聞きなれた彼女の声はこの腕の中に。
僕が中学卒業間際、あの無茶苦茶な規制法の影響を受けて父親は廃業した。いまは体調を崩して田舎で静養している。以前より日本国内に不穏な動きはあったが、国家ぐるみの弾圧によって芸術の道を廃業に追い込まれるとは父親本人も予想していなかったと思う。
急速なAIプログラムやネットワークの進歩は我々の生活に多くの利点をもたらした。人間が担っていた作業もその多くがAIに取って代わられた。もともと島国の日本には台頭する諸外国に国民総生産で打ち勝つためにAI導入を急加速で推進させた。
単純な作業はAIに任せ、人間は効率よく他のアウトプットに集中出来る。その後、日本中の企業や官公庁の仕事効率が右肩上がりに跳ね上がる結果となって現れ、人々は歓喜した。
……だが決定的な事件が発生する。優勢思想に毒され国家転覆をもくろむとある団体が芸術の各分野を隠れ蓑にして、じわじわと勢力を拡大し武装化、その後、国内で同時多発テロを引き起こす。日本中を震撼させた大事件だ。
不幸中の幸いで国家転覆はすんでのところで免れたが、沈静化まで多くの犠牲と時間を要した。この事件を非常に重く見た政府は折からのAI化も念頭に置き、思想統制を目的として治安維持の強硬手段に打って出る。
その悪法は突然、公布された。創造的な活動や仕事を行うクリエイターが対象だ。芸術全般、映画、音楽、文学、絵画、ほぼすべてをAI作業に置き換える。国が認証したAIプロンプトエンジニア以外、従事するのは認められない。自分の将来の夢だった写真家も商業的な活動は相当な制限を受ける。
併せて急速に普及したAIネットワークによる日本全国民への監視強化、表向きは不穏分子の割り出しによる治安維持だが、実質的な恐怖政治の始まりだった。
俗にいう悪法【クリエイター殺し】の始まりだ……。
『これじゃあ、まるで日本は芸術鎖国じゃないか!!』心労で倒れた父親の悲痛な叫びがいまも僕の耳に残っている。
*******
【……ねえねえ、イクル!! ていねいに説明してくれて悪いけど私ね、その話は全部AIネットワークを介して知ってるの】
「ったく何だよ
部屋の窓を開け放っていても七月初旬の暑さは厳しい。自室の扇風機は二台稼働しているが、じっとりと汗がにじんでくる。一人っきりなら
【それよりもイクルの近況を聞きたいな。……何で学校の屋上から飛び降りるなんて無茶したの】
「おいおい無茶って……」
彼女の単刀直入な質問に僕は思わず絶句した。それに無茶の一言じゃあとても済まないだろう。僕は悩みぬいた挙句に自殺しようとしたんだぞ!! やっぱり一采は変わっているよな。
【抜け駆けして一人で空を飛ぼうなんてずるいよ。私も一緒って約束したじゃん】
「……」
それにしても事情を知らない第三者がこの場にいたら驚いて腰を抜かすかもしれないな。二台あるうち片方の扇風機の風があまり届かないのは洗濯した白いシャツに向けているからだ。平面化した彼女を乾かす専用にされてしまったんだ……。
僕の近況よりも一采、先に聞きたいことは山ほどあるって!! 思わず口に出かけた言葉をやっとの思いで飲み込んだ。
洗濯用のフックにハンガーで吊るされた状態で扇風機の風にあおられ、ひらひらと舞うシャツの中の彼女の表情を見ているとついつい脱力して頬がにやけてしまう。こんな明るい気持ちになれるのは久しぶりだ。生きる望みを失って何時間か前には自らの命を絶とうとしていたのに人間の感情とは不思議なものだ……。
彼女がAIでも幽霊でも何だってかまわない、また顔を見ながらくだらない会話を交わせる日が来るなんてまるで夢のようだ。
「……これが嘘みたいに幸せな気分か」
【ああっ!! 私の口ぐせ、イクルにパクられたぁ。だめだめ、それは専売特許だよ。使用料として百円頂戴します!!】
「なんじゃそりゃ、お前は小学生かっつーの」
軽口を叩きながら落ち着いてハンガーに掛けられたままの彼女の様子を眺めてみる。僕の白いシャツは厚手の素材で丸首だ。その胸の中心部にかけて一采は存在している。いまはバストアップの状態だが固定されて定着しているわけではない。彼女の意思でズームアウトも出来るようだ。
そういえば学校から帰宅する際、得意げに成長した全身を見せられて思わずドキドキしてしまった。考えてみて欲しい。シャツの中の平面とはいえ、初恋の彼女が急に表れて胸もと1.4mmの超至近距離で動き回る状況を……。
家まで急いで帰ってぶつぶつ文句を言う一采をなだめすかして汚れたシャツを洗濯したのは照れ隠しも多分にあっただろう。あ、もちろんデリケートな平面彼女なので洗面器で優しく手洗いしたのは言うまでもない。
【ねえ、イクルってば。ちゃんと私の話を聞いてる?】
「あ、ああ。聞いているよ。特許料の百円を払えばいいんだっけ?」
【肝心な部分を聞き漏らしてるじゃない!! ……私、言わないでおこうと思ったけど。そこまで思いつめるほど辛かったんだよね。あなたの目を
……何だよ、一采。ちゃんと僕の状況を分かってるじゃないか。昔から彼女はぶっきらぼうに見えてとても繊細だ。僕たちは似たもの同士だから妙にウマがあったんだ。それは【彼】も同じだ。
現れた当初は半信半疑だったが、僕の病気や将来の夢まで事細かに知っている。まぎれもなく本物の彼女だ。これは夢や幻なんかじゃない。
「一采……。僕は」
【何も言わなくていいんだよ。イクル。これからは私がそばにいるから】
急速に視界がにじむのは何も額を流れる汗が目に入ったわけじゃない。こらえきれずに泣いた。彼女が亡くなったと聞かされた後でさえ、決して他人に涙は見せなかったのに。胸の中に溜まった苦い想いも全部洗い流すように……。
【いまのあなたを助けたいの。そのために私はここに現れたんだ。そして彼に会いに行かなきゃ……】
風に揺れるシャツの中から彼女が部屋の隅の視線を送る。その先にあるものは。
【三人で交わした約束。……イクルも覚えてるよね】
僕たち三人組があの懐かしい秘密基地で撮った写真が額装され飾られている。そこには僕、一采、そして【彼】が写っていた……。
次回に続く。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます