第4話 人でなしの夢 下

 結局、蓮は使い走りと家事に奔走することになった。


 しかし、夢逢は約束通り、ノートパソコンに向かって一心不乱に文字をつづってくれているようだった。いったい何を書いているのか、蓮にはわからない。ただ黙々とゴミを捨て、洗濯をし、掃除をする。まるで家政婦にでもなった気分だ。しかし頑張らなければ、この汚部屋で一晩を過ごすことになってしまう。


 これでもかとゴミ袋を作り上げて、ゴミ捨て場に運び、昼食の寿司を頂き(これは本当に美味しかった)、掃除を続ける。と、この家にもう一つ部屋が有ることに気付いた。扉は閉まっているから、勝手に開けるのも気が引けたし、その奥に更なる魔境が有ったら心が折れそうなので、蓮は覗かないでおいた。


 自分が入るために風呂も掃除をして、夕方にはもうクタクタになっていた。夕食はコンビニ弁当で、夢逢にはおむすびを渡した。なんでも片手で打ちながら食べるらしい。筆が乗っている時に波を逃したくないと、ひたすらに書き続けていた。


 そうした真剣な表情で文字を綴る姿は作家らしくて、蓮はしばしば彼の姿に見とれた。こうしてあの美しい物語が作られていくんだ、と考えると、少々複雑ではあったが、何故だか胸がドキドキする。きっと、疲れたのだろう。


 風呂に入るように言われたので、素直に従った。きれいにしたおかげで、安心してシャワーを浴びることができた。そして風呂を出ると、「寝床を用意しておいたよ」と夢逢が、例の開かずの扉を指さす。


「ね、寝床ですか」


「そう。使っていいよ」


 夢逢はそれだけ言うと、また執筆に没頭し始めた。蓮は仕方なく扉へと向かい、恐る恐る開く。


「え……」


 その部屋には、何も無かった。


 ただの6畳間が広がっているのだ。ゴミどころか家具も置かれていない。窓には黒いカーテンがかかって閉められているし、押し入れから出したと思われる布団が隅に畳んであるだけで、何も無いのだ。蓮は一度夢逢を振り返ったが、彼はもう物語の世界に入っているようだったから、のろのろとその寝室へと入る。


「どうなってんだ、この人の家……」


 不可思議で仕方ない。電気をつけて布団を敷こうとする。かび臭い匂いなどはしなくて一安心していると、ふと、部屋の片隅に、小さな機械が置いてあるのに気づいた。


 それが何なのか、蓮は偶然にも知っていた。これは家庭用のプラネタリウムだ。そして蓮は気づく。


 ここは恐らく、夢逢の描く夜空の世界なのだ。


 ずるずると布団を部屋の真ん中に敷いて、プラネタリウムを起動する。恐る恐る電気を消すと、何もない6畳間は一瞬で宇宙へと変わる。布団に横たわって天井を見上げると、無数の星が瞬く、夜の海へと誘われた。


「あ──」


 この景色を、蓮は知っている。この感覚を。


 静かに目を閉じる。静かで孤独な夜の世界を漂う。街の喧騒、夢逢のタイプ音が僅かに鳴るばかりの世界に、包まれていく。


 ああ、ここは確かに、雲母坂夢逢の世界だ。


 蓮は何故だか泣きそうになった。


 この孤独と闇に身を寄せて、あの美しい世界を書き続けているのだ、彼は。


 そう思うと、あの細い体を抱きしめたくなった。彼がどれだけの人の心を動かして、救ってきたかはわからない。ただ、今この時、彼を誰が抱擁してくれるのだろうと考えると、無性に愛おしくなった。






 目を覚ますと、隣に夢逢が寝ていた。


 蓮は一瞬何が起こっているのかわからず、飛び起きて電気をつけた。近くに置いていたスマホを見ると、もう朝になっている。しかし、夢逢は隣の部屋で原稿を書いていたはずだし、そこに彼の布団が有ったはずだ。なのに、どうして夢逢がここで、しかも隣で眠っているのか。


 夢逢はよほど深く寝入っているのか、蓮が飛び起きても、すうすう安らかな寝息を立てている。先生、と名を呼んでも起きない。仕方なく彼を見ると、昨日眠る前に見た着古した寝間着ではなく、清潔なものを身に着けているようだった。風呂に入ったのか、とか、睫が長い、とか、こうして眠っているとなんだか美人だな、とかそんなことを考えてドキドキする。しかしそれ以上に、原稿がどうなったのかが心配で胸が痛い。


「せ、先生、あの。あの……」


 優しく揺さぶると、んん、と夢逢が目を覚ます。眠たげな彼に、「先生、原稿は」と尋ねると、彼は布団をかぶりながら扉を指さした。


「テーブルの上……、データで置いといたよ……」


「ほ、本当にできたんですか!?」


「できたとも、君のおかげでね……持って行くといい。勝手に出て行って構わないからね。こんなゴミ屋敷、泥棒だって入らないだろう」


 僕は寝るよ、おやすみ、徳田君……。そう言い残して、夢逢はまた眠ってしまった。蓮はそうっと部屋を出て、夢逢のデータを受け取ると、中を確認する。


 短編小説だ。あるとき主人公の女性のもとへ、見知らぬ男が薔薇を持って求婚に現れる。その薔薇は10本あった。主人公は完璧な人間を演じていたが、実は欠点がいくつもある。それをひた隠しにしていたから、男の求婚を受け入れられなかった。しかし主人公は次第に、欠点も人間らしさと受け入れてくれる男へ惹かれていく。けれど、薔薇は10本だ。だから彼に応えられない。


 どうして10本ではダメなのか? 花言葉が「あなたは完璧」だからだ。完璧を演じているだけの主人公は、どうしても男の愛を信じられない。自分を受け入れられない。けれど、男はそんな主人公を認めて、薔薇を1本差し出してきた。1本のバラは「私にはあなたしかいません」という意味を持つ。そして、11本になった薔薇は。


「……最愛の人……」


 蓮は自分のしたことに気付いて、顔を赤くした。主人公は自分を認めて、それで初めて、男の愛情に、自分の本当の気持ちに気付く。きれいなハッピーエンドだ。ありきたりな話ではあるけれど、夢逢独特の文章はやはり美しくて、優しい。自分も生きていていいのだという気持ちになって、胸が温かくなり、どうしようもなく泣きたくなる。


 データをしっかりと鞄に入れて、それからそっと夢逢のそばに戻る。すうすう眠っている夢逢に、小さな声で「先生」と呼びかけた。彼は目覚めない。


「……先生がどんなに、自分の事をよく思っていなくても……先生は俺の……俺を救ってくれた、本当に……確かに、最愛の人です……」


 言葉は空に消えた。蓮は一人、顔を赤くしながら、そっと部屋を出る。


 会社に戻るために身なりを整えて、ふと花束が見当たらないことに気付いた。ん、と探すと、何故だかキッチンに薔薇が置かれていて、どういうことか、8本と3本に分かれて置かれている。


 きっと何か意味の有ることなんだろうな。蓮は思いつつも、出社する為に靴を履き、「おじゃましました」と小さく言ってアパートを出た。


 蓮が仕事の合間を縫って検索し、8本の薔薇は「思いやりに感謝しています」、3本の薔薇は「愛しています」を意味すると知って、顔を赤くするのは、また少し後のことだ。





 これが、二人の奇妙で長い付き合いの始まりだった。

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