(一)アテルイ

奈良時代に入ると大和朝廷は七一二年に出羽国を設置、七三三年には秋田村高清水岡に出羽柵でわのさくを移設して秋田城と定めた。

更に七六〇年代には奥州経営への拠点として多賀城に陸奥国府と鎮守府が置かれた。

周辺の柵には、防衛のかたわら耕作をする屯田兵も数多く送り込まれている。

彼らに制圧されて政府に帰順した蝦夷えみしを「俘囚ふしゅう」と称した。俘囚とは捕虜を意味する差別呼称である。

七七四年、陸奥・出羽両国の蝦夷が蜂起、大反乱が勃発する。蝦夷側にしてみれば、

開拓と称して征服者たちが入り込み横暴な行為を繰り返したことに抵抗しただけの

ことであった。

朝廷としては奥州に多くの兵を割くことができないため、蝦夷えみしによって蝦夷えぞを制するという政策を採用する。


当時、朝廷側に帰属した蝦夷の族長に伊治呰麻呂これはりのあざまろという男がいた。

呰麻呂は俘囚ながらも伊治城の守備隊長となり、国府の信任は殊のほか厚かった。

しかし彼はかねてから、俘囚に対する目に余る差別や虐待に反感を抱いていた。

「我が主は紀広純きのひろずみを討つ覚悟でございます。是非ともお力添えをお願い致したく」

七八〇年、呰麻呂は胆沢いさわの族長であるアクト(阿久斗)に使者を寄越した。紀広純

とは呰麻呂が仕える陸奥守兼鎮守将軍である。

「何を言う。呰麻呂は仲間を裏切り国府側に付いた男ではないか。信用などできる

わけがない」

アクトの息子、まだ若きアテルイ(阿弖流為)が使者を睨みつける。

「そうおっしゃるのも無理はございません。しかし主はこの千載一遇の機会を待ち

ながら、相手に疑われぬよう忠誠を誓っていたのでございます」

「しかし、・・・」

まだ何か言おうとするアテルイを父のアクトが手で制した。


「その機会とは・・・、何だ」

「はい。広純は新たに覚鱉城かくべつじょう造営に着手するため伊治城に駐留することが決まって

おります。その時、胆沢の衆が伊治城に攻め寄せて頂ければ、城内の兵が討って出て

警護が手薄になりましょう。その隙を突いて、我らの手勢が広純を討つ手筈でございまする」

「う~む、・・・」

アクトが腕を組んでしばし瞑目する。

「この機を逃しては、蝦夷は永遠に朝廷の思うがままにございまする。主の思い、

何卒、何卒・・・」

使者が平伏する。

呰麻呂とは旧知の仲であった。今は異なる立場となってはいるが、若い頃の誠実な

人柄が記憶に蘇る。

「呰麻呂殿に宜しくお伝え願いたい」

アクトが言葉少なに大きく首を縦に振った。

「有りがたき哉。つきましては、この件はお二人以外には漏らさぬよう願いまする。我らの中でも、ごく限られた者にしか明らかにしておりませぬ故」

「承知致した。相手に知られれば呰麻呂殿のお命が危のうなりますからな」


やがて紀広純が伊治城に入る日がやって来た。

「呰麻呂殿より使いがまいった。アテルイ、かねてより申し合わせた通りにな」

父・アクトに命じられ、アテルイは胆沢の兵を率いて伊治城を襲撃する。

城内から国府の騎馬隊が討って出てきた。

「引きましょう。呰麻呂様からは騒動を起こすだけで十分、と言われておりまする」

仲間の一人が撤退を進言した。国府の騎馬隊は精鋭揃いである。

「いや、そう申されたのは我々の身を案じてのことであろう。呰麻呂様も命を懸けて事に臨まれるとあらば、少しでも長く敵を引き付けてやらねばなるまい」

アテルイは馬を駆って敵陣の中に突入していく。胆沢の兵が慌てて後に続いた。

五騎ほど相手を切り伏せるとアテルイは馬を返した。敵の騎馬隊が追ってくる。

その時、やにわに城門が閉じられた。予期せぬことに追撃隊に乱れが生じる。

「どうやら、計画は筋書どおり運んだようだな」

伊治城内では呰麻呂が首尾よく紀広純、及び牡鹿郡大領・道嶋大楯らの首を挙げた。

行き場を無くした朝廷の騎馬隊は多賀城に向けて退却を始める。

蝦夷軍は陸奥介・大伴真綱に先導させて多賀城に乱入し、大量の武器や財宝を押収

すると城に火を放った。


「伊治呰麻呂が鎮守将軍を討った」

この報せは蝦夷中を駆け巡る。

「アテルイは一人で五騎もの騎馬武者を倒したと言うではないか」

その噂もあっという間に広がった。これまでには考えられない快挙である。

「今こそ、蝦夷の軍隊を創設する時が来た。アテルイの下に兵を送るべし」

呰麻呂は各地の部族に書状を送った。

アテルイの下に続々と兵が集まってくる。四~五千にはなるだろうか。

その中に、同じく蝦夷の族長であったモレ(盤具母禮いわくのもれ)もいた。

「其方が来てくれれば百人力じゃ」

アテルイの顔が喜びに弾けた。アテルイが猛将ならば、モレは智将として名を馳せ

ている。二人は奥まった山間の地、東和(花巻の東)を軍事基地に定めた。

大将アテルイ、参謀モレ、二人の指揮の下に強力な蝦夷軍が結成された。


朝廷は東北での反乱拡大を防ぐため征東軍を組織する。

第一次征東は延暦八年(七八九)三月、呰麻呂の反乱から八年も後のことであった。

大人数を派遣するとなれば、焼討にあった多賀城を修復しなければならない。蝦夷の抵抗を防ぎつつ何とか城が復元され、大量の馬や武器、兵糧が運び込まれた。

紀古佐美きのこさみが征東大使に任じられ、五万もの将兵を率いて多賀城を出立した。紀古佐美とは伊治城で討たれた紀広純の従弟にあたり、汚名挽回に燃えている。


これに対し蝦夷の盟主となっていたアテルイは、侵略を阻止するためモレと共に蝦夷軍を率いて出陣した。

朝廷軍は平泉の北方、日高見川(北上川)の西、衣川辺りに布陣している。

「我らは川の東岸に陣を敷く。敵は大軍である故、隘路に引き込んだところで一気にこれを叩く」

智将・モレが作戦を披露する。

西岸は田畑が多く平地であるのに対し、東岸は小高い丘やなだらかな坂が続く丘陵地である。平地では数に勝る朝廷軍が有利だが、蝦夷軍は地の利を活かしたゲリラ戦術で対抗する構えをとった。

川を挟んで両軍が睨み合う。


「この戦いに敗れれば、蝦夷が坂東にまで侵攻してくるのではないか」

遅々として進まぬ戦況に、時の帝・桓武天皇が苛立っている。

「早よう敵を征伐せぬか」

中央からの矢の催促に同年五月、朝廷軍は四千の精鋭を二手に分けて日高見川を

渡河してきた。

待ってましたとばかり、蝦夷軍は準備していた大木を上流から流す。大木は渡河中

の筏を粉砕し、更に流木となって下流の筏をも襲った。筏を失ったことで、朝廷軍

は本隊から援軍を送ることができなくなってしまう。

孤立した渡河隊は血路を開こうと交戦を挑んできた。アテルイは三百ほどの兵で

迎え撃つ。兵を削られた渡河隊ではあるが、それでも兵力は蝦夷軍に勝っている。


「引けや」

アテルイは馬や弓矢を巧みに操って敵を挑発しつつ、東岸を北に向かって退却を始めた。渡河隊はこれを追って途上の村々を焼き払いながら北上し、本隊との合流地点と定めていた巣伏村を目指す。

「ようし、今だ!」

朝廷軍を奥深く引き込んだところで、アテルイが大きく旗を振った。森の中に潜んでいた四百人ほどの蝦夷軍が討って出て、朝廷軍の後ろへと回り込む。

山と川に挟まれ、退路を断たれた朝廷軍は総崩れとなった。

朝廷軍の損害は戦闘による死者二十五人、矢疵を負った負傷者二百四十五人、溺死者千三十六人と驚異的な惨敗を喫してしまう。生還した兵の中には鎧を脱ぎ捨て、裸で川に飛び込んで何とか生き延びた者が千二百五十七人もいたと言う。

しかし蝦夷側の被害も決して微々たるものとは言えなかった。死傷者こそ朝廷軍ほどではなかったが、十四ヶ村八百戸が焼き討ちされ四千人ほどが住家を失ってしまう。


五年後の延暦十三年(七九四)六月、前の惨敗を挽回すべく、朝廷は大伴弟麻呂おおとものおとまろ

征夷大使に起用して十万という空前の将兵を動員する。東海道・東山道の諸国に命

じて百五十万本を超える矢を調達するなど、必勝を期して戦の準備を整えた。

朝廷軍は前回と同じく衣川辺りに陣を敷いた。しかし今回は大軍を以って力攻めを

行う構えである。

正面から大軍を相手にするわけにはいかない。アテルイは十か所ほど山の頂に砦を

築いて迎撃態勢を取った。朝廷軍は各砦に五千の兵で攻め上がるも、蝦夷軍は高所

から弓を射たり岩を落とすなどして寄せ付けない。

やみくもに突撃を繰り返すばかりの朝廷軍に被害が蓄積していく。たまらず弟麻呂

は多賀城に兵を引いた。


この秋、桓武天皇は都を長岡京から平安京に都を移した。

「蝦夷征討は敵に多大な打撃を与えての戦勝であった」

祝うべき遷都を汚してはならじと、これ以外の記録は残されていない。


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