異世界で、今日もひとつずつ強くなる ~35歳、穏やか冒険者生活~

烏羽玉

プロローグ:静かな崩れ目

平日の夜。


東京の喧騒を背に、電車は揺れる。


都心から一時間以上。郊外のベッドタウンへと向かう車内は、今日もまた、疲れた大人たちで埋め尽くされていた。


窓の外を流れるのは、無機質な光の帯。街灯、ネオンサイン、時折見えるコンビニの明かり。どれもが、どこか遠い世界の出来事のように、ぼんやりと霞んで見えた。


肩にもたれるように座る乗客たちは、皆一様に疲弊の色を浮かべている。スマホの画面に没頭する者、目を閉じて束の間の休息を貪る者、あるいは、虚空を見つめ、思考の海へと沈んでいる者。


彼らの表情は、まるで、社会という名の荒波にもまれ、消耗しきった漂流者のようだった。


――その中に、「笠原誠(かさはら まこと)」はいた。


三十五歳。大手ではないが、安定した中堅企業に勤めるサラリーマン。結婚歴はなし。趣味は読書と、休日の気まぐれな料理。


穏やかで優しいと周囲からは評されることが多いが、その反面、自己主張は控えめで、どこか物静かな印象を与える。


「……今日は、さすがに疲れたな……」


誠は、足元に置いた通勤バッグに凭れかかり、深い溜息をついた。


満員電車に揺られ、一日中パソコンとにらめっこ。クライアントとの折衝、上司からの無理難題、後輩の尻拭い……。


社会人生活とは、まさに我慢の連続だ。


まぶたの裏には、明日やるべき業務や、帰ったら山積みの洗濯物を片付けなければならないことなど、現実的な日常の雑事が、容赦なく押し寄せてくる。


(明日は、プレゼン資料の最終確認だ。部長、また細かいところ突っ込んでくるんだろうなぁ……)


誠は、心の中で小さく呟いた。


毎日、同じことの繰り返し。特に大きな不満があるわけではない。しかし、かといって、胸を高鳴らせるような、心躍るような出来事もない。


まるで、凪いだ海の上を漂う小舟のように、穏やかすぎる日々だった。


――その時。


ふと、世界から音が消えた。


ガタンゴトン、と規則正しく響いていた電車の音も、乗客たちの話し声も、すべてが嘘のように、唐突に消え去った。


車内のざわめきが、まるで遠い記憶のように、すうっと遠のいていく。


耳に残るのは、まるで鼓動だけ。


(……あれ?)


誠は、微かな違和感を覚え、目を開けた。


しかし、目に映る光景は、いつもと変わらない。


相変わらず、疲れた大人たちが、無表情にスマホを眺めている。


だが、確かに、何かがおかしい。


まるで、世界から色だけが抜け落ちたように、すべてがモノクロームに見えた。


次の瞬間、視界が強烈な光に包まれ、真っ白になった。


「――え……?」


何が起こったのか、理解できなかった。


ただ、全身が浮遊しているような、奇妙な感覚に襲われた。


まるで、魂が肉体から剥がれ落ち、異次元空間へと吸い込まれていくような、不思議な体験だった。


誰かが自分を呼ぶ声がした気がした。


それは、確かに“声”なのに、鼓膜を震わせるのではなく、脳に直接響くような、奇妙な感覚だった。


(いったい……これは……)


誠がそう思った瞬間、光は消え、彼の意識は途絶えた。



次に目を開けたとき、誠は、土の上に寝転んでいた。


柔らかい草の感触が、頬をくすぐる。


風に揺れる木々の葉擦れの音、遠くで響く鳥のさえずり。


都会の喧騒とはかけ離れた、自然の息吹が、全身を優しく包み込む。


空は信じられないほどに深く、どこまでも澄んだ青色をしていた。白い雲が、まるで絵の具を溶かしたように、ゆったりと流れている。


「……ここは……?」


状況が飲み込めず、誠はゆっくりと身を起こした。


そこは、見渡す限り緑が生い茂る森の中だった。


アスファルトで舗装された道も、無機質なコンクリートの建物も、人工物は一切見当たらない。


まるで、絵本の中に迷い込んでしまったかのような、幻想的な光景が広がっていた。


(夢、なのか……?)


誠は、困惑しながらも、周囲の様子を観察した。


木漏れ日が、まるで宝石のように地面に散らばり、風が葉を揺らす音が、心地よい子守唄のように響く。


都会では決して味わうことのできない、清々しい空気が、肺を満たした。


だが、自分がいる場所がどこなのか、皆目見当がつかない。


誠は首をひねり、自分の服装に目をやった。


いつもの見慣れたスーツではなく、上質な革でできた、動きやすそうな上着とズボン。


足元も、磨き込まれた革靴ではなく、まるで冒険者のような、頑丈なトレッキングシューズに変わっている。


「これは……いったい、どういうことだ?」


自分の声が、いつもより澄んで、よく響くように聞こえた。


まるで、森の精霊にでもなったかのように、軽やかな気分だった。


(夢にしては、あまりにもリアルすぎる……)


肌に感じる風の温度も、目に映る木々の質感も、鼻腔をくすぐる土の匂いも、すべてが現実としか思えなかった。


そこへ――再び、あの不思議な“声”が、脳内に直接響いてきた。


《転移完了を確認。魂と肉体の適合率、問題なし。》


《ようこそ、グレイス・テレム大陸へ》


《あなたの存在は、この世界の均衡を安定させる観測点として選ばれました》


「……はぁ?」


誠は、思わず間抜けな声を出してしまった。


転移? グレイス・テレム大陸? 均衡を安定させる観測点?


まるでSF映画に出てくるような、荒唐無稽な言葉の羅列に、頭の中が完全にフリーズした。


《名前:カサハラ・マコト 年齢:35 状態:安定》


《能力:導きの声(ガイダンス)・深層共鳴》


《以後、必要に応じて助言を行います。どうぞ、ご無事で》


まるでAIのような、機械的でありながらも、どこか感情のこもった、不思議な声だった。


誠は、その声に問いかけようとしたが、喉がカラカラに渇いて、言葉が出てこない。


「ちょ、ちょっと待ってくれ……え、なんだこれ。転移? 異世界? いやいや、そんな馬鹿な……」


口に出しながらも、目の前の光景は、夢ではなく、現実感を増すばかりだった。


肌を撫でる風の温度、遠くに聞こえる動物たちの鳴き声、鼻腔をくすぐる草木の匂い。


すべてが、あまりにもリアルだった。


誠は、震える手で自分の頬をつねってみた。


「……痛い」


夢ではない。これは、現実だ。


誠は、深呼吸を一つした。


「……まずは、落ち着こう。うん。混乱しても仕方がない」


学生時代に夢中になって読んだ、異世界ファンタジー小説。


そこに登場する主人公たちは、突然の異世界転移という状況に、大抵パニックを起こし、絶叫したり、泣き叫んだりしていた。


「……でも、俺はもう三十五歳だ。社会人として、様々な理不尽や変化にも耐えてきた。今、ここで取り乱しても、状況は何も変わらない。必要なのは、冷静さだ」


誠は、自分自身に言い聞かせるように、そう呟いた。


ここで取り乱しても、状況は何も変わらない。


まずは、冷静に状況を把握し、これからどうすべきかを、論理的に、合理的に、そして、現実的に考える必要がある。


「よし、とりあえず、水と……方角がわかるものがあれば……」


そう呟き、誠は、重い腰を上げ、歩き出した。


異世界――それは、冒険譚の舞台でありながら、彼にとっては「日常を再構築する、新しい世界」の始まりだった。


見知らぬ土地で、これからどう生きていくのか。


不安と期待が入り混じる中で、誠は一歩、また一歩と、森の中を歩き始めた。



 異世界――それは、冒険譚の舞台でありながら、彼にとっては「日常を再構築する新しい世界」の始まりだった。

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