潮騒のすきま

学生の頃、夏休みに親戚の紹介で海辺の民宿に住み込みのアルバイトをした。

山と海に挟まれた、小さな港町。民宿は古く、廊下を歩くとギシギシと音が鳴った。

「ここは、夜に海へ行っちゃダメだよ」

女将さんにそう言われたが、特に理由は教えてくれなかった。


夜は静かだった。けれど、耳をすますと何かが聞こえる気がした。

砂を引くような、潮の音ではない。もっと近くで、乾いた音。

ある夜、廊下の隅に目を向けると、柱の隙間から“誰か”がこちらを覗いていた。


瞬きをしたら、いなかった。

気のせいかと思った。でも、その夜から変な夢を見るようになった。


波打ち際に、背の曲がった女が立っている夢だ。

顔は見えない。けれど、夢の中で何かを囁いていた。

「こっちへ、おいで。見えるだろう?」


夢を見た翌朝、部屋の壁と家具の間に、わずかな隙間ができていた。

その隙間から、何かがこちらを覗いている気配がした。


日が経つごとに、隙間は増えた。

タンスの後ろ、襖のふち、天井と梁のあいだ。すべて、少しだけ空いていた。


ある夜、決意してそのひとつに耳を当てた。

「……みえる。おぼえてる。うみのなか……」

冷たい声が、隙間の奥から響いた。


次の朝、もう一人のバイトの子がいなくなっていた。

女将は何も語らず、ただ「帰るなら、今のうちだよ」とだけ言った。


その日、荷物をまとめて帰ろうとしたとき、民宿の床下から、あの“潮を引くような音”が聞こえた。

見ると、床板のすきまがゆっくりと開いていた。

下から、濡れた女の目が覗いていた。


……数年後。

僕は都内で暮らしている。就職もし、忙しい日々の中で、あの夏のことは忘れかけていた。


けれどある夜、ふと部屋の本棚と壁の間に気づいた。

ほんの少しだけ、隙間が空いていた。

そこに、目が――いや、濡れた何かが覗いていた。


翌朝、床に塩のような砂が落ちていた。

どうしてこんなものがここに――そう思った時、


耳元で、ささやく声がした。


「……つぎは、もう かくれられないね」

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