葱坊主の恋。
なずとず
第1話 葱坊主の恋。 上
俺には好きな人がいる。
平凡すぎる書き出しだなあ。我ながら文才は無い。
長閑な田園風景に、スーツの男は不似合いだ。暑くて脱いだ上着と、熱のこもったリュックサック。誰も見ていないのをいいことに、汗を拭うタオルを首へ、シャツの前は緩めて、緩い坂道を登る。あともう少しで着く。暑さにため息を吐き出した右手には、一本のネギ坊主。
田舎道には人通りが無い。けれど、バス停からの道で、地元の母娘と出会った。
お花屋さんごっこをしているという幼い少女に、一本どうぞと差し出されたのが、このネギ坊主だ。畑のダメになったネギで遊んでいるんです、と母親は申し訳なさそうにしていたから、蓮は笑顔で「お嬢さんありがとう、お代はいくら?」と受け取った。今なら無料です、と笑う少女の微笑みは明るくて、随分心が洗われた気がする。
さて、この浄化された心で、立ち向かわねばならない。蓮は大きく深呼吸をしてから、その一軒家へと向かった。
「先生! 先生、入りますよー!」
その家は窓という窓を全て開け放っていた。なにしろ急に引っ越したものだから、エアコン工事が間に合っていないのだ。昔ながらの風流な佇まいに相応しい蒸し暑さで、室内でも過ごすには酷である。玄関も鍵どころか戸も閉まっていなかったので、これでは虫も入り放題だろう。真夏でなくてよかった。
大きな声で「先生、徳田です! こんにちは!」と言いながら部屋を渡り歩く。と、一番奥の、陽の差し込まない和室に目当ての男は転がっていた。
畳の上に、薄い浴衣を着てうつ伏せに行き倒れているのだから心臓に悪い。「先生」と声をかけて鞄と上着を置き、そっと触れると、亜麻色の髪を揺らして男が顔を上げる。
「徳田君」
先生、と呼ばれるには、彼は若く見えた。実際いくつなのか、蓮は知らない。汗の浮かぶ火照った顔は少し色っぽくて、蓮は胸がドキリとするのを感じた。しかし、今はそれどころではない。
「先生、締め切りまであと一週間ですよ、大丈夫ですか?」
今日は、徳田蓮個人としてではなく、編集者として来ているのだ。しっかり仕事をしなければならない。蓮の問いに、先生と呼ばれた男は「ああ……」と目を伏せて、それから顔を覆った。
「一文字たりとも書けてないとも! ああ! 死にたい……」
「ええっ、一文字もですか!? 困りますよ先生!」
蓮は編集として声を荒げた。
そう、目の前の男は今注目の作家、
しかし。
「あーーもう死にたい書けない、一文字も書けない……あーもうダメ、僕はゴミ、くず、もう無理死ぬしかない……」
べちゃ、とまた畳にうつ伏せに突っ伏したこの男こそが、その、雲母坂夢逢なのだ。このネガティブ極まりない、ただの男が。
「でも先生が、『都会の喧騒から逃れられたら、死にたくならないから書けるかも』って言うから、ここに引っ越ししたんじゃないですか!」
「言ったよ? ああ言ったとも、でもね、徳田君。この暑さはね、無理……」
うつ伏せに行き倒れたままでそう言う夢逢に、ミステリアスさも情緒も何も無い。ただの汗だくの男だ。
「まあ、季節外れの夏日がきちゃったのは、困ったもんですけど。先生が急に引っ越すから……そりゃ工事間に合いませんよ」
「徳田君は冷静だなあ……。そうだよ、僕がね、馬鹿だったんだよ、ホント、死んだほうがまし……」
またネガティブのスイッチを入れてしまった。こうなると、夢逢は絶対に一文字も書けない。蓮はワシャワシャと汗で湿った髪を掻いて、なんとか打開策を考える。とにかく彼には書いてもらわないと、困るのだ。
新作の発表日はもう決まっているし、締め切りまであと一週間。あらすじだけでも用意しないことには、表紙や印刷会社との打ち合わせ、ああそれに広告代理店にも、あああああ。
悩ましいのは蓮も同じだ。なんとかやる気を出してもらわないと困る。蓮はネギ坊主をそばにあったちゃぶ台へ置いて、夢逢を抱き起こす。
細い体は白くて、はだけた浴衣が、汗の滲む肌が妙に淫靡ではある。だが今はそれどころではない。それどころではないのだ。
「先生、その、そうだ、外の空気でも吸いに行きましょう。気分転換に散歩でもしたらきっと、」
「死にたくなるから嫌だよ、徳田君」
「どうしてこんな長閑な田舎道を散歩したら死にたくなるんですか!?」
逆に気になる。夢逢は、大きなため息を吐いて、何かを想像するように目を閉じた。
「例えば、外を歩いていたら、何処かで草刈りをする音がする。ああこれは、そうだね、電動草刈り機の音だ。それと一緒に、青い香りが漂ってくる」
「田舎の風景って感じで清々しいじゃないですか」
「でもねえ、田舎って独居老人が多いから、自殺する人も多いんだよ」
「急になんでそっちに話を持っていくんですか⁈」
「それで、彼らがどうやって死ぬと思う? 自分の首に草刈り機を、」
「あっ、もういいです、もういいです! この話は止めましょう!」
想像しただけで、蓮まで田舎が怖くなってきた。知りたくなかった。それは、暗い気持ちにもなる。大体この先生はどうしてこう、いらないことばかり知っているのか。蓮は頭を抱えたくなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます