密にしておきたかった。
「あそこまで行ってたの?」瑞穂は驚いた様子で美月を見つめた。「何か…あったの?」
母の鋭い直感に、美月は少し動揺した。「いいえ、何も。ただ景色が見たくて」
「そう…」瑞穂は美月の顔をしげしげと見つめた。何か違うことに気づいたようだった。美月の表情が、今朝よりもさらに生気に満ちているのを感じたのかもしれない。
「お腹すいてない?何か作ろうか?」
「ううん、大丈夫。ちょっと疲れたから、もう寝るね」
美月はポケットに手を入れ、オルゴールを握りしめたまま階段を上った。瑞穂は特に何も言わず、ただ微かに微笑んで娘を見送った。
自室に戻った美月は、ドアを閉め、ほっと一息ついた。窓辺に歩み寄り、カーテンを開け放つ。満月の光が部屋の中に銀色の光を投げかけている。
「さて…」
美月はポケットからオルゴールを取り出し、机の上に置いた。月の光に照らされて、銀色の表面が幻想的に輝いている。円形のオルゴールは、直径約10センチほど。表面には半球状に盛り上がる月の模様と、その周りを取り巻く星々が精巧に刻まれていた。
美月は、恐る恐る手を伸ばし、オルゴールに触れた。冷たいはずの金属が、不思議と温かく感じられる。側面のレバーを発見し、それを引くとカチリと音がした。
「開くのかな…」
そっと蓋を持ち上げると、丁番がスムーズに動き、オルゴールが開いた。内側には小さな歯車と、回転する金属製のシリンダーがあった。それが自動的に回り始め、音楽が流れ出した。
美月は息を飲んだ。その音色は、これまで聴いたどのオルゴールとも違っていた。澄み切った音色で、まるでクリスタルが震えるような透明感。しかし同時に、心の奥深くまで染み入るような温かさもあった。高音は夜空の星のように煌めき、低音は深い月の海のように包み込んでくる。一音一音が月の光そのもののように純粋で、どこか儚さを秘めていた。
メロディは不思議と懐かしく、どこかで聴いたような、でも確かに初めて聴くような…。ショパンの夜想曲に似た雰囲気でありながら、どこか異なる独特の旋律だった。それは人間が作った音楽というよりも、月の光が音になったような、自然界から直接生まれた音色に思えた。オルゴールの歯車が回るたび、部屋全体が銀色の音色で満たされていく。
「なんて美しい…」
美月は目を閉じ、その音色に身を委ねた。心が洗われるような感覚。しばらくして、音色の中に自分自身が溶け込んでいくような不思議な感覚に襲われた。
その時だった。
オルゴールが発する銀色の光が強くなり、美月の右手に反射した。突然、右手に温かいエネルギーが流れ込むような感覚。これまで絶えずあった鈍い痛みが、徐々に和らいでいくのを感じた。
「え…?」
美月は驚いて目を開けた。そして自分の右手を見つめた。月の光とオルゴールからの反射光が、右手全体を包み込んでいる。
無意識のうちに、右手の指を動かしてみた。人差し指、中指、薬指…そして小指。いつもなら痛みが走るはずの動きだが、今は不思議と痛くない。指がスムーズに動いている。
「うそ…」
美月は信じられない思いで、右手を開いたり閉じたりした。痛みはある。しかし、以前の激痛ではなく、動かせないほどではない。
「これが…あの老人の言っていた力?」
胸の高鳴りを感じながら、美月は立ち上がった。もし本当なら…もしかしたら…。衝動に駆られるように、彼女は部屋を出て階段を降り始めた。
リビングは暗く、母はもう自分の部屋に引き上げたようだった。月明かりだけが窓から差し込み、白い布に覆われたピアノのシルエットを浮かび上がらせている。昨夜と同じ光景。しかし今夜は違う。
美月はオルゴールを大事に抱き、ピアノに近づいた。まだ開いたままのオルゴールから、神秘的なメロディが静かに流れ続けている。
震える手で白い布をつかみ、そっと引き下ろした。グランドピアノが姿を現す。月の光と共に、オルゴールの銀色の光がピアノを包み込んだ。
美月はピアノの椅子に腰を下ろした。昨夜と同じ場所。しかし今の自分の心は、昨夜とはまったく違う。恐怖ではなく期待に満ちている。
オルゴールをピアノの上に静かに置く。その光が鍵盤を優しく照らしていた。
深呼吸し、美月は両手を鍵盤の上に乗せた。左手はスムーズに。右手はやや緊張気味に。しかし、きちんと鍵盤に触れることができた。
「さあ…」美月は自分自身に囁いた。「もう一度…」
美月は意を決して、ショパンの夜想曲第20番嬰ハ短調、通称「遺作」の演奏を始めた。父の好きだった曲。左手の静かなアルペジオに乗せて、右手が切なくも美しいメロディを紡ぎ出す。
最初はゆっくりと、少しぎこちなく。一音一音に神経を集中させながら、慎重に指を動かしていく。右手の指先には、鈍い痛みとともに、半年ぶりに触れる鍵盤の冷たさと硬さが鮮明に伝わってくる。それは痛みであると同時に、忘れていた感覚との再会でもあった。
「これが…ピアノ…」
かつては当たり前だった感覚が、今は新鮮で貴重なものに思える。美月の指先は徐々に感覚を取り戻し、鍵盤の抵抗感、音が生まれる瞬間の微細な振動、指から音楽が生まれる不思議な感触を再確認していく。
徐々に、指は音楽の流れに身を委ね始めた。ただ弾くだけでなく、「表現する」感覚が蘇ってくる。右手の動きは以前ほど自由ではないが、確かに音楽を奏でることができる。月の光とオルゴールの力に導かれるように、美月の指は鍵盤の上を踊った。
「弾けてる…私、弾けてる!」
感動で涙が頬を伝い落ちる。それは痛みの涙でもあり、喜びの涙でもあり、半年間押し殺してきた感情が一気に解き放たれる解放の涙でもあった。指先から心臓まで、全身がピアノと一体となる感覚。半年前の事故以来、もう二度と両手でピアノを弾くことはできないと思っていた。それが今、こうして音楽を奏でている。たとえ完璧ではなくても、たとえ以前のような華麗な技巧は失われていても、美月は再び音楽と一体になっていた。
夜想曲の最後のカデンツァに差し掛かるとき、美月の心は歓喜で満ちていた。そして最後の和音を鳴らし、余韻が空間に漂う。
「美月…」
声がして振り返ると、リビングの入り口に母が立っていた。瑞穂の目は大きく見開かれ、信じられないものを見ているような表情だった。彼女の手は震え、口元を覆っていた。
「お母さん…」美月は涙を拭きながら言った。
「どうして…」瑞穂は震える声で言った。そして一歩、また一歩と歩み寄ってきた。「右手が…動いてる…」彼女の目からも涙があふれ始めていた。
「奇跡かもしれない」美月は答えた。オルゴールのことはまだ言わなかった。この神秘的な力をどう説明していいかわからなかったからだ。
瑞穂はゆっくりとピアノに近づき、美月の横に座った。そっと娘の右手を取り、自分の手の中に包み込む。その手は半年前の事故以来、初めて感じる娘のピアノを弾く手の温かさだった。
「痛くない?」瑞穂の声には心配と喜びが入り混じっていた。
「痛い…でも弾ける」美月は微笑んだ。「オルゴールのメロディのように…すべてがつながって流れていく」
瑞穂は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。代わりに、美月の肩に手を置き、そっと抱きしめた。半年間、娘が失った音楽とともに消えていた笑顔が戻ってきたことに、言葉にならない喜びを感じていた。
「もう一度、弾けるようになりたい」美月は決意を込めて言った。
「私も応援するわ」瑞穂は温かく微笑んだ。長い間見ていなかった、娘の中の音楽への情熱が再び燃え始めているのを感じたのだろう。
美月の心には新たな希望が芽生えていた。月の光の下でのみ弾けるというハンディキャップはあるけれど、それでも再び音楽と向き合う勇気が湧いていた。
窓から見える満月、そして遠くに見える月見ヶ丘のシルエット。美月はピアノの鍵盤に指を置いたまま、心の中で呟いた。
「ありがとう…」
それは月に向けての感謝なのか、老人への感謝なのか、音楽への感謝なのか、美月自身にもわからなかった。ただ、半年間閉ざされていた鍵盤が、月の光の下で再び開かれたことだけは確かだった。
オルゴールは静かにその音色を奏で続け、二人を月光のセレナーデで包み込んでいた。
(第3部 終)
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