第11話「本番、その瞬間」

開演五分前。


体育館の客席は、すでに満席に近かった。


保護者、先生、地域住民、下級生たち……そして、その中央やや後方には、無表情で腕を組むひとりの男子の姿もあった。


——藤堂玲央。


芸能界で活躍する若手実力派俳優。彼がどうしてここにいるのかは、誰も知らない。


けれど、彼の視線はただひとつ、幕の向こうに注がれていた。


「大丈夫。あなたは、もう“演じられる”」


舞台袖。ジュリエット役の制服衣装に身を包んだほのかの手を、結月がそっと握る。


「緊張してるの、バレてる?」


「うん、バレバレ」


「結月もでしょ?」


「……うん。今だけは、ね」


ふたりは見つめ合って、ふっと笑い合った。


(今日、この舞台で、何かが変わる)


結月の胸は、静かに高鳴っていた。


開演ベルが鳴り、幕が上がる。


最初のシーンは、ジュリエット=ほのかの登場から。


「“私の心が、敵を好きになってしまったとしたら——それは、罪ですか?”」


張り詰めた体育館に、澄んだ声が響いた。


(……声、よく出てる)


結月は舞台袖からその姿を見守る。


感情の起伏、視線の使い方、間の取り方——不器用ながら、たしかな成長がそこにはあった。


(ううん、もう“普通”じゃない)


観客の反応もそれを証明していた。


誰ひとりおしゃべりする者はいない。ただ舞台を“見る”空気が、会場全体を包み込んでいた。


そして——運命のシーン。


「なぜ……あなたは、ロミオなの……」


ジュリエットがつぶやいたその瞬間。


舞台の右手奥、ロミオが静かに登場する。


——結月の姿が、ライトの中心に入った。


ざわ……っ。


観客の空気が、一瞬で変わった。


演技を始めてすらいない。


ただ歩いただけ、立っただけ。


それなのに、空気が“舞台”になった。


「……」


後方の席で、誰かが小さく息を飲む。


「……朝比奈結月、じゃない?」


その声はすぐに、隣の人に「え、まさか〜!」と打ち消された。


けれど、その“何かを知っている気がする違和感”は、確かに一部の人間に届いていた。


「なぜ、お前を……愛してしまったんだ……!」


結月の台詞に、ジュリエット=ほのかが答える。


言葉が、絡まり合う。


その一つ一つが、真っ直ぐで、濁りなく、観客の胸を刺した。


そして、物語は終盤へ。


悲劇的な展開のなかで、結月が本来アドリブを入れないはずの箇所で、ふいに立ち止まる。


「運命は、こんなにも残酷で……」


その声が、震えた。


「それでも、君に……出会えて、よかった」


静かに涙を流しながら、ロミオはジュリエットの手をとる。


——その一滴の涙に、観客の誰もが、心を持っていかれた。


嗚咽をこらえるような気配が、あちこちから聞こえた。


体育館は、まるでプロの舞台だった。


幕が下りると、無音の数秒——そして、割れんばかりの拍手。


カーテンコール。キャストが順番に登場し、最後にロミオ役の結月が舞台中央に立つ。


ウィッグ、メイク、影でぼやけた顔。


それでも、その所作には“どこか見覚えがある”と思わせる品があった。


「ありがとう……」


一礼だけの挨拶が、また一段と拍手を呼ぶ。


舞台袖。全員が安堵と達成感で包まれる中。


結月が控え室に向かおうとしたとき、肩を叩かれた。


「……あなた、いったい何者なの?」


振り返れば、そこには——演出不在の穴を見事に埋め、なお誰より演出意図を理解していた“謎の代役”。


桐原るながいた。


彼女の目は、笑っていなかった。


「まるで、“見せるための演技”じゃなくて、“誰かの心に届かせる演技”だった」


「……」


「そういうのって、普通の高校生ができるものじゃないと思うの。ねぇ、朝野さん?」


一瞬、時が止まる。


結月は、ふっと息を吐いて、微笑んだ。


「……ありがとう。るなちゃんが、そう言ってくれたことが、今日いちばん嬉しい」


問いに答える代わりに、演技で返すような——その余白のある笑み。


るなはそれ以上は何も言わず、微笑みを返した。


(でも、私は覚えておくよ。その“名前”が思い出される日を)


その日の夕方。


#音桜高校演劇部

#文化祭公演ロミジュリ

#異様な完成度

#主演だれ?


というタグが、徐々にSNSで拡散されはじめていた。


動画の切り抜き、客席からの盗撮写真。


中には、結月の横顔を明るさ調整で加工した投稿も——


「このロミオ、朝比奈結月じゃない???」


リプ欄では「まさか〜」「でも言われてみれば…」「本物みたい」「動きがガチ」と、少しずつ、真実がにじみ出し始めていた。


その夜。結月のノート。


『舞台に立った。ロミオを演じた。私の“本当”を、たった一度だけ、誰かに届けられた気がする。けど……そろそろ、“この名前”では、いられなくなるかもしれない』


ページの片隅には、ジュリエットの手を握るロミオのイラスト。


その下には、小さな文字でこう綴られていた。


「またひとつ、夢を生きた」


しかし、夢の終わりとともに、現実がすぐそこまで迫っていた——

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