不穏

 やつれた印象を与えるほっそりとした体躯と、少し疲れが滲んだ表情。透き通る青い目と、深い茶の髪。

 大量のシーツが押し込まれた洗濯籠を両腕に抱えた女性は、階下の人影に気付き、手すり越しに身を乗り出す。


「リリィ、お客様?」


 しかし、呼びかけられた少女は仏頂面で女性から顔を逸らした。


「突然押しかけてすみません。旅の者です」


 よく通るエリアスの声に続いて、レネが静かに会釈する。慌てて階段を下りた女性は、上階の二部屋を手で示した。


「あら、お出迎えできずにすみませんね。どうぞこちらへ。今、ちょうどお掃除が済んだところです」


 重そうな籠を床に下ろした女性はそう言うと、不機嫌そうな表情を浮かべるリリィに声を掛けた。


「リリィ。申し訳ないんだけど、その籠、ランドリーまで運んでもらえるかしら?」


「ええ? どうしてあたしが。タリアおばさんがやってよ」


 眉根を寄せて不満げな声を上げるリリィに、タリアと呼ばれた女性は少し困ったように息を吐く。


「それなら、いいわ」


 リリィは満足そうに頷くと、階段を上がっていくエリアスに手を振る。


「ねえ、エリアス! 後でお部屋に遊びに行ってもいい?」


「だーめだ」


「リリィ! わがままを言っちゃだめよ。お客様に失礼だわ」


 エリアスの軽い言葉に、タリアの声が重なる。

 誰からも同意を得られなかったリリィは、拗ねたようにぷくっと頬を膨らませて見せた。


「何でよ。何であたしが行っちゃいけないの?」


 口角を上げて、どこか冗談めかして言われた言葉。けれど、レネの目にはリリィが笑っているようには見えなかった。くすんだ青い瞳が、冷たい。


「誰も、そんなこと言ってないとおも……」


「わがままなんて言ってない。パパとママだったら、あたしのことをわがままなんて言わない!」


 静かに呟いたレネの言葉を遮って、リリィが言葉を続ける。その口調は少しずつ強く、震えたものに変わっていく。

 何か、変だ。

 レネは少しずつ冷えていく空気に、隣に立つエリアスをそっと見上げる。普段と変わらない落ち着いた目がそこにあって、少し安心する。


「パパとママはあたしを否定しないもん! ずっとそばで、あたしを大事にしてくれるもん!」


 呼吸が荒くなり、その目はどんどん冷えていく。


「リリィ?」


 タリアが、おろおろと戸惑った声音で少女の名前を呼ぶ。


「ずっと……そばで……」


 きん、と、空気が張り詰めた音が聞こえた気がした。

 リリィの足元に、ぼたりと黒く光る水滴が落ちた。


 あ、来る。


 その肩口から、黒い翅がふわりと広がった。その翅はレネの両手では包み切れないほどに大きく、ところどころ擦り切れている。

 生まれてきたルゥアの姿に気付いたレネが、はっと息を飲む。ちらりとエリアスに視線を送ると、彼は何も言わずに頷いた。


「もういい!」


 そう言うとリリィはホテルの玄関の扉を開け、眩しい日差しに照らされた街へと出て行ってしまう。勢いよく閉まった木製扉が、思いのほか大きな音を立てる。

 一瞬の間の後、タリアが深いため息を吐いた。


「ごめんなさいね。あの子、私の姪なんですが、うまく躾けられなかったせいでわがままを言うようになってしまって」


 蝶の見えないタリアは、困った表情で彼女が出て行った扉を見つめる。


「彼女、何かあったんですか? 船着き場で、誰かを待っていたようですが」


 エリアスの問いかけに、タリアは静かに頷く。


「あの子、両親がいないんです。もう三年になるかしら。舟の事故で」


 タリアはそう言うと、白い腰エプロンの裾で目元をそっと拭った。


「リリィは、まだ両親の死を受け入れることができずにいるみたいなんです。誰に対しても頻繁に嘘をつくようになって。両親が帰ってくるからと言っては、毎日船着き場で帰らない両親を待つようになって」


「そうでしたか」


 さりげなくタリアにハンカチを差し出して、エリアスが相槌を打つ。


「あら、ごめんなさい。大丈夫よ」


 恥ずかしそうに笑顔を浮かべたタリアは、エリアスとレネの顔を交互に見つめた。


「あの子、もしかしたら失礼な態度を取ってしまうかもしれませんが、許してあげてくださいね」


 タリアの目は、まだ街に続く扉に向けられていた。

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