第2話:正しさのコード
屋上は、少し肌寒かった。
季節の変わり目の風が制服の袖をはためかせ、人工芝の上をすべるように抜けていく。空は晴れていたが、どこか白く濁っていて、春の青さがまだ本気を出しきれずにいるようだった。
「……で、本気なのか?それ」
市川翔太は、空を見上げるでもなく、手元の端末に視線を落としたまま言った。
ハルカは何も答えず、風に髪を撫でられながら立っていた。端末の画面には、真っ白なコードエディタ。そこに彼女の指が、ゆっくりと文字を打ち込んでいく。
「SNS投稿の感情解析……投稿者の心理状態を数値化して、異常値を検出して、可能なら自動で警告を出す。Synapse、って名前で……」
「まるで脳みその構造みたいだな。Synapse」
翔太は、にやりと笑った。だけど、その目は真剣だった。
「そんなもん作って、効果あんのか?今まで何十個もあったろ、誹謗中傷検出ツールとか。どれもダメだったじゃん」
「……そうだね。でも、あれらは投稿内容だけを見てた。文脈も、背景も、投稿者の履歴も、心の動きも。全部無視して“禁止ワード”だけで判断してた」
「それが……お前のコードなら、違うと?」
ハルカは静かにうなずいた。
「間違ってるかもしれない。でも、間違えたくないって思ってる」
翔太は何かを言いかけて、やめた。小さく笑って、端末を閉じた。
「……じゃあ、試してみよう。お前のその“正しさ”、コードにしてみせてよ」
彼の言葉は挑発めいていたけれど、そこにはいつもの軽口とは違う、温度があった。ハルカはわずかに目を伏せた。翔太は、知っている。あの時のことを。
「小六の時さ、あの子のこと。覚えてる?」
翔太は、わざと視線を外して言った。
「ハルカのスクショで、あいつ学校来なくなってさ。俺、あの子と塾一緒だったから、いろいろ聞いてたんだ」
ハルカの呼吸が一瞬止まった。
「あの子、ハルカのこと……恨んでなかったよ。“悪気があったわけじゃない”って。でも、怖くなったって。世界中が笑ってる気がしたって」
ハルカは拳をぎゅっと握った。あの時、自分が笑っていた画面の向こうに、泣いていた誰かがいた。その事実だけが、胸の奥に鋭く残っている。
「だから……だから今度は、誰かを守れる側になりたい。あの時、黙ってた私じゃなくて」
翔太は少しだけ目を細めて、それからふっと肩をすくめた。
「……いいじゃん。じゃあ、俺もやるわ。見たいんだよな、ハルカが“正しさ”で何を守るのかってやつ」
「……ありがと」
「でもさ」
翔太は歩き出しながら、振り向かずに言った。
「正しさってさ、状況で変わるんだぜ。誰かを守るそのコードが、別の誰かを殺すこともある。俺はそっちのリスクを考えとく。……バランス取れたチームってやつ?」
ハルカは思わず吹き出しそうになって、こらえた。
「……翔太って、ほんとに変わんないね」
「変わってねーよ。お前が勝手に熱くなってるだけ」
そのやりとりが、どこか懐かしくて、どこかくすぐったかった。
二人の間に流れる風が、少しだけ暖かくなった気がした。画面の向こうの声に応えるための“最初の一行”が、今ここから始まろうとしていた。
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