曽我物語異譚
浅井二式
第1話 静謐なる引き金
風が、遠く伊豆の山々から吹き下ろしてくる。木々の葉を揺らし、杉立つ参道を抜け、苔むした石段にさざ波のような音を立てていった。
走湯権現。海と山の狭間、伊豆山の山腹にある霊場。源頼朝はその奥、ひっそりとした庵に身を潜めていた。
庵の戸の内側、蝋燭の火が小さく揺れる。柱に背を預け、膝に布をかけたまま、頼朝はじっと己の両手を見つめていた。その目は、何かを映しているようで、何も見ていない。
(千鶴丸……)
小さな白絹の小袖に袖を通し、稚い足取りで駆け寄ってきたあの子。笑えば目じりにえくぼができ、声は高く澄んで、頼朝の心を掬うようだった。
千鶴丸。
千年を生きる鶴のように、長く安らかに生きてほしいと願って名づけた、その子が、いまはもうこの世にいない。
――殺された。
伊東祐親の命によって。
「平家の目を誤魔化さねば、一門が危うい」
それが祐親の言だったと、後に耳にした。
京都からの帰国後、祐親は平家の威を前にして動揺していた。
「娘を源氏の流人に嫁がせたなどと知られたら、我が家は潰される」
そう思ったのだろう。
頼朝を殺し、その血を引く孫までも斬って捨てれば、すべて無かったことにできると。
だが、頼朝は逃れた。
祐親の次男、祐清が密かに告げてくれたのだ。
「殿、今宵にも命が狙われます。どうかお逃げを……」
言葉を終える前に、頼朝は身の回りの物を僅かにまとめ、夜の闇に紛れて伊豆山へと向かった。
走湯権現の庵に入ったのは、夜半を過ぎた頃だった。
額の汗を拭い、息を整えていた頼朝に、僧の一人が湯を差し出した。
その湯を口に含んだとき、突如、胸の奥が締めつけられた。
千鶴丸のことを、思い出したのだ。
あの子は、まだ三つだった。
何も知らず、何も疑わず、朝が来るのを待っていただろう。
だが――
翌朝、祐清が伝えてきた。
「……お子は、もう……」
その先の言葉は、聞きたくなかった。
だが、聞かねばならぬ。頼朝はそう思い、黙って頷いた。
千鶴の骸は、海沿いの松林に打ち捨てられていたという。
誰の手によってか、どのように殺されたかは定かではない。
だが、祐親の家人が動いたことは確かだった。
その命があったことも、確かだった。
頼朝は、千鶴丸の亡骸を見ていない。
だが、だからこそ何度も想像した。
――泣いたのだろうか。
――助けを呼んだだろうか。
――誰かの腕の中で、眠るように息を引き取ったのだろうか。
「……すまぬ」
その言葉が口をついて出たのは、誰に対してだったのか。
息子に対してか。嫁に対してか。あるいは、自らにか。
蝋燭の灯がゆらりと揺れ、影が壁を這った。
それはあたかも、頼朝自身の過去が蠢くようだった。
(この地で、私は何を成すべきか)
源氏の嫡流として流され、伊豆の地で十余年。
育ち、愛し、家族を得たこの地において、己の血が、己の子が斬られた。
それが、ただの政治的都合のために――
風が再び、参道を渡っていく。
その音の中に、遠く潮騒が混じっていた。
(ならば私は、この血の借りを……)
頼朝の中に、何かが静かに立ち上がった。
それは、怒りでも、悲しみでもなかった。
もっと冷たく、鋭く、地の奥底から湧き上がるもの。
怨念を超えた、定めのような何か。
彼はまだ知らなかった。
この日を境に、自らの道が大きく動き出すことを。
源氏の再興、打倒平家――その言葉が現実味を帯びる日が、刻一刻と近づいていることを。
ただ、ひとつだけ確かだったのは、千鶴丸の死が、頼朝に何かを刻みつけたということだ。
――やがてこの子の名をも、遠くの世までも語られるようになる。
それがこの時の頼朝には、まだ夢想にすら過ぎなかった。
―――
山は、あまりにも静かだった。
秋霧に包まれた奥野の狩場。その深い谷あいは、音さえも押し黙り、ただ微かに木の葉が濡れた音だけが、時折、獣の息づかいのように漂う。
河津祐親の一行は、まだ空に朝靄が残るうちに山へ入った。老将の威をそのままに保つ祐親と、快活ながら落ち着きを得始めた嫡男・祐泰。ふたりは今日、地元の若き郎党数名を引き連れ、山狩りに挑む。これは単なる遊興ではない。地を治める者として、土地を歩き、風を読み、民草の暮らしを身に刻むという、祐親なりの矜持である。
「……ここの風は変わったな」
歩きながら、祐親がぽつりと呟いた。年老いた目が、霧の奥を睨むように細められる。
「何かお気づきで?」
すぐ背に控える祐泰が問う。彼は父に似て慎重な男だった。だが、その双眸は母譲りか、どこか柔らかく、常に何かを慈しむように光っていた。
「……鳥が少ない。獣はまだしも、声がせぬ」
祐親はそう言って立ち止まり、腰の太刀に手を添えた。
「時節ゆえでは?」
「そうであればよいがな……祐泰よ。そちはどうだ、この山を治める者の目には、何が見える?」
祐泰は一瞬だけ黙し、霧の奥を見やった。
「獣の道が……妙に逸れております。尾根に近い斜面を避けております」
その言葉に、祐親はわずかに目を見張った。
「……よい目を持った」
それ以上、言葉はなかった。父はその背に軽く手を置き、すぐに歩を進める。
やがて一行は谷を下りつつ、三手に分かれて獲物を囲む構えを取った。祐親は上手の高台へ、祐泰は杉林を潜って中腹へ。郎党たちは間を縫い、距離を保って進む。
霧はますます濃くなっていた。音が消える。
木の葉一枚が落ちても、それがどこへ着いたかさえ、分からぬほどに。
――その時だった。
狩場の東尾根、岩を背にした崖の上。人の気配などあるはずもない場所に、黒装束の者たちが身を潜めていた。全身を黒布で覆い、矢を番え、静かに時を待っている。まるで、命じられた一手を遂行するための“道具”のように。
「見えました……狩装束、白」
「祐親か?」
「……若い。祐泰殿と見受けます」
小さな囁きが、霧の中に沈む。
やがて、その場にいたひとりの男が、手を挙げた。顔は布で隠されているが、その背筋には、剣よりも冷たい意志が宿っていた。
工藤祐経――かつて伊東祐親の婿でありながら、義父に裏切られ、妻を奪われ、所領を奪われた男。今は源頼朝の密命を帯び、この伊豆の地に戻ってきていた。
「……撃て」
それは命令であったと同時に、私怨の刃だった。
音はなかった。
ただ、空気が震えた。霧を切り裂くように放たれた矢は、静かに――正確に――杉林を抜けていった。
そして、それは標的を外した。
あるいは風のせいか、あるいは――。
「……あっ」
鹿の白い尾が、木の間をすり抜けたのを見て、祐泰はわずかに身を起こした。その瞬間だった。
矢が、背に突き刺さった。
言葉もなく、祐泰は膝をついた。痛みも感じぬほどに、あまりにも速く、あまりにも深く。それでも彼は地を掴み、何とか身を支えようとした。
「父上……」
その声は、祐親の耳に届いた。高台から駆け降りた祐親は、霧の中で地に伏した息子を見つけた。彼の顔色が蒼く、唇が血に濡れていた。
「誰か! 誰か来い! 祐泰が……!」
だが、祐親は心の底で悟っていた。
手の中で揺れる息子の体から、すでに命の熱が抜けつつあることを。あの笑顔も、あの声も、もう戻らぬことを。
それでも、父は叫び続けた。郎党たちが駆け寄り、慌ただしく矢を抜き、祐泰の体を運び始めた。祐親は矢の羽根を見た。
その作り、その色――見覚えがあった。工藤家の、それも祐経が使うものだ。
「……そうか。そういうことか……」
祐親は静かに目を閉じた。かつて見捨てた婿。頼朝に付いた男。今また、この伊豆に牙をむいたか。だが、なぜ。なぜ“俺”ではなく、祐泰なのだ。
やがて夜が来た。伊東荘の座敷に、静かに祐泰の亡骸が運ばれる。灯が落とされ、女たちの泣き声だけが続いていた。祐泰の妻は幼い息子たち――五歳の十郎と、三歳の五郎を抱きしめていた。子らは父の死を知らず、ただ母の膝にしがみついて泣いていた。
その瞳に映る灯火は、いつか剣となり、宿命となる。やがてこの矢は、「誤射」では済まされぬ血の因縁となり、少年たちの胸に炎を灯す。
―――
崖の上から山を下りる途中、祐経は矢筒を背に隠しながら、部下に問われていた。
「……的を誤ったかもしれませぬ」
「そう見せかけることが、肝要だ」
その声に迷いはなかった。
「祐親を討てば、ただの私怨。だが、息子を討たれた父は、怒りに狂う。血の報復は、必ず伊東の家中に広がる」
男たちは黙した。もう彼らは、討手というより策士の駒に過ぎないと、よく分かっていた。
「……これで始まる」
祐経は霧の中に姿を消した。
始まりであった。やがて来る、あの壮烈なる仇討ち――曽我兄弟の本懐――その火は、この狩場の霧の中で、確かに灯ったのだった。
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