第3話 蔵前攻略と融資面談

午後三時を回った蔵前の空気には、昼を焼いたアスファルトの匂いがまだ残っていた。


「大家さん、よろしくお願いいたします」


桐嶋慧が深く頭を下げると、向かいの長机で腕を組む白髪の女性――田辺ヨシエは小さく頷いた。

雑居ビルのオーナーにして元・和菓子職人。

見た目は柔和だが、鋭い目は砂糖のグラム単位を量る天秤のように正確だ。


テーブルの上には賃貸借契約書の厚い束。

横には結衣が準備した事業計画と山本剛が直した資金繰り表。

その数字を田辺が読み込むあいだ、室内を扇風機が低く唸りながら回っていた。


「家賃は一坪九千円、保証金は三ヶ月、更新料は据え置き――それで本当に大丈夫なのかい?」

「はい。粗利率と返済計画はこの通りです」


慧が差し出す紙。田辺は目を細めて指で縁をなぞる。


「私はね、商売が長く続くかどうかは顔と手で見るんだよ」


そう言って田辺は慧の右手をそっと取った。

粉焼けの跡はないが、夜なべでペンを握った細かなペンだこが浮いている。


「覚悟のある手だね。……よし、腹は決めた。だけど一つだけ条件がある」


田辺は外を指さした。窓の外、細い路地を挟んで木造の長屋がある。


「排気は隣の長屋に煙が入らないよう高窓より上に逃がして。住民と揉めるなら契約はなしだよ」


慧は即答した。


「了解しました。煙突延長の追加費用はこちらで負担します」

「話が早いね。――じゃあ判を押そう」


朱肉の香り、紙に吸い込まれる赤。結衣のタブレットが契約書を写し取る。


「蔵前田辺ビル一階、ようこそ。昔あの場所で炭火を焚いていた焼き鳥屋が、最初は客ゼロだったのを思い出すよ」


田辺の笑みは甘辛い餡の匂いがしそうだった。


***


夕方の隅田川はさらさらと潮を返す。

ビル前の歩道で契約書を抱えた慧は、風に吹かれて一気に肩の力を抜いた。

結衣がスマホを自撮りモードにする。


「はい、“蔵前攻略”記念ショット」


二人で画面を覗き込み、シャッターの音が鳴る。

結衣は写真をすぐメッセージアプリに送り、コメント欄にこう打った。


<蔵前攻略完了。山本さん、支払いサイト更新よろしく!>


一分も経たず既読がつき、

<数字と判子の写真が欲しい。泣くなよ>

の返信。


慧が噴き出す。


「泣きはしませんけど、今なら小躍りはできます」

「小躍りは私もする。だって今月の成果目標が“家賃五%カット”だったんだもの」

「部門目標、そんなのでいいのか」

「仕事の合間に副業してるんだからシビアよ」


結衣はそう言いながらも、スマホをズームして契約書の印影を撮り直した。

指先は起業の高揚と緊張、その両方で微かに震えていた。


***


翌朝七時、オフィスの最奥の会議室。

山本はスラックスの折り目をぴしりと揃え、テーブル中央に契約書のコピーを置いた。


「三十坪で家賃計税込み二十七万円。共益費は免除。――ようやく数字が踊りそうだな」


そう言いながら山本は電卓を打ち始める。


「ただし工事費が膨らむ。煙突延長十五万、臭気対策十五万、水道管の交換十万。全部で四十万上乗せ」

「承知しています」

「となると運転資金がギリギリだ。融資面談、君一人で本当に戦えるか?」

「はい。山本さんの試算表が剣と盾になります」

「甘えるな。剣を振るうのはお前だ」


山本が差し出したのは厚さ一センチの紙束。

表紙に『融資面談想定問答』。


「全質問五十パターン、回答補助資料つき。丸暗記したら受かるとは言わんが、落ちる理由にはならん」


慧は受け取り、背筋を伸ばして頭を下げた。その目の奥で火が灯るのを山本は確認し、コーヒーを啜った。


***


午後、関係各所への引継ぎ業務に忙殺されたのち、融資面談の準備を進めていた慧は、ふとオフィスの時計をみると、もう夜十時過ぎとなっていた。


「明日が面談本番、もうそろそろ家に帰るか」


ほとんどの照明が落ちたオフィスの通路で、慧が帰宅のエレベーターを待っていると、奥の非常扉が開いて、部長の滝本俊介が現れた。


資料の入った薄い革ケースを脇に抱え、足音を忍ばせるように近づいてくる。


「……桐嶋」


呼び止められ、慧が歩み寄ると滝本はバッグから封筒を取り出した。


「推薦状だ。紹介状と、お前の職務評価。必要なら使え」


厚手の封筒がずしりと重い。慧は両手で受け取り、頭を下げる。


「数字で跳ね返せるなら、それが一番いい。ただ“最後の安全網”は持っておけ」

「ありがとうございます。……必ず自力で通します」


滝本は短くうなずき、駅へ続く夜道を歩き出した。

街灯に照らされた背中のポケットから、擦り切れたレザー手帳の角が銀色に光っていた。


***


面談当日、政策金融公庫本店のロビー。

大理石の床が靴音を冷ややかに反射する。

慧はわずかに緊張を抱えながら、面談の順番を待っていた。


案内係が呼び出す。「桐嶋様、会議室三番へどうぞ」。


ガラス壁の会議室。担当官の前に腰を下ろし、資料を並べると空調の風が襟を冷やした。


「小麦相場が一割上がった場合、利益率低下をどう補填されますか」

「ロット増による仕入れ単価の引き下げで二%吸収し、動力プランへの電力契約切替えで残りを相殺します」


担当官は無表情のまま書類をめくる。壁のアナログ時計が秒針を刻む音がやけに大きい。


「電気料金が一五%高騰した場合の予備試算は?」


慧は想定問答のページを滑らせ、第二資料の折り目を示した。


「二〇%上振れまで織り込み、月間粗利率が一・八ポイント縮小する想定です。夜間のピークシフトと焼成スケジュール変更で一・三ポイントを回収できます」


ペン先が机を二度、軽く叩かれる。


「仕入ロットを増やすリスクは在庫ロスにも繋がります。焼成計画の柔軟性は?」

「一次発酵を冷蔵制御し、当日需要に合わせて分割焼成を行います。冷蔵コスト上昇を見てもロス率は三%以内に収まります」


喉が渇く。だが声は揺れない。

山本の想定問答が盾となり、背中を押す。

封筒に入った推薦状は、机の端で静かに眠ったままだ。


質疑応答が終わり、担当官が書類をまとめる。


「本日中に結果をご連絡します。お疲れさまでした」


慧がロビーに戻ると、スマホを取り出し、短いメッセージを入力した。


<推薦状は未使用で済みました。結果判明次第ご報告します>


送信から十秒も経たず既読がつき、滝本からは

<了解。報告を待つ>

とだけ返ってくる。


そっけない一行が、背中をそっと支える。

スマホをポケットに入れ、歩き出そうとしたそのとき、スマホが震えた。


「今度は山本からのメッセージか」


〈結果次第で原価表を差し替える。泣いたらクロワッサンで黙らせる〉


慧は笑い、空に向けて親指を立てる。


ガラス天井の向こうで空調が唸り、透明な風が額の汗をさらった。数字とロマンを両輪に、次の扉が静かに開く音がした。

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