真夏の代理狂想曲
志乃原七海
第1話:真夏の代理スラッガー
第一話:真夏の代理スラッガーと、新たな挑戦者
アスファルトが溶けだしそうな、クソみたいに暑い真夏の日だった。
蝉の声が脳みそに直接響いてくるようで、ただベンチに座っているだけでも汗が噴き出してくる。俺、ケンタは、水筒に残ったぬるいスポーツドリンクをちびちび飲みながら、目の前の絶望的な光景を眺めていた。
スコアボードには「5-8」。最終回裏、ツーアウト満塁。
あと一点でも返さなければ、この灼熱地獄から解放されることなく、惨めな敗北が決まる。グラウンドには陽炎が立ち上り、相手ピッチャーの姿すら歪んで見える。
「次、マサル!頼むぞ!一発決めてこい!」
コーチの檄が飛ぶ。そうだ、次はマサルだ。チーム一の食いしん坊で、練習態度はアレだが、当たればデカい。…当たれば、の話だけど。
ネクストバッターズサークルから、よろよろと影がバッターボックスへ向かう。ヘルメットを目深にかぶり、やけに小さいバットを肩に担いでいる。
「マサル!気合入れろよー!」
ベンチから声援が飛ぶが、俺は何か違和感を覚えた。
「……ん?」
隣に座っていたキャプテンが眉をひそめる。
「おい、ケンタ。あれ、本当にマサルか?」
「え?」
目を凝らす。ユニフォームは確かにうちのだ。でも、なんか小さい。いつものマサルの、ちょっとだらしない着こなしじゃない。それに、あの構え。初めてバットを持つ子供みたいにぎこちない。
「誰だよ、あれ…?」
「マサルじゃないぞ…」
「補欠リストにもいない名前だ…」
ベンチがざわつき始める。相手チームも審判も、訝しげな視線をバッターボックスに送っている。
マサルはどこ行ったんだ? この土壇場で、まさか腹でも壊したのか? 俺たちの最後の希望は…?
混乱する頭で、ふと自分の隣に目をやった瞬間、俺は凍りついた。
「………………」
そこに、いるはずのない男がいた。
ヘルメットをかぶったまま、ユニフォームを着て、ベンチにどっかりと座り込み、特大サイズの紙コップに入ったコーラをゴクゴクと飲み干している。足元には、溶けかかったチョコミントのアイスカップ。
紛れもなく、今、バッターボックスに立っているべき男、マサルだった。
「マ、マサルッ!?」
俺の声は裏返っていた。
「お、お前! なんでベンチにいんだよ!? 今、お前の打席だろーが!」
ベンチの視線が一斉にマサルに突き刺さる。
マサルは、最後の一滴までコーラを飲み干すと、ぷはーっと息をつき、きょとんとした顔で俺を見た。
「ん? ああ、ケンタか。いやー、暑くてさ、喉カラカラで」
「そんなこと聞いてんじゃねぇ! なんで打席に立ってないんだって聞いてんだよ!」
するとマサルは、悪びれる様子もなく、バッターボックスの小さな背中を親指で指しながら、へらへら笑って言った。
「ああ、あいつ? さっきそこの金網んとこで見てた子なんだけど、『どうしても一回打ってみたいんです!』って頼まれちゃってさ」
「はぁ!?」
「『代わりに、このキンキンに冷えたデカいコーラと、好きなアイス買ってあげるから、一打席だけ代わってくれ』って言うもんだからさ。まあ、悪いやつじゃなさそうだし、いっかなって(笑)」
「………………」
俺も、チームメイトも、監督もコーチも、全員、開いた口が塞がらなかった。
アイスとコーラ。それも、このクソ暑い中でキンキンに冷えたやつ。その誘惑に負けて、少年野球人生で最も重要な局面かもしれない打席を、どこの馬の骨とも分からない、見ず知らずの子供に譲っただと…?
「お前…本気で言ってんのか…」
キャプテンが呻いた。
その間にも、試合は進む。ピッチャーが投げた初球。小さな代理バッターは、見逃し。
「ストラーイク!」
二球目。またしても見逃し。
「ストラーイク!」
あーあ、終わった…。誰もがそう思った、次の瞬間だった。
三球目。高めの、おそらくボール球。しかし、代理バッターは、それまでとは別人のような鋭いスイングを見せた。小さな体を目一杯使った、完璧な回転。
カキーーーーーーン!!!
甲高く澄んだ打球音が、灼熱の空気を切り裂いた。
「「「!?」」」
白球は、弾丸ライナーとなってレフト方向へ。ぐんぐん伸びる。レフトが懸命に背走するが、まったく追いつかない。
「い、いけーーーーっ!!」
「抜けろーーーーっ!!」
打球はフェンスを軽々と越え、さらに飛距離を伸ばし…グラウンドのすぐ隣に建つ、年季の入った民家の二階へ向かって一直線に…
ガッシャーーーーーン!!!
盛大なガラスの割れる音が、蝉の鳴き声すら掻き消した。
「「「……………」」」
一瞬の静寂。
「……さ、サヨナラ…逆転…満塁…場外ホームラン…?」
誰かが震える声で言った。
そうだ! ランナー一掃! スコアは9-8! 俺たちの、勝ちだ!!
「うおおおおおおお!!!」
「やったーーーー!!」
遅れて爆発した歓声の中、ホームランを打った張本人は、何事もなかったかのように淡々とダイヤモンドを一周した。飄々とした足取りで、最後のホームベースをポンと踏む。
そして、次の瞬間。
代理バッターは、かぶっていたヘルメットを放り投げると、脱兎のごとく走り出した! 一塁側のファールゾーンを駆け抜け、あっという間にフェンスをひらりと飛び越え、蝉時雨の中に消えていったのだ!
「えっ!? おい、待て!」
「どこ行くんだよ、ヒーロー!」
ベンチが唖然としていると、グラウンドに新たな声が響き渡った。それは、歓声とは程遠い、地獄の底から響いてくるような怒号だった。
「こらーーーーーっ!! 今! うちの! 窓ガラス割ったのは! どこのどいつだーーーーーっ!!!」
見ると、ホームランボールが吸い込まれていった民家の玄関から、エプロン姿のおばさんが、割れた窓ガラスの破片(!)を手に、鬼のような形相でこちらに向かって突進してくるではないか!
「さ、さあ…どなたでしょう…?」
「えっと、その…」
俺たちは顔を見合わせるしかない。
勝利の喜びなど、一瞬で吹き飛んだ。グラウンドは、新たな混乱の渦に叩き込まれる。怒り狂うおばさん。困惑する審判と相手チーム。「いや、だから、アイスとコーラで…」と必死に説明し、状況をさらに悪化させるマサル。頭を抱える監督とコーチ。
一体、このクソ暑い夏は、どうなってしまうんだ…。
俺、ケンタは、走り去った謎の代理スラッガー(兼、窓ガラス破壊犯)が消えた方向を見つめ、隣で「あ、アイスもう一個買ってもらえばよかったかな」などと呑気に呟いているマサルの横顔を見て、乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
そして、心の中で、まるでどこかの格闘ゲームのナレーションのように、呟いた。
「(やれやれ、とんでもない置き土産だぜ…)」
"...Here comes a new challenger..."
俺たちの、暑くて、長くて、そしてたぶん、とんでもなく面倒くさい夏は、まだ始まったばかりだった。
(第一話 了)
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