04
電話の向こうで、優翔が短く息を詰まらせた。言葉に詰まった雰囲気が漂ってくる。
優ちゃん、なんて、凛は呼んだこともなかった。
『……ちょっと待って』
凛に言ったのか、電話の向こうにいる誰かに言ったのかもしれない――場所を移したのか、あの声も喧騒も、何もかもが聞こえなくなった。
『今のは俺のことじゃなくて』
「……そっか。それで、他に要件ある?」
『ああ。その……来週、会えないかな』
静かにそう切り出した優翔に、凛は心の中でうなった。
――今の声は誰。
そう聞いてしまえばよかったのに、臆病にも、凛は聞くことができなかった。
『話したいことがある』
「……いいよ」
凛はしばらく迷って、間を置いた。
「私も話したいことがある」
『わ、分かった。その……』
戸惑った声音の返事のあと、『時間、また連絡する』と言って、優翔は言葉を切った。
凛はその言葉に遅れて思う。
本当に連絡をしてくれるのだろうか。でも、これが最後なのだと思えば、もうどうでもよかった。
「……うん」
『ありがとう、凛』
「ううん。じゃあ、切るね」
『凛、本当にさっきのは違う。本当に――』
「分かった。……分かったから」
スマホを耳から離して、凛は赤い通話終了ボタンを強く押した。コンビニのビニール袋を握りすぎて、カサカサと音が鳴る。
何度も約束を破った相手を信用できるはずがないのに、どこかで、また信じたいと思っている自分がいる。
だが、もう違う。
優翔の中の凛は、忙しい予定の二の次――もしくは三の次になっているに違いなかった。
優先してほしいわけではなかった。
忙しいのなら、そう言ってくれればよかった。凛も子供ではないのだから、理解できる。
――そう思っていた感情は行き場をなくしてしまったが。
「……うわき、かなあ。まぁ、やっぱりそんなもんだよねぇ」
凛はスマホを握りしめて、夕焼けに染まった空を見上げた。空は高く、太陽と月が一緒に昇っている。
「バッカみたい。みっともないなぁ、わたし」
鼻の奥がツンとなって、目の縁から零れ落ちそうな涙を拭い去る。
何がいけなかったのだろう。
そう考え始めると、自分の心に刻まれた引け目やコンプレックスが、むくむくと溢れ出てくる。
凛は歯を食いしばって走り出した。
走って、考えたくないことから逃れるために、何も考えずにただ、走った。
さながら繋がれた鎖を引きちぎって逃げ出した獣のように走った。
息を切らせながらアパートにたどり着き、玄関を乱暴に開ける。
『――お姉ちゃん、おかえり! どうしてそんなに急いで帰ってきたの?』
いないはずの声が聞こえてきた。
明るいと思っていた廊下は暗く、玄関に立つ凛をダウンライトだけが落ちている。
凛は着替えもせずに部屋の布団に倒れた。
携帯も鞄も全部、布団の上に放り投げ、そのまま仰向けになって、築数十年以上の安家賃アパートに残った天井の染みを眺める。
いやになるほど静かだった。
心に、ぼかりと穴が空いていた。
そしてこの部屋にも、人一人分の虚空の穴がぽかりと空いている。
刻々と寂しさが胸をつかみ、凛は両手で顔を覆った。
「……なんでこんなに」
目を覆う指の隙間から、凛は簡素なテーブルに置いた写真立てを見た。
そこには凛ともう一人の少女が写っていた。その少女は向日葵のように明るい笑顔で、隣の凛の顔を見上げている。
――長廻涼。
妹がいた頃、この部屋はもっと賑やかだった。
妹が生きていたら、どんな顔で、どんな声で、どんな事を凛に言うだろう。
『お姉ちゃん、こわい顔をしてないで、笑ってた方がいいの!』
『もー、いつまでもうじうじしてちゃ駄目だよ』
もし生きていたら。
妹も凛も、もっと違う生き方をしていたはずだ。
――何でこう、うまくいかないのかな。
ふと、朝陽の言葉が耳裏に蘇った。
本当に好きだったの。そう聞かれた時、凛はすぐに答えられなかった。
だからこの結末は、仕方のないものだったのかもしれない。朝陽もそれが分かっていて、あえて言葉にしたのだ。
傍から見れば、なんて未練がましいのだろう。
この気持ちが、ずっと噛み続けたガムのように細長くいつまでも伸びきってデロデロに引き延ばされて。
それでも優翔との関係に結論を出せなかったのは、凛のほうだったのだ。
今思えば、心から優翔を好いていたのかも、凛には分からなかった。
もしかしたら優翔の存在は、「普通の人生」を凛が追い求めるための一つの手段に過ぎなかったのではないだろうか。
――そう、「普通の人生」。
それは、涼が夢見ていたものだ。
勉強も、恋も、友達も、色々な経験も――。妹は、その全てを手に入れることができなかった。
だからこそ、叶えられたはずの涼の人生を、凛はどうにかして叶えたかった。
「普通って……難しいよ、涼」
普通って、何。
そう問いかけても、写真の少女は答えてくれない。少女は写真の中の凛の顔を嬉しそうに見ている。写真の中の凛は、真っすぐカメラを見ているというのに。
気づけば、目を覆った手の間から、熱いものがこめかみを伝っていた。
「……っ、う……うう……っ」
手のひらの隙間から涙が流れていく。
優翔のことも、まして四年前に亡くした最愛の涼のことも、凛はまだ受け止めきれていなかった。
止まらない。止めたいのに、涙は流れ続けた。
凛はしゃくり上げながら、身体を丸めて小さくなった。
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