第10話 うーちゃん

「これは父親から聞いた話だったかな?」


 昔から内向的で気が弱かったE子にとって、生まれた時からずっと一緒にいるウサギのぬいぐるみのうーちゃんは、唯一の友達と呼べるものだった。茶色いふわふわの毛並みが素敵なぬいぐるみで、よく首のリボンを付け替えたりしておしゃれをさせる。いつも枕の横や勉強机の上に座ってE子を見ていて、たまに学校であった色々なことを話して聞かせる時もある。

 小さい時のE子は、七夕やクリスマスに何度かこう願った。うーちゃんがお喋りできるようになってほしい。うーちゃんとお友達になりたい。大きくなってからはそんな望みを持つこともなくなったが、まさかこんなことになるとは。

「Eお嬢さん! やっと動けるようになりました!」

 机の上で拳を握りしめているうーちゃん。ボタンの目がきらきら光っていて、とても可愛い。子供の頃は何度も夢に見た光景だが、ちょっと、いやかなり理想と違う。

「これでようやくEお嬢さんのお友達が務まるってもんです。いやあ、ありがてえありがてえ」

 声がめちゃくちゃ渋いし、話し方がチンピラ。

「ああ、すんません。お嬢さんが生まれる前、Y樹さんがこういう映画にハマってたんで。ぬい格形成期に触れたもんはね、なかなか抜けませんわ」

 お父さんのことをさん付けで呼んでる。

「まあとにかく、手前を友達だと思って、これからも仲良くしてくださいや」

 一人称、手前。

 うーちゃんが動いて喋ることを喜ぶより前に、あまりにも引っ掛かることが多すぎる。黙ったままのE子を、声も出せないほど驚いていると勘違いしたらしいうーちゃんは、柔らかい手でE子の指を握った。本当に、本当に見た目は可愛いのに。


 それからうーちゃんは、本人(本ぬい?)が言ったとおり、E子の友達として振る舞った。学校の話を聞いてうんうん頷いたり、一緒に漫画を読んだり、隣で眠ったり、これまでのうーちゃんと同じことをしてくれてはいたのだが、何だかとってもやりづらい。

「お嬢さん、そろそろ勉強の時間ですよ。この前のテストだかなんだかでH香さんに叱られたって泣いてらしたじゃないですか」

 前までは黙ってそこにいてくれたうーちゃんが、おじさんの声で結構やかましく喋るからだ。可愛いうさぎのぬいぐるみであることに間違いはないのだが、どうにも微妙な気持ちになる。なのでここ最近は一緒に寝るのを遠慮してもらっていた。それと、着替えの時はうーちゃんをクローゼットの中に入れている。ぬいぐるみは見た目によらないんだなあ、と少しだけ残念に思ってしまったが、それでも、決して嬉しくないわけではなかった。

「うーちゃんは、どうして動くようになったの?」

「お、気になりますか。実はね、ぬいぐるみには一生で3回だけ、動けるようになる機会があるんですわ」

 不思議な力とかじゃなくて、時期的な問題だったんだ。E子は口を挟みそうになったが黙っていた。今のうーちゃんはかなり話が長いので、新しい疑問を投げかけるといつまでも喋りかけてくる。

「1つは、持ち主と初めて会ったとき。そんでもう1つが、持ち主が人生で一番幸せだと思ったとき」

「じゃあ、私はもううーちゃんと話したことがあったんだね」

「そうです。そん時ゃもちろん、Y樹さんとH香さんの見えないところで、うまいことご挨拶させていただきました」

 両親に見つからないようにしてこっそり動くぬいぐるみを想像して、E子は微笑ましい気持ちになった。じゃあ、2回目の今はどんなときなのだろう。うーちゃんに直接尋ねてみても、可愛い頭を曖昧に振るだけで教えてくれない。

「その時が来たらわかります」


 最近のE子には、おじさんだったうーちゃんの他にもう一つ悩みがある。これはうーちゃんが喋り出すより前からのことだが、どうにも夢見が悪いのだ。窓の隙間や天井の暗がりから靄のようなものがぞろぞろと集まってきて、E子のベッドの横に「立って」彼女を眺める夢。靄の集積したそれらは一様に人型をしていた。しばらくするとそのうちの何体かが動き出して、E子の上に覆い被さったり、上下に伸び縮みしたり、服の中に入ってきたり、とにかく心の底から不快な気持ちになる。振り払おうにも体が動かず、朝までE子はそれらに好き勝手されている。

 その晩も、クローゼットの中に作ったベッドにうーちゃんを寝かしつけたあと、何だか嫌な予感がした。気のせいだと言い聞かせて寝ると、やはりあの夢だ。気持ちの悪いものがE子の真横に集まってきて、いつもの嫌なことが始まる。そう思って体を固めたとき、クローゼットからすごい音がした。

「子供に何しとんのじゃ、このボケカスッ!!」

 柔らかい綿の足が扉を蹴り開け、目に留まらぬ素早さで靄に掴み掛かる。髪のような部分を引っ張って部屋中振り回し、床や天井に叩きつけ、人であればおそらく逆の方向に関節らしき箇所を曲げたり、急所を両手で殴り付けたり、顔に膝蹴りを入れたり、窓を開け放ってそこから投げ捨てたり、ドアに挟んだり椅子で殴ったり、ふわふわの腕で首を絞めたり、うーちゃんはありとあらゆる壮絶な暴力を靄に向けて振るっている。あまりの迫力にE子は絶句した。

「フランス製のぬいぐるみ舐めんじゃねえぞ、安っぽいガラクタ風情がよ」

 最後にうーちゃんがそう吐き捨てると、靄は散り散りになって消えた。


「すんません、Eお嬢さん。ぬいぐるみが動く3つめの機会は、持ち主が危険な目に遭うときです。怖がらせちまうと思って、今まで言えませんで」

 一仕事を終えたうーちゃんは、流れていない額の汗を拭った後、E子に向き直って頭を下げた。そのふわふわな姿を堪らず抱きしめると、やっぱり可愛くない声でうーちゃんがうめく。

 本当はとても怖かった。あの夢を見る頻度がだんだん増えてきて、朝起きたら服が汚れていることもあって、体に真っ黒い痣ができていて。このままではいつか取り返しのつかないことになるかもしれないと、心のどこかでわかっていた。

「うーちゃん、ありがとう……!」

 E子はうーちゃんを抱きしめてたくさん泣いた。声がおじさんでも、ちょっと話が長くても、口うるさくても、やっぱりうーちゃんは一番の友達だ。


 気がつくと朝になっていた。夢の内容はぼんやりとしか覚えていなかったが、思い出してはいけないシーンがいくつかあった気がする。寝る前にクローゼットに入れたはずのうーちゃんは枕元に大人しく座っていて、もう動くことも喋ることもなかった。

 次にお話しできるのは、E子がとても幸せになった時だ。


◻︎◻︎◻︎


「って話。うちにもウサギのぬいぐるみがあるから、なんかシンパシー」

「喋るのか?」

 西川夢乃が話し終わるや否や、東山新が彼女に詰め寄っていったので、南野徹は彼を羽交締めにするべきかどうか悩んだ。

 東山は自分の興味のあることになると途端に配慮を無くす節があるので危険だ。これまでオカルト部の活動で何度か人に話を聞きに行ったことがあるが、大体半分くらいは東山がその人を怒らせて解散になっていたような気がする。

「喋らんわ。やめて、期待するの」

「君の知らないところで動き回っている可能性は? 絶対に動いていないことを確かめたことはあるのか?」

「あるわけないじゃん」

「では、」

「解散!」

 西川はその点で彼の扱いが上手い。彼女の強引さは東山の執着を上回る。自分や北原くるみが相手ではこうはならない。荷物を掴んであっという間に教室から走り出て行った西川を、東山が俊敏に、そして北原がもそもそと追いかけていく。

 百物語を始めてから10夜目にもなると、段々夜の学校にも慣れてくるものだ。初めの頃より幾分気軽に廊下を歩いていると、何か違和感があった。南野は足を止めて周囲を振り返る。当然ながら何もない。暗いガラスに自分の姿がぼんやりと写っているだけだった。

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