First Note - A

照川 重

First Note

top nose -‘‘top nose’’とは、ワインをグラスに注いで、一番最初に、ふわっと感じられる香りの事


  彼とは、JR立川駅北口空中広場で待ち合わせをしていた。

  時は、もうすでに十二月だった。私は、母の手織りのマフラーをしっかりと巻き直した。寒い。

 クリスマスムードで包まれた広場は、毒々しいばかりの電飾と騒々しいばかりの人々に満たされていた。

 彼を見つけるのには、少し手間がかかった。赤と青、そして白のLEDライトが二十三時の常闇を照らす中、広場の隅、栽植の傍にじっと佇む彼の姿は夜闇と同化していた。目を凝らして、ようやく見えるかどうか。その程度の存在感。蛍光色の電飾によって、黒いシルエットだけになった彼の姿は、どこか悲しげにも見えた。一方で、何も感じず、ただ立っているようにも見えた。 夜風が、私を再度冷気で包み込んだ。首元を再度マフラーで包み込んだ。私が近づくと向こうも気がついたのか、何も言わずに右手を軽く上げて挨拶する。私も、何も言わずに右手を上げて挨拶を返した。 この無言の挨拶が、大学以来の私たちの習慣だった。いや、むしろこれは儀式めいた何かのようになっていた。

 私が彼の隣に立つと、彼は咥えていたタバコを携帯灰皿に入れ、何も言わずに歩き始めた。まるで、「ついてこい」とでも言うように。 私は彼に無言でついていった。何かを話しかける気分ではなかったし、おそらくその必要もなかったのだろう。 彼も、私が何かを話すことを期待していないように見えた。

 広場を出て、くすんだ街灯が照らす薄暗い歩道に降りる。 私たちはそこを、無言で歩いていった。 多くの人が悲しみ、喜び、怒り、そしてまた悲しみを抱きながら進む道を。 カラオケ店やバー、居酒屋や格調高いレストランが混在しているビルの群れの中央を貫く道を。脈絡がないように、ただ歩いて行った。せめて目的地だけでも聞こうと口を開いたが、彼のその、体の大きさの数十倍はある“何か”に気圧されて、私は口を閉じるしかなかった。 私たちは、無言で歩き続けた。

 駅から五分ほど歩くと、銀行や家具屋などが面している交差点に着く。 ちょうど、緑色の歩行者用信号灯が街の“光”に紛れてちらついていた。もうすぐ赤信号に変わリますよ、と言うことをその緑色の点滅は教える。

「あっ」

  私は少し声を漏らした。いそがなくては、と思った。今ならまだ横断歩道を渡れるかもしれない。が、彼はただ、黙々と同じペースで歩き続けた。私の方を振り返ることもなく。

  もしこれが二十年前だったなら!まだ若かりし我々は全速力で走り、横断歩道を渡ろうとするだろう。そして、なんとか渡り切った後、互いに顔を見合わせ、何か悪戯をした後の子供のように「シシシッ」と歯の間から空気を漏らして笑うのだ。 しかし、もうすぐ五〇歳になろうとする私たちにその気力はなかった。私の少し前方をゆく彼の、街灯に照らされた頭髪を見ると、いくらか白髪が混じっていた。前回会った時はまだまだ髪にも艶があったと言うのに。今はもう萎んだ色をしていた。

「齢をとったなぁ」

  人生の折り返し地点に立った感慨を、彼に聴かせるでもなく呟く。 その感慨は、もう五〇年も生きたか、という感慨ではない。後五〇年で死ぬのか、という感慨である。夜闇の中で、月が見えないほど人工的な光で包まれた歩道で待青信号になるのを待つ。

  青い看板に書かれた『曙町二丁目』と言う文字が、くすんで見える。 視界が少し曇ったような気がして、目を擦った。 周りの、未来と希望の神に愛された若者たちの中で我々だけが、浮いていた。 彼らは信号を待って立ち止まっているが、確かに走っているのだ。絶え間なく変化する未来に向かって。しかし、その恩恵に気づくのは、それが無くなってからだ。

 我々は、何をするでもなく、ただ、信号を待った。 そうしていると、どうしようもなく、待つのが嫌になって無性にイライラしてきてしまった。 待つことには、慣れたつもりだった。 社会の歯車の一つとして、会社に勤め、妻子を養い、税金を納め、上に従い、下を指導し、何を考えるまでもなく、動く。 しかし、それはほとんど停滞していて、どんよりとした川底を泳いでいるようなものだった。

 “待つ” と言っても過言ではなかった。

 何を?と自分に問いかけても、

『そりゃぁ、定年退職した後の静かな暮らしでしょう』

 と言うつまらない答えが返ってくるだけ。

『ああ、つまらない』

  いや、こんなことを思うのは彼と一緒にいる時だけなのだ、調子が狂う。 彼と一緒にいると、思い出してしまうのだ。 あの、過ぎ去りし日々を。 未来に対して希望以外持ち得てなかったあの頃を。 無性に、懐かしんでしまう。

 大学卒業後、私たちは別々の会社に入社したが、連絡はずっと取り合っていた。 年に一回会って、ともにグラスを傾ける。結婚してからは、夫婦ともども。 酒は、舌をよく回すための潤滑油だった。

 『なんのために回すの?』

 過去を懐かしみ、日頃の愚痴を言い合って笑うために。

 普段はもっぱら互いの家で飲んでいたが、まれにこうして立川で落ち合い、男二人居酒屋に入って、語り合う時もあった。 大抵、それぞれの家内には聞かせられないような話をする時だった。 三軒ほどハシゴして、次の日の昼頃になって家に帰る。 初めの方こそ家内は怒っていたが、最近ではもう、何も言わなくなった。これが、我々“くたびれた大人”のささやかな楽しみだった。

  人々の話し声と足音がこだまするその交差点で二人して待っていると、ようやく彼が私に話しかけた。耳に、彼の渋い声が入ってくる。

「なぁ」

  彼の、いつもの愚痴ががはじまりそうだ。決まって彼は、愚痴や悩み事を話すときは「なぁ」と「ぁ」の部分に余韻を持たせて語り始める。

「ああ、どうした?」

  信号が、青になった。私たちは歩き始める。

「君に、聞いて欲しい曲があるんだ」

  そう言うと彼は、ポケットからワイヤレスイヤホンを取り出し、右耳用のものを私に差し出す。全く、普段通りの彼の脈絡のなさである。 人混みの中、私はそれを装着した。 彼は、左耳用のものを装着しながらスマートフォンを操作して。少しの雑音の後、右耳に軽快なサックスの音色、重厚感あるピアノの音色、そしてリズムが若干ズレたように演奏されるドラムの音が流れ込んでくる。

「ジャズか?」

「そう」

 左耳から、彼の声が聞こえた。 その曲は、不思議な静けさを生み出す。軽快なサックスだけが、スポットライトを当てられたように響く。私はこの曲を気に入った。

「なんて言う曲だ?」

 しかし、彼はこの質問には答えずに、 私たちがいつも使っている居酒屋の前を通り過ぎた。

「今日は居酒屋、行かないのか?」

  私は立ち止まって聞いた。

 「あぁ、すまん。今日はそう言う気分じゃあないんだ」

「そう、か」

 私は、彼についていった。

「じゃあ、今日はどこで飲むんだ?」

「もう少し歩いたところに、」

  彼は一旦、唾を飲み込んだ。

 「‘’ペンタトニック‘’というバーがある。そこに行こう」 珍しかった。彼はビールを好んでいた。 彼に連れられるままに、曲がり角を曲がる。

「今日は、どうしたんだ?」 私は堪えられなくなり、単刀直入に聞いた。間を伸ばされても、気まずいだけだ。 表通りから少し外れた、暗い裏道に私の声が響く。 彼は、少し躊躇った。

「母が、死んだんだ」

  私は、言葉を失った。

「俺の母、は、生き切ったよ」

  静かに、彼は言葉を紡いだ。

「お袋が死ぬ前日、彼女は俺の家にきたんだ。孫を見に、わざわざ群馬の実家から東京に来たんだ。親父が死んでから、寂しかったんだろうな、お袋は孫をすごい可愛がったんだ。息子の俺が嫉妬するくらい。一人息子の俺の、一人息子だから余計に可愛かったんだろうな。いっつも甘やかしちまってた」

彼は、遠い目をして過去形を使った。

「その夜、お袋は終電に乗って群馬の実家に帰ったんだ。家族みんなで見送りにいくよ、って言ったら逆に叱られてな。『お前は家を守れ!妻子を守りんしゃい!それが母さんの願いだよ。幸せに過ごしておくれ』って。せめて一泊泊まっていけよって言ったら、封筒を渡されたんだ。私が死んだら開けろってさ」

 彼は、息を吐いた。

「おいおい、今渡すなよ。まだ先だろ?って俺は言ったんだ。怖くてな。そしたら、お袋は少し微笑んだ。で、優しく手を振って俺の家を出発していったよ。翌日、お袋の親友から連絡があった。『死んだ』って」

 彼は、きていたダウンコートのポケットに手を突っ込んだ。

「なんというか、人生の一つの節目に立った気分だよ。前日まで動いていたのに、突然死んだように眠るんだぜ、いや、眠ったように死ぬんだぜ、か」

 そういって、彼は力無く笑った。

「死んだって連絡があったうちに、群馬に行ってお袋を迎えに行ったんだ。なんかもう、寝てるみたいでな。本当に」

 話しかけても起きなかったけどな、と彼は呟いた。 そろそろ話がぐちゃぐちゃになり始め、声には潤いが滲み出てきた。

「話は変わるけど、」

 彼の頬を、一粒のダイヤが駆け抜けた。

 「死んだ人の記憶って、もう永久に見れないんだぜ。俺はいま、すごく後悔してんだ。もう少し、お袋と過ごす時間を取ればよかった。もう少し、お袋と話せばよかった。死体になったお袋は、俺が目の前で泣き崩れてもピクリともしなかった。でも、そう言うもんなんだよな」

  彼は、嗚咽を漏らした。

「命って不思議だ。一つとして同じものがない、唯一無二のものなんだ」

 すこし、息を吸った。

「俺のところのガキみたいに、新しく生まれてくる『命』もあれば、お袋みたいに終わる『命』もある。それぞれ、とても違うし、そもそも俺は命って一括りにしていいのか疑問だね」

  でも、と彼は続けた。

「でも、みんな終わるのさ。いつかね。俺もああなる。でも、そうなったときに、俺は笑って死にたい。お袋は、最後、心筋梗塞であっという間に死んだらしいんだ。玄関先で話している時に、突然苦しみ出したっておふくろの友達が言っててな」

 彼は鼻を啜った。

「でも、苦しみながらも、最後、『私は生き切った』って叫んだらしいな。すごいよ」

 私は、何も言えなかった。いや、言える雰囲気ではなかった。

「俺は、天国があって欲しいと初めて願ったんだ。お袋が、後悔せずに死んで、生き切って、また親父と一緒に暮らしてほしい。彼女は、俺に『幸せになれ』って言ったんだ。俺も同じことを思うよ。『幸せにな』って」

 彼は、ようやく私の方を向いた。

「でも、ここまで考えて、俺は悟ったんだ。命は、大切だ。戦争なんかで簡単に奪っていいもんじゃない。でもな、みんな大切、大切って言ってる。唯一無二だから大切って。でも俺はこう思う。命は、その人が後悔せずに生き切って、満足して逝く為にあるんだ。だから、勝手に終わらせちゃいけない。命を大切にしなきゃいけない理由はそこにある。そう、俺は思ったね」

  そう言い切って、彼は微笑んだ。

「すまんな、話が混乱した」

「いや、いいんだ」

 私は、それしか言えなかった。 とうとう、右耳から流れ続けていた音楽はサックスの甲高い、長い音で美しく終わった。 計算され尽くしたように、目の前に‘’バー・ペンタトニック‘’と言うドアが現れる。 私は、イヤホンを彼に返した。それをしまうと、彼はドアノブに手をかけた。そしてそのまま、彼は言った。

「なぁ、今日は普段の愚痴の言い合いはやめよう」

「え?」

「自分勝手で申し訳ないけど、今日はただ、二人でワインやカクテルを飲みながら、酒について語り合いたいんだ」

「いいね。そうしよう」

  私は賛同した。断る理由がどこにあろう? ふと、気になって私は聞いた。

「ところで、この曲の名前はなんて言うんだい?このジャズ?」

「Top Nose」

  流暢な発音で、彼は言った。

「『ワインをグラスに注いで、一番最初に、ふわっと感じられる香り』と言う意味の曲名さ」

 そういうと、彼はドアノブを捻った。ドアが開かれると、チリンと涼しげにベルが鳴る。

「さ、酒を楽しもう」 

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