第5話 それだけ、なのに

人の流れが緩やかになる、昼下がりの廊下。

授業が終わって、昼食をとったあと。

午後の講義まで、まだ少しだけ余裕がある。


僕は、自販機の脇に立っていた。

缶コーヒーを片手に、静かに一息ついていた。


思考がまだ、まとまりきっていない。

……さっきの講義で、詩を見かけたこと。

そのとき、声をかけなかったこと。

そして、隣に座れなかったこと。


 


(別に……いいよな。そんなに話したわけじゃないし)


自分に言い聞かせる。

けれど、それが本心じゃないことくらい、自分でもわかっていた。


いつのまにか――僕の中に「詩」が根を下ろしていた。

仮面のような笑顔で笑う、あの子のことが、気になっていた。


 


そんなとき――視界の端に見えた。


 


(……詩)


彼女が、こちらに歩いてくる。

視線が一瞬だけ交わって、すぐに逸らされた。


たぶん、向こうも同じように気づいていたはず。


 


でも、声は出なかった。

頭が真っ白になって、気の利いた挨拶すら思い浮かばない。


 


僕は彼女とすれ違う直前、

なんとか言葉を絞り出した。


 


「……あ。や、やあ」


ぎこちない笑みだった。

軽く会釈して、そのまま通りすぎようとする。


だけど――


 


「ねえ」


その声に、足が止まった。


 


(……今の、詩の声……?)


振り返ると、彼女がこちらを見ていた。

笑っていない。仮面をつけていない。

まっすぐな目で、俺を見ていた。


 


「隣、座ってくれなかったの。わたし、ちょっと……寂しかったよ」


 


その言葉が――胸の奥に、すとんと落ちた。


 


驚いた。思いがけなさすぎて、返す言葉が見つからなかった。

それでも、逃げるように笑うことはしなかった。

ただ、彼女の目を見返すことしかできなかった。


 


「……そう、だったんだ」


たったそれだけ。

でも、声に出した言葉の裏側で、心がざわついていた。


詩が“寂しかった”と口にしたこと。

そのまっすぐな感情が、俺の中の何かを揺らした。


 


彼女はそのあと、少しだけ笑った。

でも、それはあの仮面の笑顔じゃない。

もっと素直で、どこか不器用な、あたたかいものだった。


 


「言うつもり、なかったんだけどね。……気づいたら、言ってた」


「……ありがとう」


思わず、そう口にした。


 


彼女は目を丸くしたあと、ふっと目を細めて小さくうなずいた。


そして――そのまま、俺の前を通りすぎていった。


 


通りすぎざまに、ほんの少し、肩が触れた。


それは、偶然だったのかもしれないし、意図的だったのかもしれない。


けれど、その一瞬がやけに長く感じられて、俺は立ち尽くしていた。


 


(……俺、何してるんだろ)


心の奥があたたかく、そして痛かった。


寂しかったと、言ってくれた。

たったそれだけ、なのに。


その言葉が、こんなにも心を揺らすなんて。


 


(また……話したいな)


ようやく、そう思えた。


 


まだまだ、距離はある。

でも、きっと少しだけ――近づいた気がした。

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