第3話 名前のない連絡帳

 記録番号:R-0332-β-1

 観察対象:学級ロジカ=アクティ 席番23/備品保管棚

 記録者:僕(主観者刻印済)


 事件のあとも、教室は何事もなかったかのように動いていた。

 模範解答の詠唱は続き、教師は正答率の数値を読み上げ、生徒たちは“正しく”挙手をする。


 誰も、あの空席に触れなかった。

 まるで、最初から誰も座っていなかったかのように。


 けれど、僕の目にははっきりと映っていた。

 席の上──教卓側からは死角になる角度に、小さなノートが一冊、ぽつんと置かれていた。


 ページの角は擦れて丸まり、表紙の端には古びたセロハンテープの跡がある。

 うすく焼けたような紙の色合いが、その存在に“時間”を感じさせた。


 僕は手を上げた。


「先生、このノート……」


 教師は手元の端末から視線を外さず、面倒くさそうに言った。


「ああ、それね。処分前の備品。触らないように」


「でも、前に……いや、なんでもないです」


 消された生徒のことを言いかけて、飲み込んだ。

 教師のまなざしには、僕が何を言いかけたのかすら、届いていない。


 休み時間、教室が無人になるのを待って、僕はそっと席に近づいた。


 ノートには名前がなかった。


 それどころか、何のラベルもなければ、番号も印字されていない。

 教育省の備品には必ず管理コードが刻印されているはずなのに──このノートには、それすらない。


 僕は、何かを確認するようにページをめくった。


 そこにあったのは、誰に向けたとも知れない、“書きなぐりのような記録”だった。


 今日の詠唱、声が震えた。

 でも誰も気づかなかった。よかったのか、わからない。


 先生って、いつも板書しか見てない。

 たまにはこっち見てほしい。……いや、やっぱ見ないで。


 ここにいて、いない感じ。

 書いても、誰も読まない。

 でも、それでも書くしかない。


 僕はページをめくる手を止めた。


 それは“記録”ではなかった。

“感情”だった。


 記録者である僕にとって、それは扱ってはいけないもののはずだった。

 でも──なぜか、視線を外せなかった。



 ノートの中には、ルールも構成もなかった。


 文体も揃っていない。

 日付も書かれていない。

「連絡帳」と呼ぶには、あまりにも無秩序だった。


 でも、そこには確かに、“誰か”がいた。


 僕が間違えたとき、誰かが笑った。

 でもあれ、僕じゃなくて“ズレた音”に笑ったんだと思う。


 合ってる答えを出すと、安心した顔をされる。

 それが逆にこわい。僕が正しいって、どうして分かるの?


 間違えてもいいって、誰か言ってよ。


 ページをめくるたびに、胸の奥の、黒くて湿った場所を触られるような感覚がした。


 教師でもなく、記録者でもなく、ただの“僕”として読んでしまっていた。


 この言葉のひとつひとつが、

 まるで、自分に向けられているようで。


 ノートの最後に、走り書きのように書かれていたひとことがあった。


 先生って、どこ見てるの?


 視線を上げる。

 今も教師は、教卓の端末だけを見ていた。


 板書もしていない。生徒の顔も見ていない。

 ただ、正答率と発話タイミングだけが表示されているグラフを眺めていた。


「……それが、“今”の教育、か」


 言葉にならないものが、喉の奥に詰まった。


 僕はそっとノートを閉じた。


 表紙に触れた指先が、わずかに熱を帯びていた。



 その日の記録用紙は、いつもより余白が多かった。


 僕は、名前が消えた席の番号の横に、小さく記した。


《備品:連絡帳(無記名)/内容記録済》


 それだけ。

 あとは何も書かなかった。

 ──いや、書けなかった。


 このノートに綴られていたのは、制度に関係のない“声”だった。


 正答率でも、適合値でも測れない。

 けれど、たしかに、そこに“誰か”がいた証だった。


 放課後。

 僕はその連絡帳をそっと鞄にしまった。


 記録物ではない。

 教育省の端末にも記録されない。

 でも、僕は……それを、持ち帰りたかった。


 そのときだった。


 ポケットの中で、熱がふわりと動いた。


「……それ、読んだら戻れなくなるかもよ」


 声がした。


 はじめて聞いた、マッチくんの声だった。


 小さくて、乾いた、でもどこかあたたかい声。


「……いや、もう遅いか」


 ポケットから出さなくても分かる。

 マッチくんは、僕の顔を見ていた気がした。


 僕は何も言わなかった。


 言葉にしたら、いろんなものが崩れてしまいそうだったから。


 帰宅後、僕はあの連絡帳の表紙を開いた。

 名前がない、その場所に──そっと、ペンを走らせた。


《記録者:僕》


 ただそれだけ。


 記録じゃない。

 証明でもない。

 でも僕は、そこに名前を書いた。


 誰も呼ばなかったそのノートに、

 誰も残さなかったその声に、

 たしかに“僕が見た”という証を残すように。


 ページの端が、かすかに焦げた。


 小さな煙が、夜の空気に消えていった。



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この記録の裏側について、

少しだけ“僕自身のこと”として語ったものがあります。


noteの「燃えかすマッチ」で、検索してみてください。


書き手の火が、どうやって灯ったのか──

もし気になったら、そちらものぞいてもらえたら嬉しいです。

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