少女の悲しみ

「家、どこだ? 送ってくぜ」


 高く昇った日が傾き始めた頃。すっかり涙の乾いた少女は、にこりと笑顔を浮かべ、差し出されたエリアスの手を取った。反対側の空いた手を伸ばされ、レネは戸惑いながら手を繋ぐ。


「ありがとう。お兄ちゃん、お姉ちゃん」


 温かい陽光は弱まり、草地には冷たい風が吹き始めている。

 舗装されていない細い小道を辿り、石畳の通りを抜け、先ほどの広場に出る。店じまいに忙しい露店の脇を抜け、円形広場から四方に広がる道のうち、南へと向かう一本を進む。


 後ろから、音もなく黒い蝶が追いかけてくる。


 少女は、リュシエールの町の南側に広がる日当たりのいい住宅街を進み、一件の家の前で足を止めた。

 赤茶の煉瓦で造られた素朴な家。その玄関先には質素なデザインの大型プランターがいくつも置かれ、植えられた花のつぼみが夕風に揺れている。

 くすんだ真鍮製のドアベルを鳴らすと、少女と同じ栗色の髪をまとめた女性が扉を開けた。


「ミーナ?」


「ママ!」


 名前を呼ばれた少女が繋いでいた両手を離し、女性のスカートに抱き着く。


「あなた、一体どこに行っていたの? まさか、また花畑に行っていたんじゃないでしょうね?」


 小言に繋がりそうな雰囲気を察して、ミーナはふいっと視線を逸らす。少女から聞き出すのを早々に諦めた母親は、ちらりと後ろに立っていたレネとエリアスに視線を移した。

 なんと答えるべきかわからず、レネも助けを求めるようにちらりとエリアスを見やる。


「あー、っと。小さなレディーの秘密を守りたいので、黙秘でお願いします」


 集まった視線の先でへらっと笑ったエリアスが、ミーナに目配せをする。


 その返答に、ミーナの母は肩を竦めた。


「それで、あなたたちは?」


「旅の者です。俺はエリアス。彼女はレネ」


 レネが戸惑いがちに頭を下げると、スカートからミーナを引きはがした女性は温かい笑顔を浮かべた。


「旅人さんだったの。ミーナの母のエレナよ。二人とも、今夜止まる場所はもう決まってる? もしよければ、うちに泊まって行かない?」


「いいんですか?」


 ためらう素振りも見せず、エリアスが満面の笑顔で即答する。


「娘を連れてきてくれたお礼よ。二人暮らしだから、部屋は余っているの。賑やかになって、この子も喜ぶわ」


 気付けば下から見上げてくる視線が、期待に煌めいている。


「お姉ちゃんたち、泊まっていくの?」


「そうよ。あなたは先にお風呂に入っちゃいなさい。あちこち泥だらけよ」


 母親に促されたミーナが、不意に強い力でレネの手を引っ張った。


「お姉ちゃん、一緒に入ろう?」


「えっ、ええっ?」


 小さな手を振り払うわけにもいかず、されるがままに家の中に連れ込まれてしまう。困った顔をするレネに、エレナは苦笑を向けてくる。


「ごめんね。嫌じゃなかったら付き合ってあげてくれる? あなたのことが気に入ったみたいよ」


「えっ、でも私……」


 戸惑いの言葉は少女には届かないまま、浴室のドアがバタンと閉まった。


 熱い風呂に入らされ、手際よく準備された夕食の席に通され、気が付けばレネは小さな少女の横で食卓を囲んでいた。

 ミーナは町のことや好きなもの、最近あった楽しい出来事なんかを思いついた順にまくしたてていく。


「ほらほら、ごはんも食べようぜ。ママが困ってるし、これ、すごくうまいぞ」


 息継ぎすら忘れていそうな少女の話に大げさなリアクションを返しながら、時折エリアスは上手に子供の意識を食事に戻す。


「お姉ちゃん、一緒に寝よう!」


 食後の片付けくらいは手伝おうと食器を運び始めたレネの腕を、ミーナの手が引っ張った。


「えっ、一緒に?」


 戸惑うレネの様子を見たエレナが、小さな娘を諫めた。


「ミーナ。お客様は別のお部屋を用意するからいいのよ。あなたのベッドは、二人で使うには小さいでしょう?」


 その途端、少女は火がついたように泣き出した。


「やだ! カミラお姉ちゃんは、ずっと一緒にいてくれたよ! お姉ちゃんと一緒がいい!」


 ああ、この子が一緒にいたいのは、実姉のカミラさんなんだ。

 悲痛な泣き声を聞きながら、レネはぼんやりと悟る。不思議と、不快な感じはしなかった。


「ねえ。わた……、レネお姉ちゃんが一緒にいてもいい?」


 しゃがみ込んで問いかけると、ミーナは涙で赤くなった大きな目を向けてくる。ハンカチでその目を拭きながら、許しを得るように彼女の母親を見た。


「ごめんね。寝かしつけだけ、お願いしちゃっていい? 絵本を読んでくれれば、すぐに寝るはずだから」


「はい、私で良ければ」


 少し硬い答えを返したレネは、運ぼうとしていた食器のトレイをシンクの脇に置くと、手を引かれるまま子供部屋に入る。

 部屋の中には本でいっぱいになった棚と、小さな机が二つ並んで置かれていた。上段が荷物でふさがれた二段ベッドに潜り込んだミーナに、開き癖のついた絵本を読んで聞かせる。


『大きくなったら、お花屋さんを開きましょう。野ばらにひまわり、カスミソウ。ガーベラ、あじさい、ラベンダー。お花屋さんを、開きましょう……』


 微かに揺れる蝋燭の灯りの中、眠りに落ちた少女の周りを黒い蝶がひらひらと舞う。鱗粉をまき散らしながら。


「お姉ちゃん。カミラお姉ちゃん……」


 レネは一瞬だけ、息を止めた。


 微かに漏れた声とともに、ミーナの目元に涙が光る。

 空中を舞った鱗粉を手で振り払うと、電気が走るようなぴりっとした痛みが指先に伝わる。

 レネの指先に、黒い蝶が止まった。その途端に、誰かの悲しみが脳裏に流れ込んできた。


 行かないで。行かないで。行かないで。

 約束を、守れなくなっちゃう。

 周りの大人たちはみんな、もういい加減に前を向こうねって言うの。

 お姉ちゃんのことを忘れていいよって。

 私は、忘れたくないのに。

 ずっと、忘れたくないのに。


 黒い蝶が飛び立って、生々しい感情の波が遠ざかる。


「ルゥアが吸い取った、ミーナの感情……?」


 荒い呼吸を押さえて、足音を立てないようにレネはそっと子供部屋を後にした。

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