手放し屋

未白

第1話

 梨花はベッドに身を投げ、天井の染みを眺めた。休日なのに、スマホを手に取る以外何も思いつかない。SNSをスクロールすると、同僚の輝くハワイのビーチ写真や、友人の婚約指輪の誇らしげな投稿が目に刺さる。一方、梨花の投稿は、深夜の仕事の愚痴と、誰にも届かない不満の吐き出しだけだ。


「わたし、こんな人生で何になるんだろう?」


 呟きは、部屋の重い静寂に吸い込まれた。実家を飛び出した時は、自由を手に入れ、自分を変えられると信じていた。でも現実は、職場で気を遣い、ストレスを溜めるだけの毎日。趣味もなく、自慢できる日常もない。人の目を気にして素の自分を出せない分、SNSで毒を吐いて気を紛らわせる。それでも、心の奥で燻る焦燥感は、どんな言葉を吐いても消えなかった。


 苛立ちを覚えながらSNSをスクロールしていると、突然、画面に広告が割り込んだ。「手放したいことはありませんか?」――その言葉が、梨花の胸に鋭く刺さった。普段なら即座にスルーする怪しいリンクなのに、指が勝手に動いていた。自分を変えたい、今の生活を手放したい――そんな思いが、胸の奥から溢れ出していた。


 瞬間、スマホの画面が眩しく光り、目眩が梨花を襲った。次に気がつくと、冷たく滑らかな白い床に尻もちをついていた。果てしない白の空間が視界を支配し、息が詰まる。空気は不自然に軽く、胸を締め付けられる。壁も天井も境目がわからず、まるで虚空に浮いているようだった。不気味な静寂が、梨花の不安を締め上げる。


 ふと、空気が揺らめいた。顔を上げると、白いスーツの男が音もなく立っていた。長身、整った顔立ち、鋭い目つきに青い瞳が印象的だった。梨花は息を呑み、身体を硬直させた。


朝倉梨花あさくら りか様、ようこそ」


 男は静かに微笑んだが、どこか現実離れした気配が漂う。白いスーツは空間に溶け込むように不自然で、まるでこの世界のものではないようだった。


「ここはどこ!? あなた誰!?」


 梨花は声を震わせ、思わず後ずさった。


「ここは『手放し屋』でございます」


 男は音もなく梨花の横に滑り、穏やかだが底知れぬ口調で続けた。


「梨花様が望まれた場所、それが『手放し屋』です。申し遅れました、私は真城ましろと申します」


「望んだ……? 何!? 家に帰して!」


梨花は混乱で頭を抱え、叫んだ。


「帰る? ふむ、では早く『手放し』を終えることですね」


 真城は梨花の目を見据え、まるで暗闇で光る獣のような視線を放った。動くもの全てを捉え、決して逃さない。


「梨花様が握り締めている『何か』を、ここで解放することができます」


 梨花の心臓が跳ねた。さっきまでの恐怖が、なぜかスーッと薄れていく。広告をタップした瞬間から始まったこの不思議な出来事――何か大きなことに巻き込まれている。そう確信した瞬間、梨花の心に希望と好奇心が芽生えていた。変わりたい。ずっと、そう願っていたじゃないか。


 真城は目を細め、梨花の心を読んだように小さく笑った。


「では、手放す旅に出かけましょう」


 彼が指を鳴らす。パラパラ――無数のボールが天から降り注いだ。梨花は咄嗟に頭を庇ったが、ボールは羽のように軽く、触れても痛みはない。辺りは灰色、濁った青、黒ずんだ緑のマーブル模様のボールで埋め尽くされた。どれもが不快な濁りを帯び、梨花の心の澱が形を成したかのようだった。


「さあ、梨花様。手放したいものを選んでください」


 真城の声は静かだが、どこか刺すように響く。


「このボールはあなたの記憶そのもの。核となるものが、必ずあります」


 梨花は息を呑んだ。ボールの一つ一つが、胸を締め付ける記憶の重みを放っている。触れることすら躊躇われる。だが、一つのボール――青と緑が濁ったマーブル模様のそれに、なぜか目が吸い寄せられた。手を伸ばすと、冷たく不快な感触が全身を駆け巡る。投げ出したいのに、手に吸い付くように離れない。


 瞬間、眩しい光が弾け、梨花の視界を飲み込んだ。彼女の叫び声は、光の中に吸い込まれていった――

 

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