香りと音色が紡ぐ季節
きょしょー
プロローグ:「閉じた窓の向こう側」
コーヒーの香りは色を持っている。
みのりはそう確信していた。エチオピアのイルガチェフェは鮮やかな紫紺色の光沢を放ち、コロンビアのウィラは温かみのある琥珀色に輝く。ブラジルのセラードは深い森の緑を思わせ、グアテマラのアンティグアは明るい黄金色の波動を発する。それは単なる共感覚という言葉では片付けられない、みのりだけの秘密の世界だった。
カフェの窓ガラスに映る自分の姿が、透明で儚く見えた。外の世界は色鮮やかに動いているのに、みのりの存在だけが薄い影のように揺らめいている。彼女の心は淹れたてのコーヒーから立ち上る湯気のように、目に見えるようで掴めないものだった。
「みのり、こっちのお客さんにモカブレンド持ってってくれる?」
穏やかな女性の声が、静かな店内に響いた。小さな古時計の秒針が刻む音と、遠くで鳴るジャズのサックスの音色が、みのりの内側で混ざり合う。彼女はゆっくりと息を吐き出し、トレイに載せられたカップを手に取った。
「季節の音」という店名が記された、深みのある青のエプロンをつけたみのりは窓際の席に向かった。日差しが斜めに差し込む午後三時。ガラス越しに見える銀杏並木の葉が、まばゆい黄金色に輝いている。その光景は、彼女の中で一瞬、ドビュッシーの「月の光」のような旋律に変換された。
カフェ「季節の音」は、駅前の喧騒から少し離れた場所にひっそりと佇む、古民家を改装した小さなカフェだった。店内には年代物の家具や雑貨がセンス良く配置され、どこか懐かしい雰囲気が漂っている。床は古い木材で、歩くたびに微かに軋む音が心地よい。壁には地元の芸術家の絵画がいくつか飾られ、季節ごとに入れ替えられる。今は秋の風景画が柔らかな色彩で空間を彩っていた。
「お待たせしました」
みのりは静かに言って、カップを置いた。テーブルに広げられた楽譜の束が目に入る。五線譜の上に踊る音符の群れは、彼女の目には黒い蟻の行列のようにも見えたが、その一つ一つが持つ潜在的な音色は、彼女の中で既に色彩となって広がっていた。
「ありがとう」
男性の声は低く、少し疲れたような響きを持っていた。みのりは一瞬だけ顔を上げ、その人の表情を窺った。三十歳前後だろうか。黒縁の眼鏡の奥に、穏やかだが何かを探し求めるような目があった。指先は長く、ピアニストのようだ。だが、その手はペンを持ち、楽譜に何かを書き込んでいる。作曲家か、編曲家なのかもしれない。
みのりは小さく頭を下げ、カウンターへ戻ろうとした。
「あの、すみません」
突然、男性の声が彼女を引き留めた。みのりは足を止め、ゆっくりと振り返る。
「このコーヒー、いつもと違いますね」
みのりは小さく息を飲んだ。確かに今日のモカブレンドは、いつもと配合を変えていた。それは彼の書いている楽譜を一瞥した時、無意識のうちにした判断だった。通常より浅煎りのエチオピアを増やし、酸味を強調したブレンド。彼の作曲に足りないと感じた「明るい黄色の音色」を補うように。
「少し…配合を変えてみました」
みのりは小さな声で答えた。自分でも驚くほど静かな声だった。彼女は高校に入学してから、人と話すことがこんなにも難しくなっていた。
「素晴らしい」彼は微笑んだ。
「このコーヒーを飲んだら、さっきまで浮かばなかったメロディが聞こえてきたんです」
みのりは目を見開いた。彼の言葉は、彼女の秘密の世界に足を踏み入れるような感覚を与えた。これまで誰にも理解されなかった彼女の共感覚を、この見知らぬ人は何か感じ取ったのだろうか。
「橘さん、次の打ち合わせの時間ですよ」
店の入り口から声がかかった。スーツ姿の女性が、腕時計を指差している。彼—橘さんと呼ばれた男性は少し残念そうな表情を浮かべ、楽譜をカバンにしまい始めた。
「また来ます。同じコーヒーをお願いします」
彼は立ち上がり、みのりに向かって軽く会釈した。その背中が遠ざかるのを見送りながら、みのりは不思議な感覚に包まれた。まるで、閉ざされた窓の向こう側から、誰かが彼女に手を振っているような。
佐藤みのりは十六歳。入学式当日に高熱を出して以来、学校に通えなくなった休学中の高校生だ。発熱は単なるきっかけに過ぎなかった。本当は、大勢の人の中にいることへの不安と恐怖が彼女を縛り付けていた。人と話すことが怖くなり、同級生との関係を築けないまま、今は親戚の叔母が経営するこの小さなカフェで働いている。
彼女の世界は、このカフェの窓ガラスのように透明で、でも確かな境界線があった。外の世界は色鮮やかに見えるのに、手を伸ばしても触れられない。彼女にとって、コーヒーを淹れることだけが、自分の存在を確かめられる唯一の行為だった。
叔母の雪子は、そんなみのりをいつも温かく見守っていた。無理に学校へ戻るよう促すことはなく、彼女のペースを尊重してくれる。「あなたの感じ方は特別なのよ」と時々言ってくれるが、みのりは自分の感覚が「特別」なのではなく、「異常」なのではないかと怯えていた。
だが今日、その窓ガラスに小さなヒビが入ったような気がした。橘という名の男性が、みのりの見る色と音の世界に、ほんの少しだけ共鳴したような気がして。
みのりは棚に陳列されたコーヒー豆の前に立ち、深呼吸をした。明日、彼が再び訪れたらどんなブレンドを作ろうか。どんな色の音色を彼に届けようか。考えているうちに、彼女の心に小さな期待が灯った。それは、長い冬の後に感じる、かすかな春の気配のようだった。
窓の外では、夕暮れの光が街を柔らかく包み込み始めていた。みのりは窓越しに外を見つめながら、初めて明日が待ち遠しいと感じていた。
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