第16話
Side:明鏡院 静流
後方の通路から人が一人離れていくのが分かった。
「視界」は、その人物の魔力の気配が、徐々に遠ざかっていく様を捉えていた。おそらく、先ほど一瞬感知した、14層にいたソロの男性だろう。
こういう状況で、見ず知らずの私たちを助ける義務など、誰にもない。
まして、これほど強力な魔物相手では、プロの探索者ですら単独で立ち向かうのは無謀だ。逃げるという選択も、致し方ないことだと頭では理解していた。
それでも、少しだけ残念な気持ちになったのは否めない。もし、彼が加勢してくれたら状況は変わったかもしれない、という淡い期待があったのだ。
そんな感傷に浸る余裕はない。ケルベロスの右の首が、凪咲さんへと素早く伸びる。「危ない!」声を上げるより早く、私は一歩踏み出し、凪咲さんを庇うように刀を構える。奴の牙が刀身にぶつかり、激しい火花が散る。「視界」には、牙に魔力が集中し、刀の強度を上回る勢いで圧力をかけてきているのが見える。耐える。刃が軋む感覚。
梓さんの槍が側面から、茜さんの小薙刀が下方から、それぞれケルベロスの胴を狙う。だが、奴は容易く攻撃を受け流し、素早い前足の動きで私たちを牽制する。一進一退。いや、正確には、ジリジリとこちらが追い詰められている。
(このままでは…私が囮になって、三人だけでも逃がすか…?)
一瞬、そんな考えが頭をよぎる。だが、すぐに首を振る。きっと三人とも了承しないだろう。明鏡院流の門下生として、仲間を見捨てて逃げるという選択肢は私たちの中にはないことを、お互いが一番よく分かっている。
その時だった。
遠く、通路の奥から、異様な音が聞こえてきた。
ゴオオオオオ…!まるで、ダムが決壊したかのような、あるいは巨大な滝が流れ落ちてくるかのような、腹の底に響く大音響だ。
なんだ? 「視界」を広げ、音の発生源を探る。洞窟の通路を埋め尽くす、何かの塊がこちらへ向かってきているのが分かった。
これは…!
その魔力の質は、弱い魔物のものだ。一つ一つは取るに足らない。しかし、その量が、あまりにも異常だった。数千、いや、数万匹か?
「っ!皆さん!壁へ!」
考えるより早く、私は叫んでいた。
濁流のように迫ってくる魔力の奔流。その正体はおびただしい数のスライムだった。ダンジョンの通路三分の二は埋め尽くさんばかりのゼリー状の体。通常はほぼ無害なスライムが、文字通り、洪水となって押し寄せてくる。
ケルベロスも、この異常事態に気づいたようだ。しかし、警戒はすれども何が起きているかは把握できていないようだ。
私はケルベロスの動きにも注意しながら、天井近くの岩の出っ張りを掴んで壁に張り付いた。梓さん、凪咲さん、茜さんも、素早くそれぞれの判断で壁の段差や岩の出っ張りに手足をかけ、体を固定する。
ゴオオオオアアアアッ!
スライムの濁流が、凄まじい勢いで私たちを通り過ぎていく。
ケルベロスはその巨体ゆえに壁を上って退避することができないようで、全力と思われる魔力を纏いスライムを迎え撃つ。
だが、1分と持たなかった。
最初の数秒はスライムはぶつかった衝撃で黒い霧に変わっていたが、物量に押し負けて魔力を削り切られたようで、あっという間にスライムの濁流に飲み込まれてしまった。
圧倒的な質量の暴力。ケルベロスは成す術もなくスライムの波に押し流され、洞窟の壁や床に何度も何度も叩きつけられた。そして、それが終わるまでに数分とかからなかった。
グアアアアアアッ!断末魔のような咆哮が、濁流の音に混ざり響く。
スライムの濁流が通り過ぎた後、そこにあったはずのケルベロスの魔力は、完全に消滅していた。奴の体は、抵抗虚しく、黒い霧となって消え去ったのだ。
スライムの濁流は勢いを保ったまま通路の奥へと流れ去っていった。後に残されたのは、静寂と、そして床に転がる無数のスライムの魔石。その中に、ひときわ大きい魔石が一つだけ。ケルベロスの魔石だ。
呆然としながら壁から降りる。茜さん、梓さん、凪咲さんも、無事だったようだ。皆、驚きと安堵がないまぜになった表情をしている。
いったい、何が起きたのだ? あのスライムの異常発生は?
あのソロの男性が離れていった直後に起こった、この異常事態。まさかとは思うが、何か関係があるのだろうか…?
新たな謎と得体の知れない不気味さが、静寂を取り戻した洞窟の空間に満ちていた。
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