ep.2 潮騒に沈むもの
引き金を絞った瞬間、空気が張り詰めた。
銃声は、港町の霧と潮騒に吸い込まれ、誰の耳にも届かない。
スコープの先で、男──ナリカワリ──の体がぐらりと揺れ、倒れる。
血は流れない。
その代わりに、男の形をなぞっていた黒い靄がふわりと宙に舞い、次の瞬間、朝の霧に溶けた。
まるで、最初から何もなかったかのように。
廉は素早く体を引き起こし、銃を畳み、屋上を離れた。
訓練された動き。
足音を殺し、人気のない非常階段を駆け下りる。
霧に煙る路地へ出た。
潮の匂いと濡れたアスファルトの匂いが、鼻腔に広がる。
何も感じるな。
廉は、胸の奥でそう命じた。
だが、命じたところで、感情は簡単には従わない。
脳裏に浮かぶのは、ベランダで手を伸ばしていた男の姿。
わずかに歪んだ笑顔。
そして、その背後に立っていた、幼い子どものあどけない表情。
本当に、あれは異形だったのか。
本当に、あれを撃つしかなかったのか。
考えるな。
考えれば、引き金が重くなる。
廉は唇を引き結び、霧の中を走った。
濡れた路地の石畳が、靴の裏でかすかに鳴った。
しばらく走り、ようやく脚を止めたとき。
目の前に、双樹堂の看板がぼんやりと浮かび上がった。
灯りが、優しく霧を照らしていた。
ドアを押すと、からん、と小さな鈴の音。
店内にはコーヒーの香ばしい香りが満ちていた。
柔らかな灯り。静かな音楽。
それだけで、街の中に確かに存在する別世界だった。
カウンター席には、何人かの常連客たちが座っていた。
花屋の結芽と市役所勤めのさつきが、ひそひそと笑い合いながらパンケーキを分け合っている。
タクシー運転手の森部は、黙ってカウンターに背を丸めて座り、コーヒーをすすっていた。
誰も彼も、静かに、穏やかに時間を過ごしている。
廉は、彼らの会話に加わることなく、まっすぐカウンターに向かった。
店主の戸隠が、静かに目を上げる。
言葉はない。
廉も、何も言わない。
「……ブレンドを」
かすれた声で、それだけを告げた。
戸隠は黙ってうなずき、ネルドリップの道具に手を伸ばす。
豆を挽く音、湯が落ちる音。
その音が、廉の胸の奥でじわじわと広がっていく虚無を、少しだけ押し戻してくれた。
カップにコーヒーが注がれる。
ほのかに立ち上る湯気。
酸味と苦味が混ざった香り。
廉は、カップに手を伸ばす。
だが、その指先が、途中で止まった。
カップの脇に、小さな封筒が置かれていた。
今度は、封すらされていない。
中には──また、新しい依頼。
廉は、カップを手に取る前に、封筒を静かに掴んだ。
紙の感触が、思いのほか冷たく感じた。
常連たちは、そんな廉に気づきもせず、笑い声を続けている。
──この街は、今日も、何も変わらない。
廉はそっとカップを持ち上げ、コーヒーに口をつけた。
苦味が、今日だけは少し強く感じられた。
カウンターの奥では、戸隠が黙って次の準備をしていた。
この街で、誰にも知られることのない戦いが、また一つ、始まろうとしている。
──また、始まる。
(第2話・了)
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