白の遠鳴り

その土地には昔から、「白音(しろね)」という不思議な風習があった。

夏の終わり、田んぼに白い布を立て、風の音を聞くというものだ。

音がよければ豊作、濁って聞こえればその年は不作、という言い伝えがある。


大学生の俺は民俗学を専攻していて、たまたまその儀式が残るという村を訪れた。

村は山あいにひっそりとあり、携帯の電波も届かない。けれど、古いしきたりがそのまま残っているのが面白くて、地元の民宿に泊まることにした。


白音の祭りは、日暮れ前の一時間だけ行われる。

田んぼのあぜ道に、真っ白な布が立ち並ぶ。

風が吹くと、布がはためき、「ふわ…ふわ…」と微かに音を立てる。

それが"白の遠鳴り"。耳を澄まさなければ聞こえないほどの音だ。


俺は布の列の終わりに腰を下ろし、録音機器を構えていた。

その時、少し離れたところで、白い着物を着た背の高い人影が立っているのに気づいた。

祭りの参加者かと思ったが、そちらに目を向けると、その人影がふわりと揺れた。

風が吹いているのに、布は揺れていない。だが、その人影だけが、風に逆らうようにゆっくりと揺れていた。


妙だと思っていると、村の子どもが駆け寄ってきて、「あっち見たらダメだよ」と言ってきた。

どうして、と聞くと、「白音は風の音だけ。人の音は混じっちゃダメなんだって」と言う。


その晩、泊まっていた民宿の老婆が言った。

「風が鳴る音に、人の声が混じったら、もうその土地の音じゃなくなるんだよ。だから、白いものが見えたら耳を塞いで目を閉じなさい」

冗談とも本気ともつかない口調だったが、その目だけは真剣だった。


夜、眠れずに縁側に出ていると、遠くから、誰かが呼ぶ声がした。

「ふふ…ふふふ…」という笑い声のような声も混じっていた。

けれど、その声はどこか歪んでいた。高いのに、低い。

近いようで、遠い。

白い布のあいだから、長い腕のようなものがゆっくりと揺れていた。

それが風のせいなのか、それとも誰かが立っているのか、わからなかった。


翌朝、民宿の老婆は、俺が録音していた機器を見て、そっと言った。

「消しなさい。その中に混じっていたら、もう戻れないよ」


帰りの電車で、ふとイヤホンで昨夜の録音を再生してみた。

最初は、ただの風音。

やがて、どこかで聞いたような「ふふふ…」という声が、小さく混じっていた。


一度聞いてしまったその音は、今でも耳の奥で遠く鳴っている。

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