第八話「不穏」

1月10日(火)0830 柊社

 いつものとおり、始業時間前30分に出社した恭子は、社内の様子が、しきりに気になって落ち着かなかった。

 いつもと何かが違う・・・。

 こう言った社内の雰囲気の様なものを肌で感じ取るのも、秘書として必要な資質だと自分では、そう思っている。

 そして、しばらくはそれが何なのかはっきりしなかった。が、しかしようやく、自分自身が社員の視線を受けていることに気がついた。

 なぜ、自分に注目しているのか?本人達に聞くわけにもいかず、どうしようか思案していたところ、直子が、わざわざ営業部長のお茶の用意をほったらかしにしてまで、総務ブースに知らせに来てくれた。

「恭子、あなた道彦さんとお茶してたって本当なの?」

 訂正する。直子は私的興味に従い探りにきた。

 どうやら、先週末、道彦と面談したことが噂になっているらしい。

 慌ててもしょうがないので、冷静になって考えてみた。まずは直子に聞いてみることにする。

「ねえねえ。道彦さんって、私は知らなかったんだけど、社内中で知られているほどの有名人なの?」

「そうねぇ。王大経済学部院卒なのに軍に入った変わり者で、30代前半、独身ってことぐらいだけれど」

「そういうことなのね。ありがとう。でも直子は営業部に戻って。詳しいことは、また今度お願い」片手を立てる仕草を軽く見せ、詳しく話せない今の状況を察してもらう。

「わかったわ」とりあえず身辺だけは静かになった。

 さて、恭子は分析し始める。

 面談の件が漏れた原因は、道彦を知っている誰かに現場を見られたか、総務部長が漏らしたかだけれど、総務部長の線は恐らくないだろう。

 しかも今更どうしようもこうしようもない。

 道彦が、社内でそこそこ知られているのは、道彦の学歴の高さと適齢期なのに独身であることが、その理由らしい。

 もしかしたら、恭子と同様に、道彦の存在そのものを、知らないものも少なくないのではないか。だったら燃え上がった炎も消しようがあるか?

 そして、仮に消せたとして、最後に、どれくらい影響が残るかだが・・・。

 おそらく、繰り返して同じように面談を目撃されない限り、いずれ下火になるのでは・・・。逆に今、下手に否定すると藪蛇になってしまう可能性さえある。

 したがって、今やらなければならないことは、「視線の無視」だ。それで十分と考えた。 

 そして、恭子は時計を見る。

 始業時間10分前だ。総務部長のお茶を入れる時間は充分にある。 

   *

1月10日0910

 始業後、早々に総務部長に呼ばれた。

「今、やっぱり相談役から、君に道彦と連絡を取らせるようにと、指示をもらったよ。面倒かも知れないがよろしく頼むね」

 総務部長の想像どおり、相談役は、さっそく、軍、つまりは道彦に、働きかけたようである。

「あいつは今、北海道なんだろう」

「名刺をいただいておりますので、電話で連絡させていただきます。それで、相談役から具体的に、先方に対しての質問事項や提案の御指示はありましたか?」

「いや、なにもないよ」

「そうですか」

 ということは道彦本人に対して、すでに母親から、軍の情報の開示などについて、無理難題な指示があったと推して知るべしだ。恭子の役目は、その後の情報受領役と言ったところだろうか。恭子は、けっこう理不尽な母親から道彦に対する扱いを、少々不憫に思った。

 ただし、道彦の携帯番号は、もちろん自分のスマホのメモリー内に入れたままなので、恭子的にはなんら支障はなかった。自分はまったく困らない。

「承知しました。それではお昼あたりに連絡したいと思います」

「ところで、部長は、先日の道彦様と私の面談の件が、社員達に知られているのを、ご存じですか?」

「え・・・僕は違うよ!」

 ちょっと驚いてしかもうろたえている。どうやら、本当に知らないらしい。

 この方は本当に、こういう時に嘘はつけない。

「口止めするとかえって怪しまれるので、私は、前から道彦様を存じ上げていて、偶然、道すがらお会いして、喫茶店でお年始のご挨拶をしていたことにします」

「その説明は、いくらなんでも無理がないかな?」

「とても苦しいとは思いますが、他に思いつきません。それに・・・」

「『偶然』は、それさえ言い切ってしまえれば、後で説明に困りません」

「うーん、そうかー」

「よろしく、ご助力願います」

「もちろんわかっているよ」総務部長は快諾した。

   *

1月10日1030

 恭子は来訪、部長専決などの午前のスケジュールを順調に終わらせ、さらに総務部長が会議で執務室を離席にしたため、手の空いた恭子は、道彦に電話をかけることにした。

「道彦さんでしょうか?先日はお世話になりました。柊社の伊藤恭子です」

「ああ、道彦です。こちらこそお世話になりました」

「実は、上司から再度お話しをいただくよう、申しつけられました」

「うん。僕の方にも母からまた連絡があったよ。もう知っているのかな?」

 電話からの声は気のせいかしら、なにか困っているように聞こえた。

「はい。承知しています」

「でも、やっぱり現場のことは電話では伝えにくいんだ。分かってくれる?」

「はい、なんとなく」

「で、いきなりな話で申し訳ないんだけど、旭川の『統合軍司令部』まで来てもらえないかな?」

 !!!

 これには、恭子は本当に驚き、つい声が大きくなった。

「なんでそうなるんですか!」

 総務部ブースの何人かがこちらにふり向き、怪訝そうな表情をする。

「住所は、この前に渡した名刺のとおりだからさ」

「道彦さん、私の話を聞いてますか?」

 恭子は意識的に声量レベルを下げて会話する。ほとんどウィスパーだ

「だって、僕はもう休暇とって東京なんてとても行けないし。そっちからの日程は2泊で十分だと思うから・・・」

「それはちょっと、・・・即答できません」

 前回面談の教訓はどこへ行ったのだろうか。

 ペースを握られないようにするつもりだったのに全く凝りてない私。いや、前回よりひどいと思う。

「そっちにも都合があるんだよね。なんとなくわかる」

「そうですね、上司に伺ってみないとなんとも申し上げられません」

 まるで「あっぷあっぷ」だ、防戦一方である。

「実はね、母に軍の人間が常盤ラボに「希望」を漏らした例の件を吐かされてね。こちらの詳しい情報をよこせと、詰め寄られているんだ」

 せっかく、恭子が伏せておいたのに、ある意味予想どおり、もうバレている。よほどお母さんに頭が上がらないらしい。やはり少し不憫に思ってしまう。

「わかりました!この件は前向きに検討いたしますので。ここは失礼いたします」

 焦って、ちょっと強引に電話を切ってしまった。相手が電話を切る音はちゃんと聞いただろうか?

 電話を切ってしばらくは、それを見つめてただ呆然としていた。

 反省しているのだ。

 そう、勝手に「前向きに検討」などと、口走ってしまったからだ。

 冷静に考えて、会社人としては、特に秘書である立場としては迂闊な判断だと言えるだろう。

 しかし実のところを言ってしまえばば、恭子には、渡道(とどう)という個人的な理由というか憧れがやっぱりあって、その誘惑にぎりぎり負けてしまったのだ。

 けれどもだ。もしかしたら久しぶりに旭川に行けるかもしれないって本当なの!?

 少しどころか、けっこう期待している自分自身に、恭子は気がついて、ふとあきれてしまった。

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