第二章「沈黙の会話」
その日の夕方、みのりはカフェの閉店作業を手伝いながら、ずっと陽太のことを考えていた。彼の音楽、彼の言葉、そして彼の瞳に宿る、何かを求めるような光。窓の外では、秋の風が銀杏の葉を舞わせている。みのりの心の中でも、何かが静かに舞い始めていた。
「みのり、そんなに遠い目をして何を考えているの?」
雪子の声に、みのりははっとして我に返る。カウンターの上の布巾を握る手に力が入っていることに気づく。
「別に何も」
みのりは小さな声で答えたが、自分でも嘘だとわかっていた。昨日からずっと、橘という男性のことを考えていた。コーヒーと音楽が交わる不思議な感覚が、彼女の中で新しい波紋を広げている。
「そう?」
雪子は意味ありげに微笑む。
「でも、久しぶりに誰かと楽しそうに話しているみのりを見られて嬉しかったわ」
みのりは何も言わない。雪子の言葉は、彼女の心の奥底にある感情をそっと刺激する。陽太との出会いは、確かに彼女の世界に小さな変化をもたらし始めている。
「みのりには、特別な才能があるのよ」
雪子は静かに言う。
「それは誰にでもあるものじゃない。大切にしなさい」
みのりは顔を上げる。雪子の瞳は、いつも優しさと理解に満ちている。彼女はみのりの共感覚を、決して「異常」だとは思っていない。むしろ、それは彼女の個性であり、才能だと信じている。
「でも」
みのりは小さな声で言う。
「私には何ができるんだろう?ただ、音に色を感じるだけなのに」
雪子はコーヒーミルの手を止め、みのりの肩にそっと手を置く。
「そんなことないわ。あなたの感じる色彩は、きっと誰かの心を動かす力になる。橘さんの音楽をもっと豊かなものにする力になるわ」
雪子の言葉は、みのりの心に温かい光を灯す。彼女は自分の感覚に、少しずつ自信を持ち始めている。
「明日は何のブレンドを作るつもり?」
雪子が尋ね、みのりは考え込む。陽太の音楽に必要な色彩は何だろう。彼の心の奥底にある、深い森の奥へと導く光は何色だろう、と。
「コスタリカを使ってみようかな」
みのりはつぶやく。
「明るい青緑色の音色が必要な気がする」
雪子は優しく微笑む。
「あなたらしい選択ね」
二人は静かに閉店作業を続ける。みのりの頭の中では、明日のコーヒーブレンドと、それが生み出す色彩の旋律が静かに形を成し始めていた。
翌朝、朝の光が斜めに差し込むカフェの窓辺で、みのりはコーヒー豆を丁寧に磨いている。豆の表面に残る薄い膜を取り除く作業は、彼女にとって瞑想のようなものだ。指先に伝わる豆の質感、鼻腔をくすぐる香り、そして作業の繰り返しがもたらす静かなリズム。すべてが彼女の心を落ち着かせる。
今日のために選んだのはコスタリカの豆。標高の高い地域で栽培されたそれは、爽やかな酸味と、ほのかな花の香りを持っている。みのりの感覚では、明るい青緑色の光沢を持つ音色だ。昨日の夜、彼女は陽太の曲を思い返しながら、次に必要な色彩を考えていた。深い紫から、もっと開放的な色へと移行する必要があると感じたのだ。
「今日は随分早くから準備してるのね」
雪子が階段を下りてくる。彼女はカフェの2階に住んでいる。みのりは家から通っているが、開店準備のため早朝から来ることも多い。
「ん、今日は特別なブレンドを試してみようと思って」
みのりは手を止めずに答える。言葉にはしないが、陽太のために特別な一杯を用意したいという気持ちが彼女を動かしている。
「橘さんのため?」
雪子の問いかけに、みのりは黙って頷く。彼女は優しく微笑み、コーヒーマシンの掃除を始める。朝の準備は二人の静かな儀式だ。言葉少なに、しかし息の合った動きで店を開ける準備を進めていく。
「みのりが人のために何かをしたい、と思うのを見るのは久しぶりね」
雪子の言葉に、みのりは手を止める。確かに彼女は長い間、誰かのために何かをしたいと思う気持ちを忘れていた。学校に行けなくなってからはただ日々を過ごすだけで精一杯だった。
「陽太さんは、私の感覚を理解してくれる」
みのりは小さな声で言う。それは彼女にとって、とても大きな意味を持っていた。
「それは素敵なことね」
雪子は優しく微笑む。彼女の目には少し心配の色も混じっているが、みのりの変化を喜ぶ気持ちの方が大きいようだ。
「でも、あまり期待しすぎないように。彼はプロの音楽家で、忙しい人だから」
みのりは黙って頷く。叔母の言葉の真意を理解している。彼女は陽太に恋をしているわけではない。ただ、自分の感覚が誰かの役に立つという喜びを知ったばかりなのだ。
窓の外では、朝の街が少しずつ目を覚ましていく。通勤する人々、学校に向かう学生たち。みのりと同い年の高校生が制服姿で歩いていく姿を見て、彼女は胸に小さな痛みを感じる。本来なら自分も学校に通い、友達と話し、普通の日常を送っているはずだった。
カフェの扉を開け、営業の準備を整える。朝日を浴びて輝くガラスのショーケースに、雪子が焼いたケーキを並べていく。みのりはエスプレッソマシンを温め、グラインダーの調整をチェックする。すべてが整ったとき、古時計が九時を告げる。
「さあ、開店よ」
雪子が入口の札を「OPEN」に変える。新しい一日が始まる。
陽太が来たのは、その日の午後だった。いつもより少し早い時間だ。彼は軽装で、楽譜の束を抱えている。
「こんにちは」
彼の声には、昨日よりも明るさがある。みのりは小さく会釈をして、いつものテーブルへと案内する。
「今日は早く来られたんですね」
みのりが言うと、陽太は少し照れたように頭をかく。
「ええ、実は昨日からずっと曲を書き続けていて。みのりさんのアドバイスのおかげで、インスピレーションが湧いてきたんです」
彼はテーブルに楽譜を広げる。昨日よりもさらに多くの音符が踊っている。みのりはそれを見つめると、色彩の洪水が彼女の意識を満たすのを感じる。紫から始まり、青、そして緑へと変化していく色の流れ。しかし最後の部分でまた行き詰まっているようだ。
「少しお待ちください。今、コーヒーをお持ちします」
みのりはカウンターに戻り、準備していたコスタリカの豆を挽き始める。豆が砕ける音が、リズミカルな音楽のように響く。彼女は水温と抽出時間を慎重に計りながら、陽太の音楽に必要な色彩を思い描く。
出来上がったコーヒーをカップに注ぎ、陽太のテーブルへと運ぶ。彼は楽譜から顔を上げ、コーヒーの香りを深く吸い込む。
「この香り...なんだか爽やかですね」
陽太は一口飲み、目を閉じる。彼の表情が少しずつ変化していく様子をみのりは静かに観察している。
「これは」
陽太は目を開ける。
「まるで森の中の小川のような、清々しい感じがします」
みのりは小さく頷く。彼が感じ取った印象は彼女が意図したものに近い。
「コスタリカの豆です。私には青緑色の音色に聞こえます」
陽太は興味深そうに彼女を見つめる。
「青緑色。それは私の曲に足りない色かもしれません」
彼は楽譜の最後の部分を指差す。
「ここで行き詰まっているんです。ここまでの流れは上手くいったのですが、その先がどうしても見えてこない」
みのりは勇気を出して、彼の横に座る。楽譜を覗き込むと、確かに色彩の流れが途切れている。深い青の後に何が来るべきか。
「私には」
みのりは言葉を選びながら言う。
「青の後には、もっと開放的な何かが必要に思えます。森の中を歩いていて、突然開けた場所に出たときのような」
陽太は彼女の言葉に耳を傾け、ペンを取り出して楽譜に書き込み始める。みのりは彼の長い指がページの上を滑るのを見つめる。その動きには優雅さがあり、まるでピアノを弾いているかのようだ。
「こんな感じでしょうか?」
彼は書き加えた部分を小さく口ずさむ。低い音から始まり、徐々に高音へと移行していく旋律。それは確かに森の小川から広がる草原のような景色を描き出す。みのりは息を呑み、声を漏らす。
「――まるで光が芽吹く黄金色」
陽太は唇を引き結び、“答えの音”を楽譜に落とした。二人の間に流れる空気が、少しずつ変わっていく。最初の緊張は和らぎ、共通の目的に向かって協力する喜びが生まれている。
「みのりさんと話していると、言葉の向こう側にある何かを感じることができるんです」
陽太は真剣な表情で言う。
「それは音楽を作る上で、とても貴重なことです」
彼の言葉にみのりは少し恥ずかしさを感じる。しかし同時に、自分の存在が、誰かにとって意味を持つことの喜びも感じている。
「私たちの会話はエスプレッソのようだね」
突然陽太が言う。みのりは不思議そうに彼を見る。
「短く、濃厚で、余韻が長い」
彼は微笑む。
「言葉にならない部分こそが本質で、沈黙の間に流れる理解が、むしろ雄弁だと思いませんか?」
みのりは驚いて目を見開く。それは彼女が感じていたことと、あまりにも似ている。
「そう、思います」
彼女は真剣に答える。陽太の目には、優しい光が宿っている。
「ところで、昨日会った真理のことは覚えていますか?」
陽太の声は、朝露を含んだ弦の響きのように静かだ。
みのりの胸の奥で、コスタリカの青緑がそっと揺らぐ。
「...はい。凛とした方でした」
「そうですね、あの凛々しさが私は好きなんです。熱が透けて見えるほど真っ直ぐで」
語尾に滲む尊敬の色が、店内の空気を柔らかく染める。みのりは小さく瞬きをした。
「真理はあなたの感覚に興味を持っています。近いうちに三人でお話できればと」
湯気が淡いステンドグラスのようにゆらぎ、みのりの不安を淡彩に映し出す。
「私で大丈夫でしょうか」
陽太は優しく首を振る。
「大丈夫じゃない時ほど、色は鮮やかになります。あなたの青緑も、きっと彼女を驚かせるはずです」
彼がカップを傾けると、深い森色の液面が光を抱き、頬にかすかな朱を映した。
「すみません、少し意地悪でしたね。話題を変えましょう。この豆の選び方や淹れ方はどこで?」
陽太がみのりを気遣い話題転換をした。緊張と不安が和らぎ、みのりはふっと息を緩める。
「叔母から少しと...あとは、香りの中に見える色に教わりました」
「それも、共感覚ですか?」
「はい。豆によって色が違って見えるんです。その日の気分や、飲む人に合わせて、どんな色が必要か考えて...」
彼女は言葉に詰まる。自分の感覚を説明することは難しい。しかし陽太は熱心に聞いている。
「それは音楽を作るのと似ていますね」
彼は興奮した様子で言う。
「私も曲を作るとき、色や景色をイメージすることがあります。でもみのりさんの場合は、それが実際に見えるんですね」
みのりは頷く。陽太が自分の感覚を理解しようとしてくれることが、彼女には嬉しい。
「私の共感覚は...実は小さい頃からありました。でも、周りの人には理解されなくて」
彼女は少し躊躇いながら続ける。
「『変わってる』とか『おかしい』とか言われることが多くて。だから、あまり人に話さないようにしていました」
陽太の表情が真剣になる。
「それは辛かったでしょうね。でも、みのりさんの感覚は決しておかしくありません。むしろ、素晴らしい才能です」
彼の言葉に、みのりは胸が熱くなるのを感じる。長い間、自分の感覚を隠してきた彼女にとって、それを価値あるものとして認めてくれる人に出会えたことは、大きな救いだった。
その日の夕方、そろそろカフェの閉店時間だが陽太はまだ席を立とうとしない。彼は一日中、楽譜と向き合っていた。みのりは時折コーヒーを補充し、彼の創作を静かに見守っていた。
「閉店時間ですよ」
みのりが声をかけると、陽太は驚いたように顔を上げる。
「こんなに時間が経ったんですか。すみません、集中していて」
彼は周囲を見回す。カフェには既に他の客はいない。雪子は厨房で明日の準備をしている。
「いいんですよ」
穏やかな声でみのりは言う。
「あなたの作業の邪魔をしたくなかったから」
陽太は感謝の笑顔を見せる。
「実は、曲がほぼ完成したんです」
彼は誇らしげに楽譜を見せ、みのりはそれを覗き込む。昼間に比べて、音符の数が何倍にも増えている。彼女の中で、それらの音符が色彩の連なりとなって広がる。紫から始まり、青、青緑、そして最後は明るい黄金色へと変化していく壮大な色彩の旅路。
「素晴らしいです」
みのりは心から言う。彼女自身も、この曲の完成に少しだけ貢献できたことを嬉しく思う。
「これは、みのりさんのおかげです」
陽太は真剣な表情で言う。
「あなたの感覚が、私の音楽に新しい次元を与えてくれました」
彼は楽譜をまとめながら続ける。
「実は明日、この曲をスタジオで録音することになっています。もし良ければ、みのりさんも来ませんか?」
みのりはその言葉に、息を飲む。カフェの外の世界に出ていくこと。それは彼女にとって大きな一歩だ。
「私が行ってもいいんですか?」
「ぜひ来てほしいんです」
穏やかな陽太にしては熱のこもった声で言う。
「みのりさんの感覚は、この曲に不可欠なんです。最後の仕上げに、あなたの意見を聞かせてください」
陽太の頼みをみのりは迷う。カフェの外に出ることへの不安と、陽太の音楽に関わり続けたいという気持ちの間で揺れている。
「大丈夫よ、みのり」
雪子の声がする。彼女はいつの間にか二人の会話を聞いていたようだ。
「明日の午後なら、私一人でも店は回せるわ。行ってらっしゃい」
みのりは叔母に感謝の視線を送る。そして陽太に向き直る。
「分かりました。行きます」
彼女の返事に、陽太の顔が明るく輝く。
「ありがとう。明日の午後2時に、ここに迎えに来ます」
彼は楽譜をカバンにしまいながら続ける。
「本当に感謝しています。みのりさんとの出会いは、私にとって大きな転機です」
みのりは照れくさそうに視線を落とす。誰かにとって自分が「転機」になるなんて、想像もしていなかった。
陽太は帰り支度をし、店を出ていく。みのりは窓越しに彼の後ろ姿を見送る。夕暮れの街に溶け込んでいく彼の姿は、どこか輝いて見える。
「素敵な人ね」
雪子が横に立ち、一緒に窓の外を眺める。
「うん」
みのりは小さく頷く。
「でも、明日スタジオに行くなんて、大丈夫?」
先ほどはああ言ったが、雪子は心配そうに尋ねる。
「学校以外の場所にも行けなくなっていたじゃない」
雪子の心配を受け止め、みのりは少し考えてから答える。
「怖いけど、行ってみたい」
みのりは自分の言葉に驚く。カフェという安全地帯を離れることへの恐怖は確かにある。しかし、それを上回る何かが彼女の中で芽生えている。陽太の音楽に関わりたい、彼の創造の瞬間に立ち会いたいという欲求が、閉ざされていた心の扉を少しずつ押し開ける。雪子は黙ってそんな彼女を見つめ、やがて優しく微笑む。
「みのりが、自分から外に出たいと思うなんて」
彼女の声には感慨が滲む。
「橘さんとの出会いは、あなたにとっても転機になるかもしれないわね」
みのりは窓ガラスに映る自分の姿を見つめる。半年前、学校に行けなくなった時の自分なら、決して踏み出せなかった一歩。それが今、可能に思えることが不思議だ。
「もう少し片付けましょう」
雪子が話題を変え、みのりはテーブルの上に残されたコーヒーカップを手に取る。陽太が飲み干したカップの底には、薄い茶色の跡が渦を巻いている。その模様が、彼女の目には音符のように見える。彼女は指でそっとなぞり、カップから立ち上る最後の香りを吸い込む。
「みのり」
雪子が静かに声をかける。
「明日、着ていく服は決めた?」
その質問に、みのりははっとする。そう、明日はカフェの制服ではなく、普段着で出かけることになる。彼女が最後に外出着を着たのはいつだっただろうか。制服以外の服を着て人前に出ることさえ、彼女には大きな挑戦だ。
「まだ...」
みのりは小さな声で答える。彼女の部屋のクローゼットには、ほとんど着ていない服が並んでいる。高校入学前に買った服たち。それらは彼女が閉じこもるようになってから、ほとんど日の目を見ていない。
「今夜、あなたの部屋で一緒に選びましょうか?」
雪子が優しく提案する。
みのりは黙って頷く。叔母の優しさが、彼女の不安を少しだけ和らげる。
その夜、みのりは自分の部屋で雪子と一緒に服を選んでいる。ベッドの上には何着かの服が広げられ、みのりはそれらを前に迷う。
「このブルーのワンピースはどう?」
雪子が手に持った服は、空色の生地に小さな花柄が散りばめられたものだ。
「みのりの目の色に合うわ」
みのりはそれを手に取り、鏡の前に立つ。長い間着ていなかった服は、少し懐かしい気持ちを呼び起こす。しかし同時に、人目に触れることへの不安も湧き上がってくる。
「大丈夫よ」
雪子は彼女の表情を読み取ったように言う。
「みのりは素敵よ。自信を持って」
みのりは小さく頷く。部屋の窓から見える夜空には、星が瞬いている。明日、彼女はカフェという安全地帯を離れ、外の世界へと一歩踏み出す。その思いに、胸が小刻みに震える。
「叔母さん」
みのりは静かに尋ねる。
「私、明日ちゃんとできるかな」
雪子はみのりの肩に手を置き、真っ直ぐに目を見つめる。
「あなたは強い子よ。自分の感覚を信じて」
その言葉に、みのりは少し勇気づけられる。彼女は選んだワンピースを大切にハンガーにかけ、明日のために準備する。
深夜。街の灯がすっかり落ちたころ、みのりは薄い毛布にくるまり、天井をぼんやりと見つめていた。明日は初めてのレコーディング・スタジオ。踏み入れたことのない場所の気配が、胸の奥で淡く軋む。彼女が恐れているのは、スタジオそのものではない。そこにいる川村真理だった。みのりは彼女の瞳に、高校のクラスメイトと同じような冷たさを感じていた。想像するだけで、胸の鼓動が浅い波となって押し寄せる。
――自分の感覚など子どもの遊びだと笑われるのではないか。
そんな不安が、緑がかった灰色の影となって視界の端を揺らした。
だがその影を透かすように、別の色がそっと差し込む。陽太の音楽を思うときに浮かぶ、温かな琥珀色だ。あの色は、彼女の淹れたコーヒーと重なり合って、柔らかな光を生む。その光が真理への恐怖を押し返す、かすかな追い風となった。窓から射す月明かりは、銀糸の帯となって寝具のしわをなぞる。みのりはそっと毛布の端を指でつかみ、鼓動の速さを数えた。恐れがまだ残る。それでも、陽太の役に立てるかもしれないという想いが、胸の中心でほのかな熱を灯している。淡い緑と琥珀がゆっくりと混ざり合い、やがて乳白色の静けさへと溶けていく。まるで、深煎りの香りが部屋を包むときのように。そしてそのまま、みのりは深い眠りへと滑り込んでいく。
翌日の午後、みのりはカフェの前で陽太を待っている。ブルーのワンピースに白いカーディガン、そして小さなショルダーバッグという出で立ちは、彼女自身が忘れかけていた「普通の高校生」の姿を思い出させる。
「みのりさん、こんにちは」
陽太の声に振り返ると、彼は普段よりもきちんとした服装で立っている。ネイビーのジャケットに白いシャツ、首元にはさりげないスカーフ。プロの音楽家らしい洗練された印象だ。
「こ、こんにちは」
みのりは緊張した声で答える。カフェの外で会うのは初めてで、なぜか新鮮な感覚がある。
「では、行きましょうか」
陽太は優しく微笑み、歩き始める。
「スタジオはここから歩いて15分ほどです」
みのりは小さく頷き、彼の横を歩き始める。街の音や匂い、風の感触が、彼女の感覚を刺激する。久しぶりに外を歩くことの新鮮さと、人目に触れる不安が入り混じる複雑な気持ちだ。
「緊張してますか?」
陽太が静かに尋ねる。
「少し」
みのりは正直に答える。
「久しぶりに、カフェ以外の場所に行くので」
陽太は理解を示すように頷く。
「焦らなくていいですよ。みのりさんのペースで」
彼の言葉に、みのりは少し安心する。二人は静かに歩き続ける。秋の陽光が街を柔らかく包み、銀杏並木の黄金色の葉が風に揺れている。みのりの目には、それらが音楽のように見える。街の音、人々の声、車の音、すべてが色彩の交響曲となって彼女の中で響き合う。
「あの」
みのりは勇気を出して尋ねる。
「今日はどんな録音をするんですか?」
陽太は嬉しそうに説明を始める。
「私が作曲した曲を、プロの演奏家たちが演奏します。それを録音して、テレビ番組のテーマ音楽として使うんです」
彼の声には興奮と緊張が混ざっている。みのりは彼の横顔を見る。普段のカフェでの落ち着いた様子とは少し違う、創作者としての熱が感じられる。
「真理さんも来ていますか?」
みのりの質問に、陽太は少し表情を変える。
「ええ、彼女がプロデューサーですから」
彼は少し間を置いてから続ける。
「実は、真理との間で少し意見の相違があって…」
みのりは彼の言葉に注目する。
「彼女は、より商業的な方向性を求めているんです。でも、私はみのりさんと話して生まれた、この新しいアプローチを試したい」
彼の言葉には、迷いと決意が混ざっている。みのりは自分が彼の創作に影響を与えていることの重みを感じる。
「私のせいで、難しくなってしまったんですか?」
みのりの心配そうな問いかけに、陽太は静かに首を振る。
「違います。むしろ、あなたのおかげで私の音楽は新しい次元に進化したんです。真理にもそれを理解してほしい」
そのとき、陽太のスマホが震え始める。彼はポケットから取り出し、画面を見る。みのりはその隙に、ディスプレイに表示された「Producer K. Mari」の文字を目にする。彼女の心に小さな不安が広がる。陽太は一瞬躊躇った後、通話を拒否し、スマホをポケットに戻す。
「すみません」
彼は少し苦笑いする。
「真理からです。きっと私たちがどこにいるか確認したいんでしょう」
歩いているうちに、スタジオの建物が見えてくる。モダンなガラス張りの建物は、みのりにとって別世界のように思える。無意識に彼女の足取りが少し遅くなる。
「大丈夫ですよ」
陽太は彼女の不安を察して言う。
「みのりさんはただ聴いているだけでいい。プレッシャーを感じる必要はありません」
みのりは深呼吸をして、彼についていくことを改めて決意する。建物に入り、エレベーターで上階へと向かう。閉じられた空間の中で、彼女の心臓は早く鼓動している。エレベーターのドアが開くと、そこには洗練された雰囲気のスタジオロビーが広がっていた。壁には有名なミュージシャンたちの写真が飾られ、ソファには数人の人が座っている。みのりは思わず陽太の背中に隠れるように立つ。
「陽太、やっと来たわね」
鋭い声が響き、真理が近づいてくる。彼女は前回よりもさらにビジネスライクな装いで、手にはタブレットを持っている。
「遅れてごめん」
陽太は謝りながら、みのりを紹介する。
「彼女が佐藤みのりさん。特別な感覚を持つ人だよ」
真理はみのりを上から下まで見て、小さく頷く。
「ようこそ、佐藤さん」
彼女の声は礼儀正しいが、どこか距離を感じさせる。
「陽太があなたのことをずいぶん話していたわ」
みのりは小さく頭を下げる。真理の鋭い視線に、彼女は萎縮してしまう。
「さあ、もう準備は整ってるわ」
真理は陽太に向き直る。
「演奏者たちは待機してるし、早く始めましょう」
陽太は頷き、みのりに向かって言う。
「録音ブースを見学しましょう」
彼に導かれ、みのりはスタジオの奥へと進む。大きなガラス窓の向こうには、様々な楽器を持った演奏家たちが待機している。ピアノ、バイオリン、チェロ、フルートなど、小編成のオーケストラだ。
「ここで私の曲が形になるんです」
陽太は誇らしげに言う。
「みのりさんのインスピレーションが、音になる瞬間です」
みのりはガラス越しに演奏家たちを見つめる。彼女の中で、また窓ガラスの向こう側を見ている感覚が蘇る。しかし今回は、彼女自身がその向こう側へと踏み出そうとしている。
「では始めましょう」
真理が指示を出し、エンジニアたちが機材を操作し始める。
陽太は最後に楽譜を確認し、演奏家たちに向かって合図を送る。みのりは小さなソファに座り、これから始まる演奏を待つ。彼女の心は期待と緊張で満ちている。
音楽が始まった。最初の音が空気を震わせた瞬間、みのりの中で色彩の世界が広がり始める。紫から始まり、青、青緑、そして黄金色へと変化していく壮大な色彩の旅。それは彼女がコーヒーを通して感じていた色彩と、見事に共鳴している。
みのりは思わず目を閉じ、音楽に身を委ねる。その瞬間彼女は自分が、閉ざしていた世界から一歩踏み出したことを実感した。
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