第40話 離島
翠は車を走らせ、人気のない場所に土方の車を乗り捨てると、雪を連れて徒歩で移動し、フェリー乗り場に滑り込んだ。
目指すは離島、一時的に身を隠すには良い場所だと翠は思っていた。
飛行機を使うことは最初から考えていなかった。
搭乗口での身分証提示、手荷物検査。
ナイフや拳銃を持ち込めば一瞬で終わりだ。
船ならば検問は甘い。多少怪しい荷を積んでいても、鞄の中を見られる事はそうそうないだろう。
港の空気は湿り気を帯びた潮風と、油の匂いが漂っていた。
車両甲板への案内を受け、翠はトランクを閉める。中には最低限の荷物と、冷たい鉄の重み。
心臓の鼓動を悟らせまいと、無表情を貫いたまま係員の前を通り過ぎる。
「彼女さんと旅行ですか?楽しんでくださいね!」
係員が世間話のように話しかけてくる。
翠は「ええ。」と、わずかに頷くだけで応じ、視線を逸らさずに通り過ぎた。
乗船口を抜けると、他の客たちのざわめきが耳に入る。
子供を連れた家族、仕事帰りの男たち、観光客らしき若い女の子の笑い声。
そのどれもが遠い世界の音のように感じられた。
彼にとって、この航路は逃避であり、雪との思い出を残す為でもあった。
翠は甲板に立ち、海の匂いと波の揺れを感じていた。
海風に黒髪のポニーテールが靡く。
陸の灯りは次第に遠ざかり、水平線が広がってゆく…。
雪は、遠ざかる陸の景色をじっと見つめていた。
青く澄んだ海と海鳥の鳴き声が響き、船は静かに離島へ向けて進んでいった。
しばらく船に揺られ、離島の港に到着し、翠と雪はフェリーを降りた。
港街は釣りを楽しむ人々や、漁に勤しむ漁師達の姿があった。
「長閑だね、翠さん」
雪は深呼吸するように潮風を感じながらぽつりと呟いた。
「そうだな。ずっと、お前とこうやって平和に暮らしてゆけたらいいな…」
翠は遠い未来を見据えるように、切なさを帯びた声で答える。
その横顔を見つめる雪の胸に、言葉にできない不安が押し寄せる。
まるで、いつの日かこの人は自分の側から去ってしまう…
そんな運命を予感してしまったかのように。
翠は港の近くで偽造免許証を使い、レンタカーを借りた。
近場のスーパーで買い物を済ませ、山の上にある民泊へと辿り着くと、眼下には青く澄んだ海が一面に広がっていた。
民泊が並ぶ住宅街では、ベランダで陽気にウクレレを弾く人や、音楽を流して踊る人の姿があった。
リゾート感に満ちたその光景に触れ、雪の胸に漂っていた不安も少し和らぐ。
自然と、その唇に笑みがこぼれた。
無人の民泊のキーボックスを開け、鍵を取り出す。
翠が玄関のドアを押し開けると、その先にはバリ風の露天風呂まで備えられた、まるで別荘のような空間が広がっていた。
「わぁぁ! 露天風呂がある!!
雪の声が弾み、テンションが一気に跳ね上がった。
はしゃぐ雪を横目に、優しい微笑みを浮かべながら、翠は露天風呂にお湯を張り始めた。
「雪、先にお風呂入っておいで。俺は晩飯の支度をしておくから」
促されて、雪は少し恥ずかしそうにうつむきながら口を開いた。
「……翠さんとお風呂、一緒に入りたい。ダメかな?」
「……いや、別にいいけど」
翠はそう答えながら、ほんのわずかに視線を逸らす。
翠は民泊の中にあった調理器具を引っ張り出し、手際よく野菜を刻んでいく。
トントンと包丁の音とともに、キッチンからは食欲をそそる香りが漂い始めた。
「ずっと外食か、コンビニで済ませてばかりだっただろ。今日は雪に、ちゃんと手料理を作ってあげたくてさ」
翠はキッチンに立ち、穏やかに微笑んだ。
「翠さん……ありがとう」
雪の胸には、心から愛おしい気持ちが込み上げてくる。
「さて、お湯も溜まったし……風呂、行こうか」
翠はシャツのボタンを外し、服を脱ぎ始める。
その横で、雪はまだ明るい光の下で身体を見られることに戸惑い、頬を赤らめていた。
「……電気、消してもいい? やっぱり恥ずかしいから」
「ああ、いいよ」
翠は少し意地悪な笑みを浮かべると、少しだけ声を落とした。
「本当は……もっとお前のことを、たくさん見たいけどな」
タオルで身体を隠しながら、雪と翠は風呂場へ向かった。
「翠さん、背中、流してもいい?」
「あぁ」
雪はボディソープをスポンジに染み込ませ、泡立てながら翠の背中を優しく洗い始めた。
その背中には、過去の戦いで負った傷や片翼のタトゥー、鎖骨には黒百合やレタリングなど、お洒落なタトゥーが刻まれていた。
「黒百合と蠍……綺麗だね。どんな意味があるの?」
雪は、何気なく尋ねてみる。
「黒百合は復讐、恋、呪いの意味がある。蠍は復讐や治癒、自己犠牲なんかも。
俺、10月29日生まれの蠍座なんだ。
片翼のタトゥーは不完全なんて意味もある」
翠の言葉に、雪の胸は少し痛んだ。
(この人は……親を殺され、家も、右目も失った。
親の仇を討つために身を捧げてきたんだ……
今まで、どれだけ辛い思いをして生きてきたんだろう……)
そう考えると、胸がぎゅっと締め付けられ、気づけば雪の手は止まっていた。
背中越しに、震える感触と嗚咽が伝わってくる。
「どうした? ……雪?」
振り返った翠は、困ったように笑いながら雪の髪を優しく撫でた。
ぐすっ……
「う……うん。ごめんね」
雪の涙は、ポロポロと止まることなく溢れていった。
「ありがとう。俺のこと、そんなに大切に思ってくれて。
俺も、同じくらい雪のこと大切に思ってる。
だから、もう泣くな。温かいお風呂に浸かって、一緒にリラックスしよう」
翠はアメニティに置かれていた青い入浴剤を浴槽に投げ入れた。
すると、キラキラと輝く星空のようなラメと深い青が、バスタブの中にゆっくりと広がっていく。
雪と翠は並んでバスタブに浸かり、翠は後ろから雪を抱き寄せるとぽつりと呟いた。
「幸せだな……」
露天風呂の中、満天の星空を見上げながら、雪も無邪気に笑いながら答える。
「うん……幸せだね」
時間を忘れ、二人は身を寄せ合ったままバスタブに浸かっていた。
「あちぃ…早く出ないと、のぼせちまうな」
翠は軽く笑いながら立ち上がる。
雪もタオルで恥ずかしそうに前を隠しつつ、そっと立ち上がった。
部屋から漏れる明かりが雪を照らし、手の甲や腕についたケロイド状の火傷痕が浮かび上がる。
翠はそっと雪の手を取り、手の甲にキスをすると、申し訳無さそうに謝った。
「可哀想に……
凪斗にやられた傷だな……ごめん。一生消えないかもしれないな……本当にごめん」
「雪。俺がいる。全部…全部、俺が背負う」
雪は小さく息を吐きながら、頬を涙で濡らしつつも少しずつ安心していくのを感じた。
翠はそっと雪を自分の胸に引き寄せ、後ろから包み込むように抱きしめた。
「辛かったな……ごめんな…」
翠の声は温かく、雪の耳元にそっと届く。
雪はその胸の温もりに身を委ね、震えていた肩が少しずつ落ち着いていくのを感じた。
「翠さん……もういいの。貴方がいてくれるだけで私は幸せだから。ありがとう……」
「当たり前だ。俺たちは一緒だろ」
翠は雪の髪を優しく撫で、頬をそっと寄せた。
風呂場に満ちる湯気の中、二人は言葉よりも温もりで互いの存在を感じ合った。
過去の痛みも、今の幸せも、すべてを抱きしめるように。
「さぁ、飯にしようか。今日は雪が好きなクリームシチューを作ってみたんだ」
バスローブを羽織った翠と雪は、ウッドデッキに出て星空を見上げながら、外のテーブルに料理を並べた。
翠のワイングラスには白ワインが注がれ、雪のグラスにはオレンジジュースが輝く。
「乾杯!」
二人はグラスを軽く合わせ、雪は翠の手料理を口に運んだ。
「おいしい!」リスのように頬を膨らませ、料理を頬張る彼女の可愛い仕草に、翠も自然と笑顔になっていた。
満天の夜空の下、月明かりに照らされながら笑い合う二人。
穏やかな時間が流れてゆく…
二人にとって、とても幸福なひとときだった。
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