学校辞めて箱根のガラス工房で働いてたら、美少女が「海から来た」って現れた件

さちゃちゅむ

第1話 それはまるで、ガラスのような

 朝の光が、ガラス工房の窓から静かに差し込んでくる。

 九月の箱根は、夏の名残りを残しつつも、どこか静かだった。


 山あいに佇む温泉街。石畳の路地には湯けむりが上り、木造旅館が立ち並ぶ。老舗の旅館の一つの傍に、そのガラス工房“OTOZU”はある。

 ここはじいちゃんの工房だ。


 周囲はなだらかな丘陵と緑に囲まれ、川が街の中心をゆったりと流れている。夜になれば提灯の明かりが川面に映るのでこのあたりはより幻想的に見えるのだった。


 じいちゃんの工房は古民家を改築したもので、外壁の黒漆喰には蔦が絡み、入り口の硝子張りドアだけが現代的なアクセントとなっている。

 内部は梁がむき出しの天井に、奥には電気炉がどっしりと鎮座し、棚にはガラス制作体験をしたお客様の完成品と、じいちゃんの作品を並べた木製棚が壁一面を埋める。


 じいちゃん――かつて「東洋のガレ」と呼ばれていた――その背中は、どこか遠い世界の人みたいで。今日も黙々とガラスを吹いている。


 僕は、じいちゃんの作業台の端っこに座り、スマホの画面を指でスワイプする。

 SNSのタイムラインには、誰かの楽しそうな笑顔や、きらびやかな日常が流れていく。

 それをぼんやり眺めながら、僕は今日も「いいね」を押せないでいる。


「お前、もう今日の撮ってあげてくれたか?」

 じいちゃんの掠れた低い声が、静かな工房に響く。

「まだ。光がきれいに入る時間を待ってた。あ、もういいか」

 僕はカメラを構え、じいちゃんの作品にそっとレンズを向ける。

 淡い水色に透き通ったガラスの花瓶だ。

 朝の陽射しが差し込むと、まるで本物の水のように光が揺れた。

 

 僕にはまだ、ガラスのような強さはない。

 

 その日の午後、体験予約が入っていなかったため僕は工房でガラス玉のペンダントトップを作っていた。透明なガラスの中に、淡いブルーの筋が一本、斜めに走っているデザイン。

 指でつまんで光に透かしてみせる。光が当たると、その筋が水面のように揺らめいた。

 「……っ」

 そのとき、小さな音とともに、ガラスがぱきりと割れた。破片が作業台に散らばる。

 指先からはぷくりと赤い血の玉が浮かんできている。あぁ、やってしまった。

 紐を通す穴の周りを細くしすぎたのだ。ほんの少し力を入れただけで割れてしまった。

 あっけなく割れたその破片を見つめながら、しばらく動けずにいた。

 あんなに美しかったのに、もう元には戻らない。

 ――そして、心の中でこんな疑問が浮かぶ。

 ガラスも、人の心も、壊れるときは一瞬なんだな。

「大丈夫か?」

 じいちゃんが、声をかけてくる。なんてことないいつもの穏やかな顔だ。

「うん、大丈夫。ちょっと力入れたら割れちゃって」

 じいちゃんは黙って頷き、「絆創膏、場所わかるよな」と言ってきた。僕は戸棚から絆創膏を取り出し、指に貼る。一人で貼るのは少し手こずるけれど、なんとか覆えた。

 じいちゃんは手際よくガラスの破片を合わせ、炎の前で慎重に熱している。やがて「ほれ。熱いから触るなよ」とトレイにのせて渡してきたそれは、割れ目は跡形もなく消えていた。僕はトレイごとそれを受け取った。ペンダントトップはほぼほぼ元の形を取り戻している。


 心の中で、口に出してはいけない問いが浮かぶ。じいちゃんにこんなこと言ってはいけない、と思う。

 ――どうして、こんなに簡単に壊れてしまうのに、ガラスでわざわざ作るんだろう。

 透明さが大事なら、アクリルでもいいはずだ。アクリルなら割れにくいのに。

 それでも、どうして人はガラスでなにかを作ろうとするんだ?

 僕がそんなふうに考えているのを読んだかのように、じいちゃんが静かに語り始めた。

「ガラスはな、サビも腐食もせん。百年、二百年と経っても、そのままの美しさを保つんだ。昔の職人たちが手で作ったガラス細工は、今も輝きを失わない。それに手作業でしか出せない温かみや個性がある。これが伝統ってもんだ。」

 僕は、棚に飾られたじいちゃんの作った古いガラス細工を見つめながらも、どこか腑に落ちない。

 

 でも、今は新しい技術がどんどん生まれている。もっと丈夫で、便利で、安い素材だってあるのに……。伝統にこだわるのは、ただの頑固さじゃないのか?

 じいちゃんの誇らしげな横顔を見ながら、申し訳ないけど僕は心の中でそんなふうにそう呟いた。

 「少し厚めにしておいたからな」

 じいちゃんが差し出したペンダントトップは、まったく同じではないが、厚みが増したこと以外はほぼ同じ形に戻っていた。

 ――ガラスは、こうして繋ぎ直せる。でも……人の心は、どうやって繋ぎ直せばいいんだろう?

 次はそんな問いが、胸の奥に沈んだまま浮かんでくる。


 「ガラスはな、壊れやすい。が、美しい。人の心も、似たようなもんだな」

 僕は、うまく笑えなかった。

 ……だって。一度壊れたら、もう全部意味がないことを知っているから。

 

 ガラスが冷めた頃、指先で結合部をそっとなぞった。割れていた部分は、もうどこにも見当たらない。黒いワックスコードの紐を穴に慎重に通し、ゆっくりと引き抜く。紐を持ち上げると、ガラスのペンダントトップが小さく揺れて踊った。

 洗面所の鏡の前で首に付けて見てみる。それは、思いの外それは僕に似合っていた。

 

 ペンダントトップをそっと手で触れてみる。壊れたガラスは、簡単に元通りになった。でも、心は元通りになんてできないんだよなぁ、と思いながら、僕はペンダントをつけた自分の姿を、しばらくじっと見つめていた。



 それまで作り上げてきたものが一瞬でパー。意味なかったってことになる。

 無駄な時間だったって証明される。

 壊れてしまったら、それって、「壊れちゃったからまぁいっか」の一言じゃ片付かないんだよ。


 心の中でそう呟いた。

 じいちゃんはなにかを見透かしているようにふっと笑って、僕の肩を軽く叩いた。

 

 学校は、この春に辞めた。

 自主退学だ。

 人間関係のトラブル――なんて、ひと言で片付けてしまえるほど、僕の心は単純じゃなかった。


 特別荒れていた学校というわけではなかった。

 でも、もう無理だった。

 あいつらと肩を並べて卒業したなんていうのは耐えられなかった。


 ある時から、みんなの輪の中にいると、自分の存在だけが、空気の中で浮いてしまうような気がした。

 気づけば休み時間は机に突っ伏したり、教室の隅っこで窓の外ばかり見たりしていた。

 教室にいると、みんなの笑い声がどこか一枚膜を隔てた先――水槽の外みたいに聞こえた。

 それでそのうち、別にここにいなくていいなって自然と思って、学校に行かなくなった。


 居場所がない僕を見かねてか、暇しているんだったらじいちゃんのガラス工房を手伝ってくれと声をかけられたのが2ヶ月前だ。

 PC関係が苦手なじいちゃんの代わりに、SNSやホームページの更新を行う。それが僕の仕事だった。


 僕はパソコンの前に座る。

 工房の静けさが背中を包み込んだ。


 今日も、体験のお客様が作ったガラスの小皿を撮影した。

 カメラのモニター越しに見ると、ほんのり歪んだ縁がわかる。なんだか愛おしい。


「この小皿、きれいに出来てるな」

 じいちゃんが背後から声をかけてきた。

「うん、色の混ざり方が面白い。 青と緑が、波みたいに流れてる」

 そう言いながら、僕は写真をパソコンに取り込む。


 画面の中の小皿は、朝の光を受けてどこか海の底みたいな色をしていた。

 僕はホームページの「お客様ギャラリー」ページを開き、

 新しい記事のタイトルに「夏の思い出のガラス小皿ができました」と打ち込む。


 説明文を考える。

「本日のお客様の作品は、やさしい波模様の小皿です。

 初めてのガラス体験で作られました。

 青と緑の色ガラスが溶け合い、夏の海を思わせる仕上がりになりました。

 手のぬくもりが伝わる、世界にひとつだけの作品です。」


 写真を添付して、投稿ボタンを押す。

 僕はふうっと息を吐きく。


 キーボードを叩く指が、少しだけ軽くなる。

 うーんと背伸びをした。


 このタスクを終えると、僕は焦りを少し解消できるような気がする。


 生きることへの焦りというか、なんというか。

 そういう気持ちをずっと抱えている。


 これをすることで、なにもしていないまま存在する自分ではなかったと、自分の存在を少しだけ認められる気がするのだ。


 じいちゃんはこの日、用事があると言って先に工房を出た。

 僕らが暮らす家はここから歩いていける範囲内にあり、だいたいじいちゃんが用事という日は、温泉街の仲間との麻雀だ。


 僕は残って、これまでの作品を見ていた。

 次は青い作品が来たら、画面の並び的に綺麗だなー、なんて思いながら。


 今日は、このあと一人だけ体験の予約がある。

 まぁ、予約があっても来なかったりすることもあるんだけど。



 その日、午後4時前、工房の扉がきいっと軋んだ。


 埃まみれの扇風機が回る音の隙間から、

「すみません、ガラス体験はこちらですか? 少し早いんですけど……」

 透き通った声が流れ込んできた。


 振り向くと、僕と同い年くらいの白いワンピースの少女が立っていた。

 彼女の腕には、スケッチブックが抱えられている。

 

「あ、ええ……そうです。予約の……えっと、“みさ”さん?」

「はい。美紗です。“みしゃ”、と読みます」

 微笑んだその表情は、柔らかくもどこか凛とした強さを感じるものだった。



 彼女は名乗ったあと、肩からかけたポシェットからスマホを取り出した。そのロック画面には、見覚えのある柔らかな曲線と、幻想的な女性の横顔ーーアルフォンス・ミシャの描いた絵――が設定されていたから、僕は思わず「あ」と思った。

 彼女は、ガラス体験予約受付完了のスクショ画面を見せてくる。僕は「来訪記録だけするので、そこにかけて少しお待ちください」と言った。

 しかし彼女は椅子に座らず、棚に飾られたじいちゃんの植物の蔓が巻かれたような花瓶の作品に目を輝かせ「綺麗……」 と呟いていた。

 僕はちらちらと彼女の姿を見ながら、記録をつけた。

 白磁のように透き通った肌に、目が青い。カラコンではなさそうだ。手足がすらりと長く、背筋を伸ばして立つ姿は、まるでモデルのようだった。首筋にかかる黒くぱつっと切り揃えられた髪。首元には鮮やかなオレンジと赤色のスカーフを巻いている。

 それが、すっごく似合っていた。

 背は高く、男の僕には及ばないが、160センチちょっとありそうで、女の子としては少し高身長な方だ。鼻筋もすっと高く、横顔はどこか異国の肖像画を思わせた。

 

 この工房はすぐ隣の温泉旅館で「ガラス体験」が紹介されていて、お客さんの大体が家族連れかカップルだ。

 一人で来られる方もいるけれど、その時はもう少し大人の方が多い。旅館から送客の場合は、名前と人数、年代を伝えられる。

 だからまさか、予約者が同い年くらいの人だとは思っていなかった。

 それもこんなことを思ってしまうのは失礼かもしれないけれど……こんなに可愛い人だなんて。

 じいちゃんがいない工房で、こんなふうに女性と二人きりになるなんて状況は、初めてだった。


 彼女は再びスマホを取り出す。ちらっと覗いてみると、やっぱり、ロック画面はミュシャだ。

「あ、あの。それ……ミュシャですよね?」

 僕が思わず声を上げると、「はい! 好きなんです。知ってるんですね!」と彼女はぱっと顔を明るくした。

 その反応に、少し警戒して距離をとってしまう。

「……展覧会、先月行きました」

「本当ですか? 私も行きました! ほら、この待ち受けにしてる『黄道十二宮』。展覧会でもありましたよね? ミュシャの中でも一番好きな作品で」

「あ……そうですか」

 思ったよりも熱の入った感想を告げてきたことに少し戸惑って、僕は静かに返した。

 きっとこれで、雑談は終わる。

 ガラス体験をやって、帰ってもらおう。それがいい。

「お兄さんはミュシャのどんなのが好きとかあるんですか?」

 あんなに冷たく返してしまったのに、次の質問が飛んできたことに驚いた。

「あ……僕は『四季』ですかね」

「それもいいですよね! ミュシャって女性をすごく美しく描くけど、ただ理想的な美女じゃなくて。強さとか、優しさとか、そういう内面的な魅力も感じるというか。見てると、自分も頑張ろうって思えるんです」

 展覧会に行った時、僕も同じ感想を持ったから驚いた。

「それ、わかります。線は柔らかいけど、決して弱そうじゃない。自由で、芯が強い感じがするというか」

 僕も思わず少し前のめりになって話していた。でも、そんなことも気に留めていないのか、彼女は僕から距離をとることもせず、うんうんと頷いていた。

「やっぱりそうですよね! ……あ、ごめんなさい熱くなっちゃって。年近いと思うから、よかったらタメ口で話話しませんか?」

「あ……うん。そうしましょう」

 正直、そこまで詳しくはないけれど、頭のなかの知識を総動員して会話していく。

 僕は普段、お客さんとあまり話さない。話せない、という方が合っているだろうか。

 それなのに、なぜさっき展覧会に行ったことなど僕から話してしまったのだろう。わからないことはもう一つあって、共通の話題があるということが嬉しいと思ってしまっていたことも。

「えっと、名前は……」

「乙津大地です」

「大地君か。今の時間だと、ここでなにができるの?」

「時間的に吹きガラス体験以外だったら、なんでもできるよ」

 そう言うと、美紗ちゃんのブルーの瞳はいっそう輝きを増した。

「なんでもかぁ」と笑うその目が僕に向けられたものではないのはわかっているけれど、ドキッとした。

 きっと、この子の青い瞳で見つめられて、なにも感じない人なんていない。

 そんなふうに思うくらい、吸い込まれるような瞳だった。


 僕はサンプルを用いながら、工房の体験メニューを説明する。

 

「できるのは、とんぼ玉、万華鏡、オルゴールのデコレーション。とんぼ玉はバーナーでガラス棒を溶かして、丸い玉を作るんだ。それをストラップやペンダントにできるよ」


「へぇ。小さくて持ち運べるのはいいなぁ」


「色や模様も自分で選べるから、好きな色で作るのはもちろんだけど、最近は推しの色でオリジナルアクセサリー作りたいって人も多いみたい」

「なるほどぉ」


 そう言った彼女に、僕の胸元がじっと見つめられている。なんだ?

「それ、すごく綺麗」

「あぁ、これもそういう感じで作ったものだよ」

 見ていたのは、僕がつけているガラスのペンダントトップだった。

「いいなぁ。ガラスだったら、お風呂でも寝る時もつけてられるよね?」

僕はうなずきながらも、どこか申し訳なさそうに答える。

「うん。でも、ちょっとしたことで割れちゃうから……」

ヒロインは微笑みながら、そっとサンプルのガラス細工を光にかざして言った。

「壊れやすいからこそ、大切にしたくなるんだと思う。儚いものって、なんだか尊いよね。壊れるかもしれないって思うと、今この瞬間がすごく特別に感じる気がしない?」

 壊れやすいからこそ、価値がある。失うかもしれないからこそ、今を大切にできる――?

 ”壊れやすいからこそ、大切にしたくなるんだと思う”という彼女の言葉。

 その言葉に、僕の中で何かが腑に落ちた気がした。

「これは?」

 僕が彼女の言葉に衝撃を受けているのもよそに、彼女が次に指差したのは、万華鏡だった。

「あぁ。万華鏡づくりは、こんなふうにビー玉やビーズを筒の先に入れて、まわりは好きな和紙や布でデコレーションできる。世界に一つだけの万華鏡ができるよ」 

「わあ、楽しそう! 小さいころ万華鏡が好きだったの。いろんな模様が見えるのが楽しくて」と美紗ちゃんが微笑む。

 見本の万華鏡を手渡すと、美紗ちゃんはのぞいて「わぁ」と小さく声を漏らした。

「綺麗。懐かしいな。子供の頃ね、ずっと、ずーっと見てたんだぁ」

 

 きっと、彼女の目は美しいものを見るためにあるのだろうと思った。

 僕は、次の万華鏡を渡した。

 

「こっちの種類も綺麗だよ。窓の方見てみて」

「わぁ、本当。これ、好き」


 手でくるくると万華鏡を回転させながら、しばらく楽しんでいる彼女の姿を、僕は見ていた。


 首にスカーフをする同年代の女性なんて、これまで見たことなかったけど、すごく素敵なものなんだなと思った。なんの模様だろうか? なんだか高級そうなスカーフだということだけはわかった。


 学校にいた女子たちも、一軍の子たちも、休みの日はこういう格好とかするものなのだろうか?

 少し考えた。でも、どっちも僕の人生には関わることのない人だったから、想像もつかなかった。


「これは?」

 万華鏡を下ろし、店内のサンプルを見ていた彼女が振り向いてそう聞いた。


「あぁ、それはオルゴール。好きな曲を選んで、いろんなパーツでデコレーションできるよ。曲は20種類以上から選べて、完成したらすぐ持ち帰れる」

「オルゴールもいいなぁ。どれにしようか迷っちゃいそう。鳴らしてもいい?」

「うん」

 そう言って、僕はオルゴールを逆さにして、底にある小さなネジを回した。ネジがくるくると回り始める。

 流れ出したのは、星に願いを。

「“ベツレヘムの星“……」

「え?」

 この曲は、星に願いをという曲だった。

 美紗ちゃんは、「この曲、好きなの」とどこか切なそうな笑顔を浮かべた。


「幼いころ、お母さんが寝る前によくオルゴールを鳴らしてくれていたの。それがこの曲だった。私、いつの間にかこの曲を聴かないと眠れなくなってて……」


 彼女はオルゴールをそっと撫でる。

 その細い指先の動きは絹を撫でるように優しく、美しかった。


「これだったら、どんなデコレーションにしようかな」

「ミュシャの“月と星“って作品、知ってる?」

「もちろん! 「月」「宵の明星」「北極星」「明けの明星」からなる連作でしょ? あれも好き。あのなかだと……北極星が一番好みかな」

「それみたいなの、どうかな」

「いい! 北極星の女性が頭にしている髪飾りみたいなのつけたい。星の形のガラスパーツとかあるのかな? それでデコレーションできたら……ありだなぁ」


 イメージしているのだろう。彼女はうっとりと目をとじた。

 そして、僕の方を見つめ、「ねぇ、変なこと聞いてもいい?」と聞いてくる。


「えっ……。なに?」

 僕はちょっと身構えた。相当難しい技術の装飾をしたいと言われたら、正直僕なんかには何もできない。


「もし願いがひとつだけ叶うなら、何をお願いする?」


「へ?」

 なんだか、拍子抜けしてしまった。

「えっと……」と僕は詰まってしまう。

 彼女は「あははっ。なんでもない。あれ、今日はできないのはなんだっけ?」と笑った。


 そのお茶目に微笑んだ横顔が、淡い光に照らされて、どこか遠くを見ているようだった。


「あぁ、吹きガラス体験は、溶けたガラスを鉄の筒に巻き取って、息を吹き込んで膨らませるんだ。コップや一輪挿しが作れる。色ガラスを使って模様も入れられるよ」

「えっ、私、やってみたい! ガラスを吹くなんて初めて!」

「もし明日も時間が大丈夫だったら、できるよ」

「わかった。来るね」


 来るんだ。


 明日もこの子に会えるのか。


 僕は喉が渇くのを感じた。



「ミュシャを好きになったのは、なにかきっかけがあるの?」

「うん。お母さんが好きだったの。もともと昔、エミール・ガレの研究してたんだって。でもお母さんはアール・ヌーヴォー全般が大好きで」

「へぇ。ガレって、ガラスの人だよね?」

「そう。ガラス芸術の天才って言われてる。数年前にね、ラトビアのリガまで建築を見に行ったの。アール・ヌーヴォーの建築がいっぱい見られる通りがあってね。あ、大地君って猫好き?」

「猫? 好きだよ。というか、猫を嫌いな人いるのかな」

「あはは。そうだよね。リガにはね、“猫の家”っていう有名な建築物があるの。屋根の上の端と端に二匹の黒猫ちゃんがいるんだよ」

 美紗ちゃんのブルーの瞳が、工房の窓ガラス越しの光にうっとりときらめいた。

「ほら、これ」

 そう言って、美紗ちゃんはまたスマホで写真を見つけて微笑み、僕に見せてきた。

「ここを歩いたの。通りの両側に、色とりどりのアール・ヌーヴォーの建物が並んでいて。この街にいるだけで、まるで、芸術作品の中に迷い込んだみたいだった。アルベルト通りって言うの」

 画面には、アール・ヌーヴォー建築が通り一面にずらっと並んでいる。僕は思わず「おぉ」と声を漏らした。

 色も白と水色だったり、ピンク色、クリーム色っぽかったりと、さまざまだ。

 確かに、まるでその通り自体が芸術品のよう。

「海外にこんなところがあるんだ……」僕は呟くようにそう言っていた。

「ね。この建物のここ。同じ顔が並んでるでしょ? この通りを歩くと、まるで巨大な顔たちに見守られているような、不思議な感覚でね。なにかを叫んで伝えたがっているような顔も多かったの。建築そのものが、昔からずっと何かを伝えたくて生きてるみたいだった」

 僕は、「確かに」と頷いた。

 趣味がいいのか悪いのかわからないが、巨大な同じ顔が何体も規則的に配置されている。その異様な迫力に圧倒される。そして、そのどれもが同じ表情をしている。ということは、数ミリの違いもなく作られているはずだ。

 今のような3Dプリント技術がない時代だ。彫刻や石膏一つ一つを手作業で仕上げたと思うと、とてもじゃないが信じられない。

「今みたいな技術とかもまだないのに、よくもまぁこんな昔に同じ顔を量産できたよね」

「ほんとそれなの! 1900年代初頭だっていうのに。昔の人たちの職人技と創造力が感じられて、すごいエネルギーのある通りだった」


 目を大きくして興奮したように話す美紗ちゃん。すごく、すごく可愛かった。

 そして、実際にこの建築を見たら、僕だってその驚きはもっとあるんだろうなと感じた。

 一緒に旅行に――いやそこまでは望まなくてもいつか一緒にお出かけしたい、とこの時僕はこっそり思った。

 

「ラトビアって、どこだっけ?」

「バルト三国の真ん中。ヨーロッパの、ロシアに近いところ」

「あぁ。あのあたりか」

「面白かったよ。それから、現地で食べたお豆とベーコンの煮込みとか、じゃがいものもちもちしたお料理とか。あ、黒パンも美味しかった。これはデザートの蜂蜜ケーキ」

 そう言って、画面をスライドして思い出の写真を次々と見せてくれる。


「でも、じゃがいもってすごくお腹いっぱいになるの」


 スライドする指先が微かに震えている。

 少し気になったが、特に言及しなかった。


「すごいな。当たり前だけど、日本とは……この温泉街とは、全然違うね」

「ね。違う世界みたい。街を歩く人も、当たり前だけどみーんな見慣れない感じの人でさ。絶対おすすめ。あ、今回ミュシャのクリアファイル持ってきてたな。旅館か。写真あったかな」

 そう言って、美紗ちゃんはまたスマホを見つめて微笑んだ。


 その横顔が、まるでミュシャのポスターの中の女性みたいに、

 やわらかく、でもどこか凛として見えた。


 彼女は僕の視線に気づいてか、顔をあげて微笑んだ。


「ミュシャと、美紗。音が似てるでしょ? きっと、好きになる運命だったんだと思う」


 その言葉に、僕は頭のなかまで見えてないか不安になったくらいだった。



「ねえ、おじいさん、今日は工房にいらっしゃらないんだよね?」

 彼女の声は少し浮き足立っていて、ただの観光客の好奇心とは違う、何かを探しているような響きがあった。

「うん。今日は出かけてて戻ってこないと思う」と僕が答えると、美紗ちゃんは「そっか」と小さくうなずき、工房の奥の作業台や、壁にかかった古い道具を興味深そうに眺めた。


 夏の工房の窓から入る陽炎が、

 彼女の輪郭をゆらゆらと揺らしていた。


 こんな子は見たことがなかった。それなりに都会に住んでいた時も。

 こんなに、美しい女性なんて。


「あの……差し支えなければだけど。美紗ちゃんは、どこから来たの?」

 ふと尋ねると、彼女はくるりと振り返った。

 海藻のような黒髪がひらりと舞う。


「海から来たの」


 そう言って、目を細めた。


“海から”?


 確かに、まるで本当に海の底から現れた人魚が、

 ふいに陸に上がったような気もする。


 彼女の指が、棚のガラス花瓶をそっと撫でる。

 青い光がその手の甲を泳いだ。

 

 冗談なのかなんなのか、まったく読めない。

 目の前の人魚の所作ひとつひとつに、僕はもう心を奪われていた。

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