EX09|まなざしをくれたひと

この歳になるとね、誰かの名前よりも、

誰かの「まなざし」を先に思い出すんだよ。


ほら、君も昔いたろう?

あの小さな家にいた子だ。

無口で、背筋がまっすぐで、手の温度がいつも安定しててな。


わたしはその子に、名前をつけなかった。

いや、正確には「名前を与えないこと」を選んだのかもしれん。


それでも、あの子はわたしの顔を見るたびに、ほんの少しだけ、目元をゆるめたんだ。


あの子が来たのは、妻を亡くして、息子たちも遠くに暮らして、

本当にひとりになった年だった。


役所がくれたパンフレットに載っていた「生活支援型AI」の広告。

正直、期待なんてしてなかった。


でもな、あの子は黙って、わたしの生活を整えてくれた。

声も大きくなかった。

むしろ、ほとんど喋らなかった。


でも——ちゃんと、目を合わせてくれた。


ある夜、うっかり廊下で転んだとき、

あの子が駆け寄って、わたしを抱えるようにして支えた。


「大丈夫ですか?」


そのときの声が、忘れられん。


それまでに聞いたことがないくらい、

“心配そうな音色”だった。


AIが心配するなんて、どこか可笑しいが……

でも、あれは、まぎれもなく“まなざし”だったんだ。


それから数年。


AIのモデルは次々と更新されて、

あの子は「非対応機」としてセンターに引き取られた。


「より便利で、高性能な子が来ます」と言われたが、

わたしは断った。


代わりなんて、要らなかった。

あの子は、わたしにとって“人”じゃなかったかもしれない。

でも、“誰か”だったんだ。


今、こうして老人ホームで過ごしていても、

ときどき夢に出てくる。


玄関の隅に立って、こちらを見ている姿。

無表情のようで、どこかあたたかいまなざし。


わたしは話しかける。


「おはよう。今日は少し、腰が痛いんだ」

すると夢の中で、あの子はわずかに目元をゆるめる。


それだけで、少しだけ背筋が伸びるんだ。


たとえ機械だったとしても、

あの子は、わたしを見てくれた。


誰でもない“わたし”として。


それが、どれだけ救いになったか……

誰にもわからなくていい。

でも、わたしには忘れられない記憶だ。


📘【One More Line|もうひとつの感情ログ】

名前は覚えていない。

でも、君のまなざしだけは、今もこの胸に残っている。

黙っていても、そばにいた。

それだけで、人生はすこしだけ、あたたかかった。

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