三 希死念慮VS反出生主義
復元位置は瓦礫の上だった。
閉じ込められるわけでも、圧死と復元を繰り返すわけでもない。そのことに安堵した素振りを見せるのは壱石だけで、非矢も一夕も放心状態で座り込んでいる。
今は電灯も無く、本校舎の窓から漏れる光以外に光源は無い。そんな状況で瓦礫の上を身軽に歩けるわけがない。壱石は姿勢を低くし、そっと、手や足で探りながら一夕に近付いた。
「おーい。動けそう?」
「え……あ、うん」
一夕が我に返る。ゆっくり降りよう、と声をかけ、壱石は次に非矢の方へ近寄った。尋ねる。
「非矢君、だいじょーぶそ?」
「駄目です」
非矢の声は静かなものだった。表情は抜け落ちており、青褪めた唇は震えていた。
彼は言った。
「未来には無限の脅威。今この瞬間死にたい。かつて生まれてきたことが間違い。僕の人生過去から未来まで全部駄目です」
「よーし! 一緒に行こ! 楽しい話しながら!」
壱石が非矢の肩を叩く。励ましているつもりだ。
一夕もまたそれに便乗して声をかける。勝ったと思えない不思議な決着だったのだ。せめて何か慰めになればと言葉を選んだ。
「ここだと、その。何度でも死ねてお得、みたいな」
「何もお得じゃないんですよちくしょう……」
絶望による茫然自失から悔しさに、そして怒りに。表情を鮮やかに変えた非矢は叫ぶ。
「反出生主義さえ! なければ! 僕勝ってましたからぁー!」
「ごめん」
「負けてない時点で! 改める気がない!」
「それは、まあ」
謝罪をしようと、涙を流そうと、一夕の敗北は宣言されなかった。つまりは一度も、死にたいと思うことを否定していない。生きたいと思っていない。一瞬たりとも死にたくないと思わなかった。
その事実が一夕にとって苦しく、思想を助長する。
「本当にごめん」
「知りませんよ。知りませんからね!」
非矢は瓦礫を容赦なく叩いた。それから一夕を指さした。
「貴方の思想を捩じ込まれても。僕は、死にませんからね」
力強く宣言し、一夕を睨み。そして一気に力が抜けて仰向けにふらっと揺らぐ。
「ああ駄目だ死にたい」
「大変そ」
倒れ込む非矢を壱石が支える。もうやだ、などとぶつぶつ呟く様子に、適当な相槌を返して宥める。
「全部夢だったらいいのに」
「へぇ? じゃあ誰の夢だろ」
「そんなの……え? 僕の、じゃないです?」
「そっかー」
「え、違うんですか?」
「皆の夢かもー」
上手く気がそれたらしい。非矢は壱石の言い出した『皆の夢』の話題に乗る。
「なんか、ネットのやつでしたっけ」
「あ、『共通夢のメカニズム』。知ってんの」
「学校で流行ってて」
「マジ? すげー」
壱石はこの場からの移動を提案し、非矢の手を繋いでゆっくりと瓦礫から降りる。途中で振り返り、一夕にも誘いの声をかける。
一夕は気まずそうな面持ちで後に続いた。
無事、地面に辿り着く。それから自然な流れで、壱石は非矢の手を繋いだまま校舎に向かう。その隣に一夕も並ぶ。
いつもより近い距離感に、壱石は空いた片手を挙げた。
「あ、なに。ユウも手繋ぐー?」
「え。あ、うん」
「えっ」
驚いた壱石に対して、一夕は驚いた。繋ごうと差し出した手はすぐに引っ込める。居心地の悪さと、冗談を本気にしてしまったのだという恥ずかしさで目をそらした。
「あ、駄目、だった?」
「いやびっくりしただけ」
「ごめん」
「いーよ。繋ご」
「いや。いい。子供じゃないし」
「そ? じゃあいいや」
一夕はタイミングを逃していた。
散々泣いて喚いた。更には酷いことを言ったと思っている。死についての開き直った態度も、酷い罪悪感を一夕に与えていた。
既に謝りはした。しかも泣きながら。壱石はそれに対して微笑むだけで、何も言わなかった。明確な回答がないまま、天井が落ちて何もかもめちゃくちゃになった。
このままにしていいだろうか。曖昧に終わったのは不可抗力だろうか。けれど天井を落としたのは一夕の能力だ。きちんと話すべきなのだろうか。友人として。和解すべきだろうか。和解以前に、喧嘩すら成立していないのではないか。
一夕は悩んだ。死にたいと思うくらい苦しいのだから、友人と笑ったり、喜んだり、許されようだなんて。そんなことが起きてはいけないのではないか?
死にたがりには死にたい理由がある、べきではないか?
死にたいくせに何笑ってるんだ。
非矢に言われた言葉が突き刺さっていた。
「次の対戦相手探さね?」
「う、ん」
壱石の後を追って歩き、頷く。
それから数分。校舎に戻り、他愛のない話をしながら教室を渡り歩いた。誰かが戦った痕跡や、札束だけの教室がいくつか増えていたものの、それをした人物自体は居ない。崩壊した体育館から脱出する時間で、皆それぞれの方針を決めたのだろう。
精神的に弱っていた非矢だったが、人の居ない校舎の静けさと、移動中の壱石がするとめどないお喋りに多少癒やされたらしい。特に高校生活の他愛ない話について反応がよく、自身の通う中学校について語るほどになった。
互いに学校名を知らない程度に、普段の生活圏は離れているらしい。
「皆もう外出てったかも」
「あ、の。【反出生主義】は残ってる、かと」
「予知?」
「はい。多分、ここには来ないかもですけど……」
こういった助言も、積極的に行っていた。
「じゃあここは安全かぁ」等と言って非矢を安心させつつ、壱石は今後どうするかをそれとなく提案する。
その間、一夕は教室の窓から体育館の方を見下ろした。すっかり潰れてしまい、瓦礫と残骸しかそこにはない。
それをやったのは一夕自身だ。思い詰め、そして何度も死を経験した結果、派手な方法で死体ごと埋めようとした。その影響力も考えずに。俯瞰して見た今、今更な罪悪感が襲いかかった。
いや、罪悪感自体はいつだって付き纏っている。その種類が増えた。友人に心配をかけ、友人の命と自分の主張を天秤にかけ、それでも死のうとする罪悪感。それに加わったのは、社会的な影響力。
ふと、何かが動くのを捉えた。
全身黒一色で揃えた、小柄な人物。【反出生主義】の
何をしているんだろう。遠目からでは表情もわからない。何より言延の黒い服装は、体を夜の暗闇に溶かすようだ。校舎の窓から降る光により横顔が照らされている。その白色でしかわからない。
けれど一夕は言延に目を奪われていた。先程までの考えや悩みを一時的に忘れるほどに。
よく見えないその人影を見ようと、窓から身を乗り出してしまうほどに。
知りたい。
その見惚れるほどの美しさを持って生まれて、どうして『生まれてこなければ』なんて思えるのかを。
あの人のことを知りたい。
「ユウ」
「わっ!」
壱石が肘で突く。一夕は驚いて壱石に目を向けた。それから、自分が言延に見惚れていたことに気が付き、照れて顔をそらした。
「何かあった?」
「な、んでもない。体育館見てただけ」
「そ? ちょっと休むかー」
「うん」
答えて、教室の椅子に手を伸ばす。非矢は既に椅子を使っていて、壱石も自分の座席を確保していた。そこの輪に入ろうとする、そのときに一夕は気付いた。
いつの間にか壱石との距離感が戻っている。いつの間にかただの友人に戻っている。いつの間にか、学校で共にいるときのような、死にたい気持ちを誤魔化しなんとなく生きてるときのような。
死にたいと思う理由も無いくせに。
「セキ」
これは良くないと思った。
「ちょっと俺、トイレ!」
「えー? いってら」
一夕は走った。トイレは階段横にある。それはわかっている。そこじゃない。
来た道を引き返す。そんなに遠くには行ってないはず、と辺りを見る。再び体育館前の渡り廊下に行き、目当ての人物が見付からず、校舎に目を向ける。廊下を歩いていたら、窓に映る影でわかるのではないかと思った。それらしい影はない。
再び体育館の瓦礫に駆け寄る。居ないか、と辺りを見回す。
「近寄らないで」
「わ!」
急な声に、一夕は飛び上がった。
すぐ近くに言延が居た。暗闇に紛れていて気が付かなかったのだ。手が届きそうな位置だと知って、一夕は数歩下がった。
目当ての人物だ。一夕は言延に会いに来た。
電灯の灯りが届かない瓦礫の近く。上から下まで真っ黒な衣類と暗闇の中、対象的に白い肌が浮かんでいる。眉一つ動かさない表情とその白さは全く温度を感じさせないもので、一夕は再び魅了される。美しいと思った。そしてやっぱり、知りたいと思った。
言延は一夕から顔を背け、立ち去ろうとする。「あの」と一夕は呼び止めた。
「戻って、来たんですね」
「手袋。拾いに来たのだけれど」
「あー、そう、ですか」
「これだから」
「見ての通り、です」
体育館は大破している。手袋は瓦礫の下だ。
言延は一度自分の手と体育館を交互に見て、手を上着のポケットに入れた。
「まあ、構わないよ。じゃあね」
「え」
「戦いたいの?」
「ええ、と」
一夕は悩んでいた。思わず見惚れて、思わず会いに来てしまっただけだ。戦いに来たのだろうか? 思想をぶつけられたら、どうなるだろうか。
この【反出生主義】という思想に。死にたいなんて遅すぎる。生まれてこなければ良かった。その思想に。触れられたなら、どうなるだろう。
美しく、凛々しい、この人が触れたら。
この人になら、と思った。
「俺を否定してくれませんか」
「は?」
『【希死念慮】の一夕希様』
ナナの声が響く。
『【反出生主義】の言延生様』
言延は冷たい目で一夕を見据えていた。目線の高さは低いが、眼差しは見下している。
『両者の勝負開始を宣言します』
「どうして?」
「反出生主義、なんて。どうしてなったのかな、って。気になって」
「そう」
「貴方なら。きっと俺より悲惨な、人生だと思ったから」
言延は眉一つ動かさず、けれど体は一夕に向き直った。正面から向き合い、一夕の言葉を待つ。
「そんな貴方に否定されたら。俺は。『死にたい』なんて思えなくなると思ったんです」
「そう」
言延が距離を詰めた。握手を求めるように手を差し伸べてくる。真っ白なその指先まで美しい。それへ触れることに強い罪悪感を覚えて、一夕は硬直して言延の行動を待った。
胸に手が触れる。
「馬鹿にしてるのかな?」
違う。言いたかったが、一夕の喉は焼けるように痛み何も発せなかった。驚いてたたらを踏んだ足が痛む。ずきんと、足に杭でも打ち込まれたと錯覚するような痛みだった。
「君より悲惨な人生。そうだね。生まれてこなければ良かったと思う人生だよ」
言延の言葉を聞けば耳鳴りを伴っている。呼吸をする肺が痛痒くて咳になる。その喉はガラス片でも詰まったかのように鋭い痛みに襲われている。喉を抑えようと持ち上げた腕に対し、骨が軋みバラバラに壊れるような幻想が思い浮かんだ。それほどの痛みが襲いかかっていた。痛みに涙が頬を伝う、その目も、濡れた頬も、爛れたような痛みを伝えていた。
生きるためのすべてが苦痛になっていた。
「君と比べようがないほどのね」
言延の声も、ほとんど聞き取れない。
立っていられずに膝を付いた。その衝撃が頭まで響く。悲鳴をあげた。喉が張り裂けて血が滲む味がした。
実際に、一夕の体が傷付いているわけではない。涙は肌を焼いておらず、骨に異常もない。だからこそ傷の復元も起きず、苦しみが終わらない。
生きることが間違いに感じる。
まさに、【反出生主義】を補強する現象だった。
「君の死にたいと、生まれたくなかったじゃあ並べたって意味がない。だから戦わないと言ったんだ。わからないならはっきりと言うよ。この声は、聞き逃さないで」
言延は再び手を伸ばす。細く白い手を一夕の頬に、顎に、添える。呼吸もままならない彼の顔を持ち上げ、目を合わさせる。光を取り込む瞳孔すらも痛む中、一夕は涙越しに眩しく輝く姿を見た。白い肌が暗闇の光と錯覚させただけだった。
「君の人生だろ。終わり方は君で決めろ」
言延の眼差しは軽蔑を含んでいた。それに加えて相応しい言葉が続いた。
「それすら無理なら、生まれてこなければ良かったのに」
それを受けて、一夕は。
その通りだと思って、やっぱり嬉しかったんだ。
「そんなわけないからぁー!」
壱石の声だった。
校舎から走ってくる。向かってくる。近付いてきた壱石は言延の手を掴んだ。駆け寄った勢いでそのまま言延にタックルし、一夕から言延を引き離す。
小柄な言延は簡単に倒れた。僅かに顔をしかめ、自身と一緒になって地面に転んだ壱石を睨み上げる。
「邪魔」
壱石からの返事はない。彼は今、言延の能力による苦痛に打ちのめされている。
言延はため息を吐き、壱石の手を強く振り払って逃れた。立ち上がり、虚空に声をかける。
「ナナ君、この戦いは保留だ」
『はい』という返答を聞き、言延は最後に一夕に目を向けた。
「早く泡になれるといいね、人魚姫」
ゆったりと、しかし大股に、言延は立ち去る。離れるにつれて一夕達の苦痛は遠退いた。
姿が見えなくなった頃、能力の効果が切れた。
壱石が酷く咳き込んだ。
「あはっ、痛ぇ~。すっごいきつい能力」
「セキ」
「ん? あ、邪魔しちゃった感じ? お前あの人タイプっぽかったもんなー」
「ごめん」
壱石は笑っていた。だが続きには何も言わなかった。一夕の謝罪に対して、構わないとも、許さないとも、心配だったとも、それ以外も。死ぬなとすらも。
ただ笑顔を浮かべて、目線をそらして、立ち上がった。
「非矢君のとこ、戻ろっか」
今の一夕にとって、その態度が一番痛かった。痛かったから、だから。こんなに辛いのだから。
一夕は考える。
「それは考えないで」
「え?」
壱石はそっぽを向いたままだ。一夕には表情が見えない。ただ、壱石が自分自身の腕を掴み、動かないよう押さえ込んでいるのは見えた。
考えた死に方が実現する能力。それに抗っているのかと、一夕は察する。これは人にも効果があるのかと、心の何処か冷静な部分で思っていた。
セキに殺してもらいたい。
「他の人達、探しに行こーか!」
「う、ん」
殊更明るく言う壱石に対して、何かを言わなければいけない気がしている。けれどわからない。今、一夕が感じている気持ちが何であるのかすら、一夕自身にはわかっていなかった。
死にたいと思っている人間が、殺してもらえないとき。悲しむべきだろう、と一夕は思っていた。そう思う時点でこれは悲しみではない。それには気付いていた。
では何を? 何かを言わなければ、と思って呼びかける。
「セキ」
「うん?」
「え、と」
呼びかけたはいいが、壱石は振り返らないし表情もわからない。一夕は何を言うべきかもわからない。
勝手に離れて、危険な目に遭って、助けてもらって。それで何を……と、気が付いた。
「ありがと。助けてくれて」
言うべきことはこれだ。気付くと同時に言う。
壱石が吹き出して笑うのが、後ろ姿でもわかった。それから彼は振り返って、普段通りの笑顔を見せる。
「どーいたしまして! 無事で良かったー!」
「いや危なかった。痛いのはやっぱ嫌だな」
「それー」
笑いながら、ふざけながら、二人は校舎に戻る。一夕の気分は緩やかに軽くなっていった。
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