第3話 となりに座れない日
キャンパスには、人の流れがある。
朝のラッシュ、講義の合間、カフェテリアのにぎわい――。
そのひとつひとつに混ざりながら、健司はふと立ち止まる。
今日の午後は、初めて受ける別の授業だった。
詩とは専攻が違うけれど、選択科目のなかにはいくつか重なっているものもある。
教室の前で待っていたとき、偶然――彼女を見かけた。
「……あ、詩さん」
小さく口の中でつぶやく。
彼女はまだこちらに気づいていない。
階段を上がってきて、スマホで教室の番号を確認している。
普段と同じ、明るくて柔らかい表情。
けれど――今日の彼女は、どこか“他人の顔”をしているように見えた。
健司は、そのまま視線を外した。
話しかけようか、やめようか、迷っているうちに、教室の扉が開く。
学生たちが一斉に教室に流れ込み、
詩の姿も、そのなかに溶けていった。
(……隣、空いてるかな)
自然とそんなことを思った自分に、少し驚いた。
この数日間、気づけば彼女の隣に座っていた。
彼女が笑って、冗談を言って、
ときどきふと沈黙する、その横顔を見るのが――当たり前になっていた。
でも今日は、教室に入ったときには、すでに席が埋まりかけていた。
空いていたのは、前の方か、一番後ろの端の席。
詩を探すと、教室の中央あたり、窓際に座っているのが見えた。
隣の席には、もう別の学生が座っていた。
――男子学生。
彼女に軽く話しかけ、詩が笑ってうなずいている。
それだけの光景なのに、心がざらついた。
(……べつに、どうってことない)
自分にそう言い聞かせながら、健司は後ろの席に腰を下ろした。
ノートを取り出しても、集中できない。
講義が始まっても、言葉が耳に入ってこない。
詩が笑っている声が、小さく聞こえた気がした。
(疲れない?)
そう聞いた日のことが、ふと頭に浮かぶ。
詩は、一瞬驚いて、それでも笑ってくれた。
自分を守るような笑顔だったけど、それでも――やさしかった。
あのときから、彼女の表情をもっと見たいと思った。
仮面の奥にある、本当の顔を、少しずつ知っていきたいと――。
でも、今、彼女は“となり”じゃない。
距離にすれば、十メートルもないはずなのに。
こんなにも遠く感じるのは、なんでだろう。
講義の後半、健司はほとんどノートを取れなかった。
それでも授業は無情に進んでいき、やがて終了のチャイムが鳴る。
学生たちがぞろぞろと立ち上がり、出口に向かう。
健司もその流れに乗った。
ただ、無意識に――彼女の姿を探していた。
でも、詩の姿は、もう見えなかった。
先に出たのか、それとも別の出口から出たのか。
ほんの少し、胸に穴が開いたような気がした。
(……話しかければよかった)
今日の自分は、何かを逃した気がする。
小さな選択の積み重ねが、少しずつ「距離」を作っていく。
詩の笑顔は、遠くからでもちゃんと笑って見えた。
でもその笑顔が、自分のためじゃないとわかった瞬間――なぜか、寂しかった。
校舎の外に出ると、風が強く吹いていた。
春の終わりを告げるような風だった。
空は晴れていたけど、健司の心の中は曇っていた。
(となりにいられることって、特別だったんだな)
当たり前のように思っていた時間が、
たった一日離れただけで、こんなにも不安になるなんて。
健司はゆっくり歩きながら、スマホを取り出す。
連絡先――まだ交換していなかったことに気づく。
話しかけるチャンスは、たぶん何度もあった。
でも、どこかで「踏み込まないように」していた自分がいた。
それは臆病だったからか。
過去の傷が、また自分を止めていたのか。
それとも、ただ――大切にしたかったからか。
明日は、またとなりに座れるだろうか。
それとも、また“遠い席”から見るだけになるのか。
健司は風の中で、空を見上げた。
そして、心の中で、そっと言葉をつぶやいた。
――また、となりに座りたい。
それだけが、今の正直な気持ちだった。
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