橘莉子ちゃん――航くんの小説の「大ファン」を名乗る、元気で積極的な後輩女子。彼女の突然の登場、そして授賞式や図書館での積極的なアプローチは、私の穏やかだった心に、予想以上の大きな波紋を投げかけていた。彼女のあの屈託のない笑顔と、航くんに向けられる真っ直ぐな好意（と私には思えるもの）のことで、私の頭の中はいっぱいになってしまっていた。

（考えすぎよね。彼女はただのファン。航くんもただの後輩としか思っていないはず……。でも、あの積極性は、どう考えても普通じゃない…！）

そう自分に言い聞かせようとする。でも、どうしても、胸の奥で渦巻く、黒くて冷たい感情を無視することができない。嫉妬――認めたくないけれど、これは間違いなく、嫉妬なのだ。航くんが、私以外の女の子と親しくしていることへの。そして、自分よりも若く、可愛らしく、素直に好意を表現できる莉子ちゃんに対する、劣等感にも似た感情。

年下の男の子に本気で恋をして、しかも、その子の周りに現れた別の女の子に嫉妬しているなんて。我ながら、本当に情けないと思う。もうすぐ23歳にもなろうという大人の女性が、まるで中学生の初恋みたいに、心をかき乱されているのだ。

（しっかりしなきゃ、私。もっと、大人にならなきゃ……航くんを応援するって決めたじゃない。でも、応援するのと、彼が他の子に取られるのとは話が別よ！）

そう思うのに、心とは裏腹に、私の態度は、少しずつ、確実に変化していってしまっていた。特に、航くんに対して。

以前は、彼からのメッセージが届けば、すぐにでも返信したい気持ちでいっぱいだったのに。今は、莉子ちゃんの顔がちらついて、返信するのを少しだけ躊躇ってしまうことがある。「今、あの子とメッセージしてたりしないかな……。あの子の方が、航くんと話が合うんじゃないかな…」なんて、くだらない疑念が湧いてきてしまうのだ。もちろん、すぐに「そんなはずない」と打ち消すのだけれど。彼からの「取材」の誘いにも、以前のように二つ返事ができず、「少しだけ考えさせて。莉子ちゃんも誘ってみたら？」なんて、可愛くないことを言ってしまうこともあった。あの遊園地での特別な時間は、確かに二人の距離を縮めたはずなのに、私の臆病さと意地っ張りさがそれをまた遠ざけようとしている。

電話で話していてもそうだ。彼の声を聞けるのは嬉しい。でも、ふとした瞬間に、彼が学校で莉子ちゃんと楽しそうに話している姿を想像してしまい、急に言葉に詰まったり、声のトーンが低くなったりしてしまう。航くんは「弥生さん？どうかしましたか？俺、何か怒らせるようなこと言いましたか？」と心配してくれるけれど、私は「ううん、なんでもないよ。ちょっと疲れてるだけ」と、笑顔で（声だけの笑顔で）誤魔化すしかない。

一番顕著だったのは、やはり、彼の小説に関するやり取りだったかもしれない。

以前は、彼の書いた原稿を読むのが、何よりも楽しみだった。彼の才能の煌めきや、物語の展開に、自分のことのように興奮し、感想やアドバイスを熱心に伝えていた。

でも、今は……。

『弥生さん！遊園地のシーン、書けました！観覧車のところ、弥生さんのアドバイス通り、あえて言葉を少なくしてみたんですけど……どうでしょうか？莉子ちゃんにも読んでもらったら、すごく感動したって言ってくれました！』

彼から、自信作であろう原稿が送られてきても、複雑な気持ちで向き合ってしまう自分がいる。「莉子ちゃんにも読んでもらった」という一言が、私の心を鋭く刺す。読んでいて、確かに素晴らしいと思う。あの日の、観覧車での特別な空気感が、見事に再現されている。彼の描写力は、確実に向上している。

でも、そのシーンを読んでいると、あの時の、彼への募る想いと同時に、今の、この嫉妬心や不安感が蘇ってきてしまい、胸が苦しくなるのだ。

（……この弥生（仮）は、こんなにも主人公くんに愛されてるのに……現実の私は……莉子ちゃんの方が、航くんの良き理解者なのかもしれない…）

そんな風に、小説の中の自分と、現実の自分を比べて、勝手に落ち込んでしまう。

だから、感想を伝える言葉も、以前のような手放しの賞賛ではなく、どこか慎重になってしまった。

『観覧車のシーン、言葉を少なくしたことで、あの時の空気感がすごく伝わってきたよ。主人公の弥生（仮）への想いが、セリフじゃなくて、その場の雰囲気や表情から伝わってくる感じがした。…ただ、もし私が読者だったら、主人公のモノローグで、もう少しだけ彼女への特別な感情が垣間見えると、もっとキュンとするかもしれないな、なんて…ちょっと思ったかな。でも、航くんの描きたい世界観が一番大事だから、あくまで一意見としてね。莉子ちゃんも感動したなら、きっと素晴らしい作品なんだと思うよ』

以前より少しだけ距離を置いたような、でも作品自体は真剣に読んでいることが伝わるような、そんな感想しか送れなかった。彼の才能を疑っているわけではない。むしろ、その才能が眩しくて、そして、彼が描く理想のヒロインと自分を比べてしまうのが辛かったのだ。最後の言葉には、自分でも分かるくらいの皮肉がこもってしまった。

航くんは、私のその感想に「ありがとうございます！なるほど…主人公のモノローグですか。確かに、そういうのもありですね。参考にしてみます！莉子ちゃんは、ただただ「最高でした！」って感じだったので、弥生さんの具体的なアドバイス、すごく助かります！」と前向きな返事をくれたけれど、どこか私の変化に気づいているような、少しだけ探るような空気を感じたのは、気のせいだろうか。

当然、航くんも、そんな私の微妙な変化に、薄々は気づいていたのかもしれない。

彼は、鈍感だけれど、人の心の機微に全く気づかないわけではない。特に、私のこととなると、彼は意外なほど敏感なところがあるのだ（恋愛感情とは別の次元で、だが）。

『弥生さん、最近、なんだか……少しお疲れですか？俺、何か気に障ること、しちゃいましたか……？小説の感想も、前みたいに遠慮なくダメ出しとかしてほしいなって、ちょっと思ってたり…莉子ちゃんの話、あんまりしない方が良かったですか…？』

心配そうなメッセージが、彼から届いた。その文面からは、彼の戸惑いと、私を気遣う優しさが伝わってきて、また胸が痛んだ。莉子ちゃんのことにまで言及してくるなんて、彼なりに色々考えてくれているのだろう。

違う。航くんは何も悪くない。悪いのは、全部、私なのだ。勝手に嫉妬して、勝手に不安になって、そして、彼に気を遣わせてしまっている、私自身が。

『ううん、全然！何もないよ！ちょっと最近、卒業研究とかバイトとかで、バタバタしてるだけだから。小説の感想も、変に遠慮しちゃってたかな、ごめんね！航くんの作品はいつも楽しみにしてるよ！莉子ちゃんの話も、全然気にしないで。航くんに熱心なファンがいるのは嬉しいことだもん』と、困った顔の絵文字を添えた。

また、半分だけ本当で、半分は嘘をついてしまった。

本当のことを言えたら、どれだけ楽だろうか。「航くんが、他の女の子と仲良くしてるのが、嫌なの」と。でも、そんなこと、言えるはずがない。そんなことを言ったら、彼はきっと、困惑して、そして私から離れていってしまうだろう。重い女だと思われて、嫌われてしまうに違いない。

（もう限界かもしれない……。こんな私じゃ、航くんを支えることなんてできない…）

笑顔の仮面を被り続けることにも、自分の醜い感情と向き合うことにも、疲れ果ててしまっていた。航くんとの関係も、このままでは、きっと壊れてしまうだろう。

「……はぁ……」

バイト先のカフェの休憩室で、私は深い深いため息をついた。その様子を見ていた美咲が、呆れたような顔で話しかけてきた。

「ちょっと弥生、あんた、最近どうしたのよ。ため息ばっかりついて。顔色も悪いし。……さては、また例の年下くん絡みでしょ？あの可愛い後輩ちゃんにでも、マウント取られた？」

「……美咲……。マウントとかじゃないけど…」

私は、もう隠す気力もなく、力なく彼女の名前を呼んだ。

「やっぱりね。で？今度は何があったのよ。まさか、フラれたとか？」

「そ、そんなんじゃないけど……」

私は、ぽつりぽつりと、最近の出来事……莉子ちゃんの登場、自分の嫉妬心、航くんへの態度の変化、そして彼の心配そうな様子……を、美咲に打ち明けた。

話し終えると、美咲は、またしても大きなため息をついた。

「……あんたねぇ……。だから言ったじゃない。さっさと告っちゃえば良かったのよ。うじうじしてるから、ライバルに付け入る隙を与えるんでしょ！」

「で、でも……！」

「でも、じゃない！結局、自分の気持ち誤魔化して、中途半端な態度とるから、余計にこじれるんでしょ！？航くんだって、弥生のそんな態度見たら、どうしていいか分からなくなるわよ！」

美咲の言葉は、厳しいけれど、正論だった。ぐうの音も出ない。

「大体ね、その橘莉子って子だって、弥生がちゃんと『彼女』だって宣言してれば、あそこまで馴れ馴れしくしてこなかったかもしれないじゃない。まあ、あの子はそれでもグイグイ来そうだけど」

「か、彼女って……私たちは、まだ付き合ってないんだよ！？」

「だから、それが問題なのよ！弥生が、航くんに対して特別な気持ちがあるなら、ちゃんと態度で示さないと！言葉にしなくても、雰囲気で伝わるもんだよ、そういうの。『この人には、手出しちゃダメだな』って。今の弥生は、ただの『親切なお姉さん』にしか見えないわよ。航くんにとっても、莉子ちゃんにとってもね」

美咲の言葉に、はっとさせられる。

私は、自分の気持ちを隠すことばかり考えていて、彼に対して、あるいは周りに対して、自分の想いをちゃんと示そうとしてこなかったのかもしれない。だから、莉子ちゃんにも、あんな風に踏み込まれてしまったのかもしれない。そして、航くんにも、私の本当の気持ちが伝わっていないのかもしれない。

「……じゃあ、どうすれば……？もう、私、どうしたらいいか分からないよ…」

私は、すがるような思いで美咲に尋ねた。

「だから、素直になるのよ！」

美咲は、もう何度目か分からないその言葉を、力強く繰り返した。

「嫉妬してるなら、『ヤキモチ妬いちゃった』って、可愛く言ってみるとかさ！不安なら、『私のこと、どう思ってるの？』って、ちゃんと聞いてみるとか！莉子ちゃんに負けないくらい、航くんに甘えてみるとか！」

「そ、そんなこと、できるわけ……！」

「できる！やるの！まずは航くんに『最近、ちょっと元気ないみたいだけど、大丈夫？私でよかったら話聞くよ？莉子ちゃんのこととか、何かあった？』って、さりげなーく、でもちょっと踏み込んで連絡してみるとかどうよ？このままじゃ、本当に航くん、他の子に取られちゃうよ！？それでもいいの！？」

美咲の言葉が、私の胸に突き刺さる。

他の子に、取られる……？莉子ちゃんに…？

航くんが、私以外の女の子と、恋人同士になる……？

想像しただけで、胸が張り裂けそうになる。嫌だ。絶対に、嫌だ。

「……嫌だ……。航くんは、誰にも渡したくない…」

思わず、声が漏れた。

「でしょ？」

美咲は、分かっていた、というように頷いた。

「だったら、もう覚悟を決めるしかないじゃない。傷つくのが怖いのは分かるけど、このまま何もしないで後悔するより、ずっといいはずだよ。弥生の幸せは、弥生自身が掴み取るのよ！」

……覚悟を、決める。

そうだ。もう、逃げてばかりはいられないのだ。

自分の気持ちから。彼との関係から。そして、ライバル（かもしれない）存在から。

もし、私がもっと素直に彼と向き合えていたら、彼もこんな風に悩むことはなかったのかもしれない……。

「……分かった。……少しだけ、頑張ってみる。まずは、航くんが心配してくれてることに、ちゃんと応えてみようと思う。そして、私の気持ちも、少しずつ伝えていけるように…」

私は、震える声で、しかし、確かな意志を持って、そう答えた。

「よし！その意気よ！」

美咲は、満足そうに笑って、私の背中を力強く叩いた。「もしダメだったら、私が慰めてあげるから！でも、弥生ならきっと大丈夫よ！」

＊

美咲に背中を押され、私は覚悟を決めた。小さな一歩でもいい、行動しようと。

その日の夜、航くんにメッセージを送った。『航くん、この前は心配してくれてありがとう。最近ちょっと色々考えちゃって、元気ないように見えたかもしれないけど、もう大丈夫だから！それより、航くんこそ、執筆は順調？無理してない？もし何かあったら、私でよかったらいつでも話聞くからね。莉子ちゃんのこととか、学校のこととか、何でも』

彼からはすぐに『弥生さん、ありがとうございます！俺は大丈夫です！それより、弥生さんが元気なら良かった！もし何かあったら、いつでも俺に話してくださいね！弥生さんの言葉、すごく嬉しいです。莉子ちゃんのことも、また相談させてもらってもいいですか…？』と、いつもの優しい返事が来た。そして、最後の言葉に、少しだけ胸がチクリとしたけれど、彼が私を頼ってくれようとしていることが嬉しかった。

数日後。図書館で、航くんが深刻な顔でPCに向かっているのを見かけた。声をかけると、彼は「告白シーンが、どうしても書けないんです……」と、力なく打ち明けてきた。

彼のスランプは、まだ続いていたのだ。いや、むしろ、悪化しているのかもしれない。

（私のせいじゃないといいけど……でも、今、私にできることは……彼を信じて、支えること）

最近の、私の不安定な態度が、彼の創作にまで影響を与えてしまっているのではないか？

そう思うと、申し訳なさで胸が痛んだ。

「……そっか。難しいよね、告白シーンって……。でも、航くんのペースで、納得いくまで書くのが一番だよ。焦らないで」

私は、彼の隣に座り、できるだけ優しい声で言った。

「でも、航くんなら、きっと書けるよ。だって、あんなに素敵な物語を紡げるんだもん。自信持って。もしよかったら、私にもう一度、そのシーンのこと、話してくれないかな？何かヒントになることが言えるかもしれないし」

心からの励ましの言葉と、彼に寄り添う姿勢。今の彼に、どれだけ響いているだろうか。

「……ありがとうございます。……でも、自信、ないです……。何を書けばいいのか、全然…弥生さんに読んでもらうのも、恥ずかしいくらい…」

彼は、俯いたまま、力なく呟いた。その姿は、以前の彼からは想像もつかないほど、弱々しく見えた。

（なんとかしてあげたい。彼の力になりたい。彼の笑顔が見たい）

でも、どうすれば？

告白シーンのアドバイスは、今の私にはできない。

ただ、そばにいて、話を聞いてあげることしか……。

「……もし、私でよければ、いつでも話聞くからね。一人で抱え込まないで。航くんの作品の、一番の読者は私なんだから。航くんが書くものなら、何だって私は読みたいよ」

私は、彼の肩に、そっと手を置いた。彼の苦しみを少しでも和らげたい、その一心で。

彼は、驚いたように顔を上げた。その瞳には、深い悩みの色と、そして、ほんの少しだけ、救いを求めるような光が宿っていた。

「……弥生さん……。本当に、いいんですか…？」

彼が、何かを言いかけた、その時だった。

「あー！航先輩！やっぱりここにいたー！探しましたよー！」

間の悪いことに、あの声が、またしても響き渡ったのだ。

莉子ちゃんが、満面の笑みで、こちらに駆け寄ってくる。

そして、私と航くんが、肩に手を置いた状態でいるのを見て、一瞬だけ、その笑顔を凍りつかせた。彼女の視線が、航の肩にある私の手に鋭く突き刺さる。

「……あれ？もしかして、お邪魔でした……？先輩、弥生さんと、なんだかいい雰囲気でしたね？」

莉子ちゃんの声には、明らかに、棘があった。そして、その目は笑っていない。

そして、その視線は、私に向けられていた。

まずい。

最悪のタイミングだ。

私の心の中に、再び、黒い嵐が吹き荒れようとしていた。でも、ここで私が動揺したら、航くんがもっと困ってしまう。そして、莉子ちゃんの思う壺だ。

（落ち着いて、私。航くんを守るのよ。そして、私の気持ちも、ちゃんと示すのよ）

私は、ゆっくりと肩から手を離し、莉子ちゃんに穏やかな笑顔を向けた。

「こんにちは、莉子ちゃん。ごめんね、今、航くん、ちょっと大事なことで悩んでるみたいだから、また今度にしてあげてくれるかな？私が、相談に乗ってあげてるの」

毅然と、しかし優しい声で伝える。嫉妬心よりも、航くんを心配する気持ちが、確かに私を動かしていた。そして、「私が相談に乗っている」という事実を、さりげなくアピールする。

莉子ちゃんは、私のその態度に少し驚いたようだったが、すぐに何かを察したように「…そうなんですね。分かりました！さすが弥生さん、頼りになりますね！じゃあ、先輩、無理しないでくださいね！私も、先輩のこと、応援してますから！」と、意外なほど素直に引き下がった。そして、航くんに「先輩、弥生さんを大切にしないとダメですよ！」と、意味深な言葉を残し、去っていった。

残された航くんは、私の行動と莉子ちゃんの言葉に少し驚いた顔をしていたが、すぐに「…ありがとうございます、弥生さん。なんだか、弥生さんがいてくれると、すごく心強いです」と、小さな声で言った。

その言葉に、私は、少しだけ、自分の行動が間違っていなかったのかもしれない、と思えた。

まだ、乗り越えるべき壁はたくさんある。でも、今日、ほんの少しだけ、私は前に進めたのかもしれない。航くんに、私の特別な気持ちが、少しは伝わっただろうか。

しかし、莉子ちゃんのあの挑戦的な視線と最後の言葉は、まだ私の脳裏に焼き付いている。航くんを守りたいという気持ちと、彼を独占したいという黒い感情が、まだ私の中でせめぎ合っている。彼が本当に私の気持ちに気づいてくれているのか、そして、これから私たちはどうなっていくのか…。あの図書館での一件は、私に小さな勇気を与えてくれたけれど、それは同時に、私たちの関係に新たな、そしてより複雑な感情の波紋を広げたのかもしれない。このささやかな一歩が、吉と出るか凶と出るか、まだ私には分からなかった。